【大洋浪漫譚】試読


 もやの掛かった水面で、一匹の魚が跳ねた。生まれた波紋は静かに広がって、すぐにまた元の凪いだ静けさが訪れる。
 風が吹くと周囲の木々がサワサワと遠慮気味にさざめき立つが、この芸術的な静寂を乱す程ではない。
 それなりの広さを誇る面積の端には、見目鮮やかな深紅の館が聳え立つ島が、霧の中にシルエットとして浮かび上がっている。
 誰もいない霧の湖は、近寄りがたいまでの静けさに支配されていた。
 しかし、その静けさの中に突然異変が生じる。
 始まりはとても些細な変化だった。
 風も吹いていないというのに湖全体に波が立ち始めたのだ。
 始めは小刻みだった波は、次第に大きく高いものへと、その規模を増していく。 
 危険を察した鳥や小動物は羽を一斉にその場から離れだし、仲間に危機を知らせるため悲鳴にも似た鳴き声を上げる。一体何が起こったのかと会話でも始めたかのように、木々のざわめきまで激しくなる始末だ。
 高波は岸を越えて飛沫を散らす。さらに大きな高波が寄れば一帯は水浸しになることは間違いない。
 あっという間に静寂は破壊され、霧の湖畔は物々しい雰囲気に包まれる。
 その騒ぎの中、湖畔に佇む夏にも関わらず氷でできた小さなイグルーの中には、この異変にも気づかず呑気に寝息を立てている者が居た。
「えへへ、あたいってばさいきょー……スゥ」
 寝言まで漏らしながら爆睡しているのは、この近辺を縄張りにしている氷の妖精、チルノである。
 枕代わりのクッションに、よだれでシミを作る姿からは起きる気配がまったく感じられない。
 脳天気なチルノをよそに、家の外ではどんどん湖に生じた異変は激しくなっていく。
 そしてついに、チルノの家を飲み込むほどの巨大な津波が生じ、哀れチルノは寝耳に水どころではない、寝顔に洪水をお見舞いされてしまったのである。
「ゲホッ、ゴホッ! な、何何何っ!?」
 全身に水を浴びさせられ、びっくりして飛び起きるチルノ。さすがにここまでされて起きないほどの図太い神経はしていなかったようだ。
 寝起きの上そもそもが理解力の乏しい頭では、まず何が起こったのかを判断するのに三分かかった。
 周囲を見回し、そして最後に自分がびしょ濡れになっていることにようやく気がつくと、チルノは素っ頓狂な声を響かせた。
「何よコレえええぇぇっ!」
 憤慨しながらどこのどいつがこんなことをしでかしてくれたのかと、家を飛び出して犯人を見つけようとする――が、辺りにそれらしい影はない。
 しかし、チルノはすぐに湖の様子がおかしいことに気がつき、岸辺へと駆け寄った。
 いつもは凪いだ水面が、まるで何か大きな衝撃を受けたように荒れている。魚が跳ねた程度とは比べものにならない。
 そしてチルノは見た。
 黒く巨大な影が、湖の中心に向かってゆっくりと消えていく様を。
 チルノは呆然とそれを見送りながら、必死に状況を考える。
 突然の水浸し。荒れた湖。巨大な影。
 これらの状況証拠からチルノが出した結論、それは――

