歳月のみぞ識る


 下界は最近雨が降り続いている。
 しかし天上にある為、この冥界白玉楼は年中晴天だ。
 ただし梅雨時になると、その湿気がここまで上がってくる。
 日差しに暖められた湿気はたちが悪く、すぐにカビの原因となりうる為、
 白玉楼で一切の家事を取り仕切る魂魄妖夢は困っていた。
 今も衣装箪笥の中をすべて出し切り、カビが生えないようにたたみ直している最中である。
「あ……」
 その衣服の中から、妖夢は一着のワンピースを持ち上げた。
 いつも愛用している緑色のワンピース。
 手の中にあるのは、それをそのまま小さくしたものだ。
 妖夢はその小さな服を愛おしむように抱きしめた。
 それはずっと昔に、彼女が着ていたもの。
 思い出の詰まった大切な大切な服で、どれだけ歳月が経っても捨てずにおいてある。
 この服を来ていた頃は、この白玉楼で主である西行寺幽々子と、
 師匠であり育ての親である魂魄妖忌が側にいた。
「師匠……」
 幽々子は変わらず大食漢のまま――亡霊なのに――元気に過ごしている。
 しかし、妖忌は忽然と姿を消したまま、その行方は今も知れていない。
 どうしていなくなったのか、今どこにいるのか。
 すべてが謎に残されたまま、当時幼かった妖夢はおいて行かれたのだ。
 それも修行のうちだと思えるようになるまでは、目が真っ赤になるほど泣き腫らし、
 幽々子にも随分迷惑をかけてしまった。
「あれからもうどれくらい過ぎたんだろう……」
 天上を仰ぎながら、妖夢は一人呟く。
 半幽霊という特殊な身体をしている妖夢の寿命はとても長い。
 妖忌がいなくなった頃に比べて体は成長したが、普通の人間以上に時間は過ぎ去っている。
 体は成長はしたが、まだまだ未熟だと妖夢は思っている。
 幽々子が望んだ西行妖の開花もできなかった。
 あの出来事はもうどうでも良くなってしまったのか、気にしてはいないようだが。
 そういえばあれからもう数年が過ぎた。


 西行妖は今も白玉楼の庭の一角に聳え立っている。



 ★


 幻想郷ではない別の土地。
 都に近いこの町に、一人の少女が住んでいた。
 名を西行寺幽々子という。
 なかなかに裕福な家に生まれ育ち、器量も良く才色兼備の娘。
 しかし彼女の周りには誰もいなかった。
 実の親ですら、よほどのことがなければ彼女には近づかない。


 彼女は“特別”だったのだ。


 ある日、彼女の所に新しい小間使いがやってきた。
 口減らしのために売られた奉公人ではなく、名字を持つ家の人間だ。
 その家は少々曰く付きで、だからこそ幽々子の小間使いとして選ばれた。
 その名は魂魄家。
 古来より妖怪の類との関係があり、交流を持つという。
 妖怪と人間の関係性が崩れようとしていたこの時代、魂魄家のような存在は疎ましがられる対象だった。
 しかしそんな魂魄家だからこそ、そこより一人の男が幽々子の元に使われされた。


「失礼します……」
 幽々子の部屋の入り口に立ち、男は許可を得ようと声を発した。
 年の瀬は20代前半くらい。
 無駄な肉はついていないが筋肉はしっかりとしており貧弱な印象はない。
 むしろそんじょそこらの男よりは、頼もしい印象を受けるほどだ。
 それに加えて腰に携えられた二振りの刀が、彼のただならぬ雰囲気をよりいっそう高めている。
「どうぞ」
 一瞬の間の後、中から静かな声で許可がおり、彼は中へと入る。
 そこには何をするでもなく、ただじっと正座をしている少女がいた。
 桜色の着物に身を包み、ふわふわと波打つ黒髪が特徴的な可憐な少女。 
 美しい、それしか思いつく言葉はない。
 どれだけ言葉を並べ立てようとも、男が感じた美しさは表しようがなかった。
「どなたかしら」
 正座をしたまま少女が尋ねる。
 男は慌てて少女に倣い正座をすると、深く頭を下げて名乗った。
「私は魂魄家より参った妖忌と申します。今日より幽々子お嬢様の身辺警護を
 主とした世話役を仰せつかまつり、こうして挨拶に参った次第でございます」
「そう……ご苦労様」
「は、勿体なきお言葉」
 頭を垂れる妖忌に幽々子はため息をついた。
 どうせこの男も、今までやめていった何人もの奉公人と大差ないだろう。
 自分の力を知れば恐れ戦き、この屋敷から逃げ出すに違いない。
 見たところ剣術の使い手のようだが、そんなものなんの意味も成さないのだ。
 この“特別な力”を前にしては。
「よろしく、お願いいたします」
「えぇ……よろしくね」