「これは……異変に違いないわっ!」

 チルノは怒っていたことも忘れ、嬉々とした表情を浮かべて、すぐにこのことを誰かに知らせようと行動に移った。
 とは言ってもチルノにとってそれを知らせるような知り合いは限られてくる。
 一番の友人であり、それ以外に大した相手がいないため、居場所も比較的捉えやすい、親友の家を尋ねた。
「だから、あれは湖の主だって!」
「落ち着いてよ、チルノちゃん。話が見えてこないよ」
 チルノを “ちゃん ”と付けて親しげに呼ぶのは、空色のワンピースが清楚な印象を与える、通称『大妖精』と呼ばれる妖精だ。
 昼食の準備をしていると、突然チルノがやって来て、遊びの誘いかと思ったらこんな話を聞かされる羽目になっている。
 言いたいことが先行して説明不足なチルノを、ひとまず宥めようと、大妖精は蜂蜜を溶かした水を差し出した。
「ほら、これでも飲んで」
「ん、ありがと」
 そう言ってチルノは一気にそれを飲み干すと、幸せそうな顔で溜息を吐いた。
 しかし、すぐに和んでいる場合ではないことを思いだし、またも大妖精に詰め寄り早口でまくし立て始める。
「って! 美味しく和んで場合じゃないわ! 異変よ、異変! しかもこれはそんじょそこらの異変じゃないわ!」
「じゃあどんな異変なの?」
「もっちろん! 大異変よっ!」
 大妖精は、思わず「あ、そうなんだ」と言ってしまいそうになったのを、苦笑を浮かべてなんとか誤魔化す。
 確かに話を聞く限り、大変なことかもしれないという意思だけは伝わってくる。
 でも、それを自分達のような妖精がどうするというのだ。
「それで、チルノちゃん。その大異変をどうするつもり?」
 また無茶をするつもりならどうにか他のことで気を紛らわせて、あまり下手なことをさせないようにしなくては。
 妖精の中にはチルノを始め、妖怪のように異変を起こして人間達に一泡吹かせてやろうと目論む者達もいる。
 チルノがその異変とやらを利用して、何か企んでいるのは火を見るより明らか。どうせ無謀な事を言い出すはずだ。
「この異変、放っておいたらどうなると思う?」
「どうって……そりゃあ巫女とか魔法使いが解決するんじゃないの」
「そう! 異変解決はいつも人間達の手柄になっちゃうの。あたい達は普段異変を起こす側だわ」
 そんなことが言えるほど、妖精の中に異変を起こした者は大妖精の記憶にはない。
 チルノも幾度となく、人間や他の妖怪にアッと言わせるような異変を考えてきたが、その結果は言わずもがな……。
 だからだろうか、これはチルノにしては逆転の発想と言えるかもしれない。
「だから今回はあたい達が、人間よりも先に異変を解決してやんのよ!」
「えぇ〜っ!?」
 ちなみに今の「えぇ〜」は驚きではなく、露骨な呆れを表現したものだ。
 確かに異変をあの人間達よりも先に解決したとなれば、チルノの評判も上がるかもしれない。
 しかし下手に動いて人間と鉢合わせになったりしたら、異変解決どころか異変の首謀者とか共犯者とか、兎に角目障りだとかそういう理由でやられるかもしれない。
(あぁ、やめておいたらって言うべきかなぁ。でも、今のチルノちゃんを止められるような良いアイデアは無いし……)
 大妖精はチルノと違って、妖精の中でも温厚で保守的な性格だ。危ないことには、余程の理由がなければ首を突っ込まないし、危険と分かればすぐに逃げ出す。
 チルノから言わせれば、大妖精は臆病すぎるとのことだが、おかげで無駄に退治されたりせずに済んでいるのも確かだ。
 その危険を回避してきた者としての勘が告げている。この一件からは手を引いた方が良いと。
(でもなぁ……チルノちゃんはノリノリだし)
 あまり強く言いすぎてもケンカになるだけだし、チルノは一人でも異変解決に乗り出すだろう。しかし、それでは意味がない。
 そうやって、すぐ隣にいる大妖精が頭を悩ませているにもかかわらず、チルノはあれやこれやと早速プランを立て始めている。
 そんな2人とは別に、この件に絡もうとしている連中が居た。