 しかし、妖忌は幽々子の予想とは裏腹な男であった。


 ★


 いつものように妖忌は幽々子の部屋までやってきた。
 その手には食膳。
 幽々子は食事すら家族と共に取らない生活なのだ。
 彼女が避けているよりも、家族の方が幽々子を畏れているように妖忌は感じていた。

 食事を終えた幽々子に茶を差し出しつつ、妖忌はある提案をする。
「今日は天気も宜しいようですし、庭を散歩なぞしてはいかがですか?」
 幽々子は殆ど外に出ない。
 別に体を悪くしているわけではない。
「気遣いありがとう……でも遠慮しておくわ」
 いつも答えはこうだった。
「そうは言われますが……」
「いいのよ。私は日の下を歩ける人間じゃないから」
 幽々子は時折このようなことを言う。
 それは罪を重ねた者が言う台詞だが、幽々子はどう見ても罪を犯す様には見えない。
 しかし幽々子は、まるでそうだと言わんばかりに言い続けるのだ。



 その日の昼。
 妖忌は他の小間使いから一通の手紙を受け取った。
 それは幽々子宛のもの。
 恋文かとも思ったが、どうやらそのような耽美なものではないようだ。
「それを今すぐ幽々子様の元に」
 小間使いはそう言うと、足早に立ち去っていった。
 妖忌は不審に思いながらも、宛名が幽々子である以上、
 持って行かないわけにもいくまいと、幽々子の部屋へと足を向けた。


 その手紙を受け取った幽々子は、息をつくとゆっくりと立ち上がった。
 何をするのか、とその動きを目で追う妖忌。
 すると突然幽々子は着物を脱ぎ始めたではないか。
 慌てて部屋の外へと出る妖忌。
「どうしたの」
 それを何でもないことのように幽々子の声が聞こえてくる。
「いや、どうしたもこうしたも……」
「着替えを手伝うのも侍従の仕事でしょう」
 まさかまた入れと言うのではないだろうか。
 いや今の言葉から察するに、そのようらしい。
「他の侍従はいないのよ。あなたが手伝わなくてどうするの」
「わかり、ました」
 意を決して妖忌は再び部屋へと入る。
 流石に一糸纏わぬ姿でいるはずはなく、幽々子は白襦袢の姿で立っていた。
「ほら、帯を締めるのを手伝って」
「……はい」
 この主は、自分をなんだと思っているのだろうか。
 己はもう身を固めても良き年頃の娘。
 対する従者はすでに元服を終えた大の男。
 着替えを手伝わせるなど、男として見ていないほかない。
(いや、何を考えている。私は幽々子様に仕える従者なれば、男女のことを考えるなど言語道断ではないか……)
 妖忌は言われるがままに、幽々子の着付けを手伝った。


 紅白の衣装に身を包んだ幽々子は、これから出かけますと妖忌に言った。
 これには妖忌も驚いた。
 自分が仕えてから、殆ど外に出たことのない幽々子が自分の意思で遠出をしようというのだ。
「お供仕りまする」
 従者として当然の申し出だが、幽々子の返答は信じがたいものであった。
「いえ……私一人で構わないわ」
「私は幽々子様の従者です。このようなときにお供しなければ……」
「意味を成さないとでも?」
「いえ……そのようなことは」
「どうしても、というなら付いてきても構わないわ。でも……」
 幽々子の目つきが鋭く細められる。
 この年頃の少女が見せるはずのない、強烈な視線に妖忌はたじろいでしまう。
 しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「わかりました。自身の身に何が起ころうと、私は幽々子様をお守りするのが
 最大にして唯一の使命だと存じております故」
 どうあってもついてくることをやめそうにない妖忌に、幽々子も諦めたらしい。
 勝手にしなさい言わんばかりに、無言で部屋を後にした。


 幽々子が部屋を出たことは、半刻もしないうちに屋敷中に知れ渡っていた。
 確かに仕える家の娘が外出するのだから、気にするのは当然とは思われる。
 しかし、他の小間使いや幽々子の家族から向けられる視線はそのようなものではないと、
 研ぎ澄まされた感覚を持つ妖忌はすぐに気がついた。
「まったく……何だというのだ」
 小間使いが、仕える者に対して提言することは失礼千万。
 しかし、このように影から除くような真似はもっと失礼に値する。
 それに家族までそのようでは、幽々子があまりにも可哀想だ。
「いいのよ。あの人達は私を人間だと思っていないから」
「そのようなことは……」
「ありがとう。でも、あなたもすぐにその意味がわかるようになるわ……」
 幽々子の言葉には何者をも拒否する響きが込められていた。
 いったい何が幽々子をそうまで思わせているのか。
 妖忌はその意味をこの後すぐに知ることになる。


 二人がやってきたのは、都の端に位置する寂れた寺院。
 もはや改築すらなされないまま、長い年月をそのままにされている。
 その荒廃した姿は、まるで今の人々の荒んだ心情を表しているように見えた。
 そんな場所だからこそ、好んで集まってくるものもいる。
「幽々子様、いったい何を……」
 妖忌はこんな所に幽々子が用があるとは思っていなかった。
 あの手紙が幽々子を導いたのは間違いないが、ならばどうしてこの場所なのだろうか。
 そしてこの時間。
 当たりは夕闇に包まれ、日はその姿を消そうとしている。
 名家のお嬢様である幽々子が、たとえ従者付きであろうとも出歩くような時間ではない。
「そろそろ出てきたらどうなの?」
 幽々子は虚空に向かって、その凛とした声を向ける。
 そこには誰の姿も見えない。
 物陰でも何でもない、あるとすれば現れたばかりの真っ白な光を放つ満月だけ。
 しかし異質は突如としてその姿を見せた。
「あれはっ――」
 妖忌の目にもその姿を捕らえることができた。
 漂うように浮かぶ“それ”は、全身に紫色の炎を纏い、邪悪な気を放っている。
 それがただの炎でないことは一目瞭然。
「てんあそ火……」
 イタチを大きくした獣が群れを作って炎をまき散らしている。
 炎を操り人に害をなす妖怪だ。
 そういえば最近は都の界隈で不審火が目撃されていると聞いた。
 火事にあった家も何軒かあるそうだ。
 きっとこの妖怪の仕業だろう。
「幽々子様っ」
「大丈夫よ……」
 幽々子は袂から扇を取り出す。
 獲物を見つけた妖怪を前にしてもまったく動じる様子を見せない。
 まるでこのような状況に慣れきっているかのようだ。
「いや……まるでではなく、慣れているのか」
 妖忌の目の前で、幽々子はしゃなりしゃなりと舞を舞う。
 彼女の扇が空を舞うたび、その周りに一つ二つと蝶が舞う。
 その蝶は淡い光を纏い、えも知れぬ美しさを魅せていた。
 しかし美しいものほど危険を潜ませているもの。
「さぁ、死者と共に戯れなさい」
 哀れむような視線を向けると、幽々子は扇をはためかせ蝶を舞わせる。
 蝶は妖怪の周りを取り囲み、その動きを制限する。
 妖怪もただやられるわけにはいかないと、炎で応戦するが蝶の数はいっこうに減らない。
 幽々子の舞に合わせて、蝶はどこからともなくやってくるのだ。
 その姿を見つめて、妖忌はようやく幽々子が人から距離を置かれているかが理解できた。


 彼女は“特別”なのだ、と。


 この時代、陰陽師や祈祷師といった妖怪退治を生業とする職業は、それなりに人々の間で浸透していた。
 しかし、人ならざる力を持った者は、人々から距離を置かれることになる。
 理解できないもの、常軌を逸するもの、及ばぬもの。
 人々はそれらを畏れ、距離を置く。
 それなのに、いざ自分たちの手に余る事になると助力を求めるのだ。
 妖忌も家柄、そのような待遇には慣れている。
 しかし幽々子は一人でそのような環境で生きてきた。
 幽々子が人を避けるような言動をしていたのも、自己防衛の手段だったのだろう。