   ***

「ちょっとちょっと! 聞いた?」
「バッチリ聞いたわ。ちょっとからかってやろうかとチルノの後を付けてきてみたら、面白そうな話をしてるじゃない」
 大妖精の家の外、樹皮を隔てた外側でチルノと大妖精の会話を盗み聞きしているのは、三人の妖精達だ。
 ツインテールと赤い衣装のサニーミルク。金髪縦ロールと白い衣装のルナチャイルド。黒髪ロングヘアーと青い衣装のスターサファイア。
 光の三妖精と呼ばれる、いつも三人で行動している妖精達だ。
 チルノとも面識があるが、大妖精のように、格別仲が良いというわけではない。
 彼女達は、本当は湖に水浴びに来たのだが、なんだか急ぎ足でどこかに向かっているチルノを見つけ、予定を変更して後を付けてきたという次第である。
「それにしても、あの氷の妖精も中々面白いことを思いつくわね」
「ホントホント。私達に比べてだいぶ頭の方は宜しくないのに。なかなかどうして、異変を解決する側に回るなんて良いアイデアじゃない」
 ルナの言葉にサニーもはしゃいだ様子で乗り気であることを示す。
 どうやら三人は、チルノの考えている計画を横取りしようと目論んでいるらしい。
 この三人もまた、何か大きな事をして妖精の地位を向上しようと考える側の妖精達なのだ。
 しかし三妖精はチルノよりも頭が良く、自分達にそれだけの力が無いことも頭のどこかでは理解している。
 だが異変の予兆さえ感じ取れば、そこから派生させて、何か大きなことができないものかと考えてしまうあたりは所詮妖精だろう。
「そうと決まったら、さっそく湖に行きましょっ。あの子達が動き出す前に、私達が異変を解決するのよ」
「「おぉーっ」」
 サニーの提案に、ルナもスターも威勢良く腕を振り上げ同意する。
 まさか家の外でそんな会話が繰り広げられているなど、露とも思わないチルノ達は未だ家の中でそれぞれの考えに耽っている。
 三妖精はいざ出し抜かんと、付けてきた道を逆戻りし霧の湖へと足を急がせた。

 そうしてやって来た霧の湖は、異変が起こっているどころか至って平穏静謐。何かが起こっているのかを見つける方が難しいくらいに穏やかな様相しか見せていない。
 あれだけチルノが大騒ぎしていたから期待してやって来たというのに、これでは拍子抜けも良いところだ。
 せっかく誰よりも早く異変の予兆を察知し、先手が打てると思っていたのだが何も起きていないのでは、先手も何もあったものではない。
「はぁ〜っ……何よ、あの氷精、寝惚けていたんじゃないの?」
 一番乗り気だったサニーは、三人の中で一番大きな溜息を吐きながら落胆を露わにする。
 その隣でルナも残念そうに肩を落とす中、スターだけは最初からこんなことだろうと思ってでもいたのか、あまりそういった様子は見せずにいた。
「まぁ、あの氷精のことだもの。この暑さだし、夢と現実の区別が付かなくなっちゃっていたんじゃない?」
「それにしては結構鮮明に覚えていたみたいだったのになぁ」
「ぼやかないぼやかない。私達は水浴びをするためにここに来たのよ? 当初の目的を全うすれば、ここに来た意味は大いにあるわ」
 そう言って、イソイソと着替えの準備を始めるスター。
 その切り替えの早さに、サニーとルナは感心したものやら呆れたやらで、しばらくぼーっとしていたが何もせずに帰ったのではそれこそ意味がない。
 サニーとルナもそれぞれ準備してきた水着に着替えようと、衣服に手を掛けた。
 ――が、その時である。
「な、何これ!?」
 着替えている途中の格好でスターが素っ頓狂な声を上げた。いつもの彼女らしからぬ声調に他の2人も着替える手を止める。
 スターが見据える先には何も変わらない凪いだ湖。魚一匹跳ねやしない静かな光景に、サニーとルナは揃って首を捻った。
「どうしたのよ、もしかして水着がきつくなったとか?」
「違うわよっ! って、冗談言ってる場合じゃないわっ」
 スターは慌てた様子で脱いだばかりの服に袖を通し始める。
 そしてサニーとルナにも、すぐに片付けてここを離れるように口早に指示を飛ばす。
 どうやらサニー達には計り知れない所で、何か危険なことが迫っているらしい。
 スターの察知能力は信頼できることもあり、サニーもルナも眉をひそめながらも服を着直し始めた。
「ねぇスター。何がそんなに危ないのよ」
「あーもーっ、説明してる時間も無いの! ――来るわよっ!?」
 スターが言わんとしていることは、二人にもすぐ理解することができた。
 チルノを襲った津波が発生した時同様、なんの前触れもなく水面が波打ち始めたかと思えば、あっという間に岸辺を越えるほどの荒波が立ち始めたのだ。
「ちょっ、一体何がどうなってるのよ!」
「だから言ったじゃないっ、まずはさっさと着替えて」
 スターの怒声が飛んだのは、三人の中では行動が遅れることの多いルナだ。未だ靴下を履くのに手間取っている。
 直後、チルノとその家を襲ったのと同じくらいの高さの波が辺り一帯を飲み込んだ。