「キシャアアアっ」
 苦しそうな咆哮に気がつき見ると、てんあそ火はその姿を消そうとしていた。
 それと同時に幽々子の周りを飛んでいた蝶もいなくなる。
 しかし、まだすべてが終わったわけではなかった。
 群れから離れていた、一匹が最後の力をもってして幽々子に襲いかからんと、
 その身を構えていたのだ。
「幽々子様ぁっ」
 妖忌は判断するよりも早く駆けだしていた。
 その足が動くのと、鼬が飛びかかるのはほぼ同時。
 名を呼ばれた幽々子が振り向いたとき、その目には自分を守らんと駆け寄る妖忌の姿と、
 自分を殺そうと飛びかかる妖怪の姿が映っていた。
 この距離と時間では死蝶を召還して応戦することはできない。
 切り抜ける策を考えていた幽々子の体が、突然がくんとバランスを崩す。
 気づいたときには、幽々子は仰向けに倒れ満月を仰いでいた。
「大丈夫ですか?」
 顔をのぞき込むようにして、妖忌が話しかけてきた。
 その顔は笑っているが、額には冷や汗が滲んでいる。
 まさか、と幽々子は起き上がる。
「妖忌……あなた、私を庇って」
 妖忌は背中に大きな火傷を負っていた。
 あの妖怪の攻撃をまともに喰らったのだろう。
 しかし妖忌は痛む様子を全く見せない。
 それどころか顔には笑みすら浮かべている。
 ただし大量の冷や汗が、それを痩せ我慢であることを如実に示していた。
「それが私の使命だと、言ったはずですよ」
「妖忌……あなた、私を見ても怖くないの?」
「怖い? 何故ですか」


 幽々子は死霊を操る程度の力を持った特殊な人間だ。
 あの蝶は幽々子によって招かれた死者の魂が具現化した姿。
 この力を使い、幽々子は周辺住民から寄せられる物の怪の被害を解決して生業としていた。
 家族はこの恩恵を受けているというのに、幽々子を恐ろしがって近寄りすらしない。
 これがこの力を得た代償なのだ、と幽々子は他人と関わることを自ら拒否していた。
 もはや孤独に生きることに、何も躊躇いはなかったのに。
 それなのにどうしてなのだろうか。
 この妖忌という男は、自分を畏れることもなく笑いかけてくれる。
 身を挺して守ってくれる。


「シャアアアッ」
「まだいたかっ」
 先程妖忌に傷を負わせたあの鼬が、再び二人を襲おうと突撃の体勢を構えていた。
「幽々子様はここにいてください。あ奴は私めが」
「何を言っているの。物の怪は武士一人が相手にできるようなものではないのよ」
 幽々子が心配の声をかけるが、妖忌が返すのは笑みのみ。
「ありがたきお言葉。ですが、私も魂魄家の人間。そこらの物の怪に遅れをとるなど
 我が家の名に恥じます」
「え?」
 妖忌は腰から二振りの刀を抜き取ると、向かい来る妖怪に向かって構えた。
 それは魂魄家が代々受け継がせる特殊な刀。
 妖怪によって鍛えられたその刀をもってすれば、妖怪を斬ることも可能となる。
 幽々子が心配している問題も、妖忌が笑い飛ばせるのはこの刀のおかげである。
 勿論この刀があれば誰でもというわけではない。
 妖忌はこの刀を扱うために、記憶がある頃からずっと修行を続けてきたのだ。
 天賦の才に弛まぬ努力が重なり、彼は元服と同時にその刀を受け継いだ。
「いざ……参るっ」
 楼観剣と白楼剣の名を冠したそれぞれの刀の切っ先を向け叫ぶ。
 背中の火傷で動きはだいぶ制限されそうなものだが、
 妖忌の肉体はその程度で動けなくなるような、柔な鍛え方はしていないのだ。
「はああぁっ」
 空中にいる鼬を討つため、人並みならぬ跳躍力で地を蹴り跳ぶ妖忌。
「シャアァッ」
 向かってくる妖忌に向かって、炎の牙を剥き出しにする鼬。
 その牙にかかれば怪我では済まず、腕の一本くらい難なく食いちぎられることだろう。

 空中で交わる牙と刀。

 妖忌と鼬は同時に地に着地する。
 刹那の戦いを制したのは――
「まだ見切れる早さではあったな」
 妖忌はかすり傷一つ負わず立ち上がった。
 対する鼬はその姿を消滅させる。
「妖忌っ」
 戦い終えた妖忌の元に幽々子が駆け寄ってくる。
「幽々子様、お怪我はありませんか?」
 問いかけに首を横に振って答える幽々子。
 その目には涙が浮かんでいる。
「だから付いてくるなと言ったのに……」
「そうはいきません。私は幽々子様に仕える従者、時には盾にもなりましょうぞ」
 幽々子は微笑みを向けた。
 それが妖忌が初めて見た彼女の笑顔であった。


 ★


 あの一件から早一年が経った。
 妖忌は幽々子の忠実な従者として、西行事の家で暮らしていた。
 その期間はこれまでに幽々子に仕えた者の中では断トツに長い。
 家の者達も、これでようやく安心できると安堵の息を漏らしていた。
 その冷遇はもはや改善されないだろう。
 妖忌もこの転換しては諦めていた。
 相変わらず幽々子は普段は家から出ないお嬢様と妖怪退治という両極端な生活をしている。
 妖忌もその霊体を切ることのできる剣術を用いて、幽々子の手伝いをしていた。

 幽々子は日ごとに笑顔を浮かべる事が多くなり、口数も増えた。
 非日常的な生活ながらも、少しでも幽々子が明るくなり妖忌も喜ばしく感じ始めた頃。
 今日も一通の手紙が幽々子の元に届いた。


「今回はどのような用件なのですか」
 もはやその手紙が何を意味しているのかを知っている妖忌はそう尋ねた。
 幽々子も隠すことなく、その手紙の内容を伝える。
「神隠しが起こっているようね。たぶん妖怪の仕業でしょうけど」
 神の名を宿していても、所詮この世に起こるすべての出来事は説明が付く。
 神の所行にしたがるのは人間の悪い癖だ。
 この世には人の及ばざる領域がいくらでも存在する。
 それらすべてを神の所行にすることで、人は納得できるのだ。
「私の力も見ようによっては、神様の力になるのかもね」
「それが人間というものです」
 それもそうね、と幽々子は笑う。
 今回の事件も妖怪を退治すれば片が付くと幽々子は確信しているのだ。
「油断は禁物ですよ。都の荒廃は日毎に酷くなり、集まる物の怪の力も、
 それに呼応するように強くなっております」
 都に住む人々と貴族との格差はさらに酷くなり、都は一部を残して酷い有様となっている。
 そう言った場所では負の力が溜まりやすくなり、それを糧にしようと多くの妖怪が集まるのだ。
 幽々子に向けられる手紙も、最近その数を増していた。
 起こる事件の甚大さも大きくなる一方である。
「そうね……油断はせずにいきましょう」
「はい」
 そうして二人は、今宵も怪かしが跋扈する都へと向かうのだった。


 妖怪の所行だと幽々子が決めつけたのは、それが夜に起こっているからだ。
 夜は妖怪の領域である。
 その時間に外を歩いていれば、ただでさえ妖怪が多いこの都で、
 彼らの餌食にならない方がおかしい。
「しかし問題は場所と時間ですな」
 妖忌が難しい顔をするのも無理はない。
 夜に人が消えるとしか情報はなく、消えた者達の情報も何もないのだ。
 よほど急いで文を出したことが窺い知れるが、これでは退治も何もあったものではない。
「大丈夫よ。現れたならすぐにわかるわ」
「と、言いますと?」
 幽々子が言うには、人一人を消すのはとてつもなく大きな力がいるという。
 それだけ大きな力を持った妖怪が現れれば、嫌でも気配を感じるというもの。
 それを辿っていけば、自ずと妖怪にたどり着くというわけだ。
 幽々子がかなり前から妖怪退治を行っていたことが伺える言動である。
 それは頼もしくもあったが、それだけ昔からこのようなことを続けていたのかと思うと、
 妖忌はあまり好ましいことだとは思えなかった。
 幽々子は誰よりも優しい心の持ち主だ。
 死霊を操る力も、死んだ者すら慈しむ彼女の優しさが故に身についた力なのだろう。
 妖怪を退治するときも、幽々子は悲しそうな瞳をしている。
 こんな力がなければ幽々子は普通に暮らしていたはずだろうに。
「いたわ」
 幽々子の言葉を聞き、妖忌の体に緊張が走る。
「しかも……こちらに向かってくる!?」
 まさか自分たちが神隠しの標的にされたというのだろうか。
 何にしても妖怪の方から向かってくるなら、好都合というもの。
 幽々子は大量の死蝶を召還し、妖忌も刀を抜いて妖怪の到着を待つ。
 相手の方から向かってくる事が事前に分かっていれば、準備はいくらでもできる。