 そして、三妖精はどうなったのかというと……
「っはぁ〜っ……間一髪だったわね」
「もうっ、もう少しで流されていたじゃない」
「何よ。急に言われたら仕方ないでしょ。それになんとか助かったんだし良いじゃない」
 三人はかろうじてギリギリの所で波よりも高い位置に飛び上がり、真っ正面から飲み込まれるようなことにはならずに済んでいた。
 ひとまずはそのことに安堵の息を漏らすサニーとルナ。
 しかしスターはまだ湖の方に険しい視線を向けたままで、緊迫した雰囲気を醸している。
「どうしたのよ」
「まだよ。まだ……来る」
 スターの言う「来る」というのは、先ほどの波のことではないのか。
 サニーもルナも、スターの感じているものがわからず首をかしげていたが、サニーはあることに気がついた。
 スターの能力で感知できるのは“生き物の気配”だ。しかし、波というのは自然現象であり、生き物ではない。
 つまり、スターが察知したのは波ではなく、その波の向こうにいる何者か。この波を起こしたのも、そいつが張本人である可能性が高い。
「湖に何か居るのね?」
「うん。でも、わからないの。かなり大きな気配であることは確かなんだけど。それになんだか妙な感じ……」
「妙って……どういう事よ」
「なんて言っていたらいいのかしら。すごく大きいのに、気配そのものは希薄というか……」
 スターの説明で、兎に角湖に巨大な何かが居ることは分かった。チルノもそんなことを言っていた気がする。
 しかし、その気配が希薄というのがどうにも分からない。言っている本人も分かっていないのでは、聞いても仕方がないことか。
「……ねぇ、二人とも」
 謎の気配について話していたサニーとスターの間に、息を整えていたはずのルナが割り込んでくる。
 しかし、その視線は2人の方には向けられていない。
「何?」
「あ、あ、あ……」
「あああ?」
「あれ……何?」
「あれ?」
 呆然とした呟きと共に、ルナが指で示す先には件の湖。しかし……

「「な、何よアレはあああぁぁぁっ!?」」 

 スターとサニーが揃って叫ぶ。
 三人の視界に映ったのは、巨大な巨大な魚――の骨格が飛び上がる姿。
 その巨大さときたら、幻想郷縁起の注釈にあった、文献でのみ記録が残っているという十尋(約十八メートル)と同等くらいだ。妖精三匹程度なんて、一口で丸呑みにしてしまいかねない。
 先ほどまでの荒波は、その巨体が水面に浮上してきたために起こったものらしい。
 そして、声も出せずにその光景をただただ見つめるしかない三人の前で、その巨大な骨だけの体躯は悠然とした動きで再び湖の中へと姿を消していく。
 三人はその巨躯が完全に消え、湖が再び静寂に包まれるまでその場を全く動くことができなかった。


以下、本編へ


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