 そしてそれは、唐突に現れた。


「あらあら。最近都を騒がせている御祓い屋がいるって聞いて来たんだけど、
 まさかこんな可愛いお嬢さんと頼もしいお武家さんだったとはね」
 見たこともない衣装に身を包み、異質な髪の色をした女性が、“なにもない”所から現れた。
 それだけで彼女が人外の類であることが理解できる。
 そのうえ人語を操る知識をもつ、高等な妖怪であるということもだ。
「あなた達、名前は?」
 にっこりと微笑む妖怪女。
 その笑みは美しさを備えているが、それ以上に怪しさを覚える妖艶なもの。
「そうそう“名を尋ねるときはまず自分から”が人間の礼儀だったかしら」
 二人が無言であっても、女は勝手に話を進めていく。
「私は八雲紫というの。お察しの通り、妖怪よ。……さぁ私は名乗ったわ」
 名乗るように促す紫。
 しかし二人は沈黙を続けたまま、警戒の色を弱めない。
 二人の反応に紫はため息をつく。
「なんだ……もっと面白い人間かと思っていたのに。残念ね」
 紫の顔から笑みが消える。
 それが何を意味するのか、二人には瞬時に理解できた。
 周囲の空間がまとめてばっくりと裂け、そこから放たれる妖力の弾。
 数が尋常ではないほどに多く、二人に襲いかかる。
「幽々子様、お下がりをっ」
 妖忌が幽々子の前に立ちはだかり、向かい来る弾幕を切り捨てていく。
 流麗に動く二つの切っ先が閃くたびに弾幕は姿を消す。
 しかし、それでは間に合わないほどに紫の攻撃は激しいものであった。
「妖忌、私が後ろから攻撃を行うわ」
「御意っ」
 この一年の間に二人の呼吸はぴったり合っていた。
 幽々子が扇をなびかせると、死霊の蝶が紫へと襲いかかる。
「それなりに楽しくなってきたわね……幽々子に妖忌、人間にしてはなかなかやるわね」
 飛び交う弾幕と蝶の群れ。
 その間を流れるような剣風が舞う。
 美しさすら覚えるこの状況下で、紫は楽しそうに笑っていた。
 対する幽々子と妖忌にそんな余裕はない。
 二人とも全力で己が力を解放していたのだ。
「何で神隠しなどを起こしたっ」
 弾幕を切り捨てながら妖忌の声が飛ぶ。
 紫は音楽を指揮するように弾幕を放ちながら、それに答える。
「私は人間を喰うの。餌をとって何が悪いのかしら。夜しか活動していないのに」
「そういう問題ではなかろうっ」
「そういう問題よ。妖怪と人間の関係はこうでなくちゃ……」
 人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を喰う。
 互いの領域を踏み越えたとき、両者の間にあるものはねただどちらかが生き残るという自然の理。
 紫の言っていることは至極当然のことである。
 だが、ならば何故幽々子は悲しそうな瞳をしなければならないのだ。
「うおおおおっ」
 妖忌は刀を振り回しながら紫へと突撃した。
 それを目の前にしてもは慌てるそぶりを見せない。
「ふふ、感情の昂ぶりが美しいわね。でも、それでは私に勝てなくてよ」
 それまでの弾幕とは異なり、一筋の光線が裂け目から放たれる。
 幾筋ものそれが妖忌めがけて跳んでくる。
 先程までの弾同様切り捨てる妖忌。
 しかし切った部分が消えただけで、光線は完全に消えることはなかった。
 これではただ切り捨てるだけではかわせない。
「妖忌っ」
 幽々子が叫ぶも間に合わない。
 しかし妖忌は感情が昂ぶっていても、いたって冷静に行動した。
 切り捨てられないならば、避けに徹するのみ。
 一目で光線の流れを見切り、その合間をかいくぐるようにすいすいと避ける。
「あら残念」
 まったくそのように聞こえない口調で紫が微笑む。
 妖気と幽々子のまったく屈しない様子に喜んでいるかのように。
「さっき、あなたはどうして人間を消すのか、って聞いたわね」
 紫は唐突に切り出した。
 同時に放っていた弾幕も止める。
 心変わりをしたとでも言わんばかりの突飛な行動。
 しかし幽々子も妖忌も戦う構えをやめてはいない。
 それでも紫はただ話を続けた。
「私は人間に興味があるの。妖怪と人間のバランスを知恵と欲望を以て崩そうとする。
 かと思えば反面、妖怪と共に生きようという意思を持つ者もいる」
「それが神隠しと何の関係があるというの」
 幽々子は真剣な眼差しをゆるめない。
 対する紫は飄々とした雰囲気を崩さずにその視線を受け止めている。
「消した人間達は全員生かしてあるわ」
「なんですって!?」
 驚きの表情を見せる二人の反応を楽しむように紫は話を続ける。
「別に人間しか食料がない訳じゃないし。私が人間を消したのは、その人間をじっくり観察する為よ」
「観察……だと?」
「えぇ、そうよ。人間に興味はあるのだけれど、どうにも情報が少なくってねぇ」
 だから観察するために捕まえたのだと、紫は答えた。
 まだ生きているということに安堵はしたが、怒りは消えることはない。
「生かしているからそれで良いと、お前はそう言うのだな」
 妖忌の低い声が、より低く重く響き渡る。
「えぇ、そうよ。殺さないだけ他の妖怪よりはマシだと思うけど」
「そういう問題ではないっ」
「何を怒っているの?」
 妖忌が怒る理由に気づけないところを見ると、人間を知らないと言ったのは本当のことだろう。
 かといって人間ならば誰もが気づくというわけでもないが。
「やはり貴様はここで滅しておかねばならぬ!」
 妖忌は弾幕が止んでいることを好機と悟り、楼観剣と白楼剣を手に突撃した。
 その速さたるや、野を駆け抜ける疾風の如し。
 鍛え抜かれた強靱な足腰を持つ妖忌だからこそ為せる技である。
「中々……」
 紫はひらりと舞い上がると、間一髪の所でそれを避けた。
 いや、そのタイミングを読んでいたと考えるのが妥当だろう。
 それだけ彼女の力、身体は尋常ではないのだ。
「今度は、外さん」
 鋭い眼光を向けると共に、再び刀を構える妖忌。
 先程の攻撃は避けられはしたものの、充分牽制にはなったようで、紫にも若干の緊張が見られる。


「待って!」


 緊迫した空気を裂いたのは、凛とした幽々子の声だった。
 その突然の言葉に妖忌だけでなく、紫も意外そうな顔をする。
 幽々子は二人の間に割り入るように立つと、紫に向かって言葉を続けた。
「あなたとの決着は私がつけます」
 意外な申し出に、紫は目をぱちくりさせるが、すぐに大声を上げて笑い始めた。
「あははははっ、何を言い出すかと思えば、そんなこと?」
「妖忌、手を出さないでね」
 主君の命であるため、妖忌としては従うほかないが気が気でないのは目で見て取れる。
 幽々子が気に陥れば、いつでも斬りかかれるような雰囲気が消えていない。
 しかし何故幽々子は唐突にそのようなことを言い出したのか。
 妖忌にはその意図がさっぱりつかめずにいた。
「まぁいいわ。夜は永遠ではないのだし、楽しい時間はいずれ終わるから楽しいからね」
 紫が指を鳴らすと、周囲に無数のスキマが現れる。
 幽々子も死蝶を召還し、お互いに戦いの準備は整った。


 先に動いたのは紫の方だった。
 スキマから大中小の弾幕を展開し、幽々子の視界を埋め尽くす。
 幽々子はひらりと舞い上がり弾幕の間々を掠めるように避けていく。
 そのスキマを狙って死蝶を放ち、無駄な攻撃は一切加えない。
 紫はピンポイントで自分に向かってくる死蝶を打ち落とそうとするが、
 自分の弾幕が邪魔で正確に狙えず、左へ右へゆらりゆらりと動いて避ける。
 スキマとスキマをつなぐようにして張られた結界に、弾幕を反射させ、
 予測不可能な動きを見せる紫だが、幽々子はその霊的感覚を用いて、
 すんでのとろこですべてを避けていく。
 幽々子も避けるばかりではなく、死蝶を様々に舞わせて四方八方から紫を狙う。
 まるで舞を舞うようにして戦う二人。
 その応戦はいつまでも続くかのように思えた。



 互いに互いの攻撃を避けつつの応戦が、しばらく続き、どちらも一行に譲らない。
 だが空が白明けてゆくにつれて、その華やかに展開されていた弾幕の威力が衰えていく。
 そして日の光が差し込み始めた頃には、両者とも力を使い切ったのか攻撃の手が止んでしまっていた。
「はぁ、はぁ……決着は、付かなかったわね」
 神隠しをすることができるほどの力を持った紫でも、さすがに長丁場の戦いは堪えたらしい。
 しかしそれも相手が幽々子のような力の持ち主だからこそだ。
 そこらの仏法僧や低級妖怪退治を生業とする祈祷師程度では相手になるまい。
「なんだかすっきりしたわ」
 紫の顔は言葉通り清々しく見えた。
 相手をしていた幽々子は、これほど激しく動いたことはなかったのだろう。
 完全にグロッキー状態になり、妖忌の介抱を受けている。
「あら、帰るの?」
 幽々子を背負い、その場を立ち去ろうとする妖忌に紫は声をかけた。
 妖忌は振り向くと、睨むような瞳を紫に向ける。
「当然だ。幽々子様をこのままにしておけるものか」
「私を倒せる千載一遇の機会なのに?」
「次に会うときは、必ず私達が勝つ。お前の寿命が延びただけだと思え」
 あくまで敵対する意思を曲げない妖忌と、そんな相手に明るく話しかける紫。
 そんな対照的な言葉のやり取りの中、幽々子が目を覚ました。
 まだ自分では立てないようなので、妖忌の背中にしがみついたまま口を開く。
「ねぇ、紫、といったかしら」
「ええそうよ。八雲紫。素敵な名前でしょう? 自分でつけたのよ」
「紫、あなたが人間を知りたいという目的が本当なら、一つだけ約束して」
 幽々子の言葉は真剣そのものだ。
 紫にもその真剣さが伝わっているのか、茶化すような言動を返さず、
 ただじっとその言葉に耳を傾けている。
「これ以上神隠しは起こさないで。人間と戯れたいなら、私が相手をするから」
「なっ、本気ですか!?」
 驚いたのは妖忌である。
 妖怪退治を生業とする者が、妖怪と関係を結ぶなど聞いたこともない。
 しかし幽々子は優しげな瞳を妖忌に向けて、諭すように話した。
「えぇ、私は本気よ。この紫という妖怪、今まで出会ってきた妖怪とは少し違うようなの。
 何刻も戦ってみて、私はそう感じたの。彼女は私達を本気で殺そうとはしていなかったもの。
 本気を出せば私達の攻撃なんて完全無力化できる攻撃だってできるはずの力を
 持っているのにあえてそうせず、こちらがぎりぎり避けられる程度に抑えていたわ」
「ご明察。まったくもって大正解よ」
 話を聞いていた紫がぱちぱちと手を叩く。
「でも、それだけで私を信用するなんて……ちょっと油断しすぎなんじゃない?
 今だって私は力を使い果たした“フリ”をしているだけかもしれないのに」
 その口元が、クスリと不敵にゆがむ。
 妖忌はそれを見て構えるが、背中に幽々子を背負っている以上まともに動くことはできない。
 そんな妖忌の頭を幽々子はぺしりと叩く。
 勿論本気で殴るはずはない。
「妖忌、嘘をまともに受けないの」
 妖忌を窘めた幽々子は、今度は紫に向かって言葉を発した。
「今、それだけでってあなたは言ったわね。そう、その程度で相手を信用できるのが
 人間という生き物なのよ。安易に相手を信用もするし、裏切りもするけれど、
 あなたが興味を持っているのは、人間のそういった部分じゃないかしら」
 幽々子の話を聞いていた紫は、しばらく思案するように黙っていたが、
 なんの前触れもなく、突然はじけるように笑い始めた。
 本当に可笑しそうに、本当に楽しそうに、本当に嬉しそうに。
「クスクス、あなた人間なのに面白いわね。私相手にそんなことを言い出したのは、あなたが初めてよ」
 まだ笑い収まらぬ紫に対し、幽々子も微笑みを向ける。
「ふふ、だって私は“人にあって人に非ざる者”ですもの」


 笑い会う一人の人間と一匹の妖怪は、まるで親しい友人のように見えた。
 そんな二人を唖然とした表情で眺めつつも、妖忌は心のどこかで
 安心感のような温かな感情を感じていた。


《二》へ

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