私は彼女を忘れない。



 私は私の罪を忘れない。




罪刻む月時計〜千年の贖罪〜




 月世界のアカデミー。その王立図書館。
 山ほどもある資料に囲まれて、黙々と本を読む少女が一人。
 すでに時刻は閉館ぎりぎりということもあり他の利用者はもういない。
 それでも少女は閉館時間が迫っていることにも気付かない様子で、
 ただただページをめくっては、そこに書かれている内容を頭にたたき込んでいる。
「そろそろ閉館ですよ」
 そこへ司書の教員がやってきて肩を叩いた。
 ただ呼びかけただけでは、彼女には届かないことを知っているからだ。
 彼女はそれだけこの図書館を利用している常連だということが窺い知れる。
「え、もうですか?」
 少女はきょろきょろと辺りを見回して、自分以外の学生がいないことにびっくりする。
 それだけ集中していたということだろう。
「そうです。今日は何冊借りていきますか?」
「えっと、じゃあこの五冊を」
 読みかけのものと、まだ読んでない四冊を指差す。
 それも今日の内にすべて読み終えてしまうに違いないと教員は思った。
 なにせ彼女は借りた本を二日以降に返しに来たことがないのだ。
 すべて翌日には返しに来て、また新しい本を借りていく。
 長年このアカデミーの学生を見てきた教員も、彼女ほどの学生は見たことがなかった。

 しかしそれもそのはず。
 彼女はあの有名な八意家の者。
 その中でもさらに知能が高いと評判の娘ということだ。
 若干十七歳にして、すでに王立研究所への就職が決まっている。
 あそこは月の民の中でも本当に限られた者でなければ入ることすら許されない。
 それだけの設備・技術の全てが整っており、研究者ならば誰しもが一度は憧れる。
 しかし入れるのはそれだけの優秀性が認められた者のみで、
 それが判断される年齢は良くても二十後半と言われていた。
 その常識をいとも容易く彼女は打ち破ってしまったのである。

「それじゃあ先生。さようなら」
「えぇ。気をつけるんですよ」
「はい」
 礼儀正しく一礼をして去っていく女学生。
 その胸元には学生識別のためのネームプレートが、彼女の走りに合わせて揺れている。


 そこには『八意 永琳』と――やがて「月の頭脳」と謳われる程の知識人となる名が刻まれていた。



 ☆



 昼休みの裏庭。
 植物が鬱蒼としているせいか、昼間でも暗くあまり近づく学生はいない。
 そのため静かに読書をしたい永琳にとっては好都合な場所であった。

 彼女はこのアカデミー内でも特別な存在だ。
 八意家の人間という血筋だけでなく、その中でも殊更に能力が高いとなれば、
 それはもはや次元が違う程の差が生じていると言っても過言ではない。

 周囲から寄せられる視線は尊敬を超えた畏怖。
 同い年の学友達は行事連絡や授業内くらいしか話しかけてくることはない。
 しかし永琳はその理由を理解していた。
 だからこそ彼女は自分から、他人を避けていた。


 だから彼女は一人だった。


 今日も一人で裏庭に来て、昨日借りた本を読んでいる。
 大きな木の根元にぽつんと置かれたベンチに腰掛けて静かにページをめくっている。
 紙がこすれる音以外、何も音はない。
 ぱらり……ぱらり……。
 孤独な音が、いや孤独の音がただただ継続的に紡がれるのみ。
 その方が他人も自分も気を遣う必要がない。

「あら、もうこんな時間……」
 ポケットから懐中時計を取り出し時刻を確認する。
 もうすぐ昼休みが終わり、午後の授業が始まる時間だ。
 永琳は本にしおりを挟むと、教室に戻るため立ち上がった。
「……ぇ?」
「ん?」
 立った瞬間、誰かと視線がかち合った。
 しかも相手の視線は逆さまに見える。


「「うひゃああああっ!?」」


 二つの悲鳴が静寂に包まれた裏庭に響き渡った。




 誰も近づかないことが幸いして大事にはならなかった。
 お互いに驚き合った二人は、何をするでもなくただベンチに並んで座っている。。
 どちらも自分から話を切り出してよいものか考えあぐねているのだ。
 だがいつまでもそうしているわけにもいかない。
「あの……」
 先に切り出したのは永琳の前に逆さまで現れた謎の少女だった。
 永琳と同じ銀色の髪を短く纏め、活発な印象を受ける。
 しかしながら顔立ちは端麗で黙っている姿は名家のお嬢様を思わせる。
「ごめんね。びっくりさせちゃった?」
「えぇ」
 そんなもの突然目の前に逆さまで現れられたら誰でも吃驚して当然だ。
 しかし彼女はいつの間に木の上に登っていたのか。
 どんなに永琳が本に集中していたとはいえ、変な物音がすれば警戒する。
「実は今さっき起きたばかりなのよ」
 今さっき起きたばかりということは完全に遅刻である。
 遅刻者は門を通る時に厳しくチェックされ、それは成績に残りマイナス点となる。。
 この少女はそれが嫌で裏庭から忍び込もうとしたに違いない。
 そうでなければ木の上から現れることなどあるはずがないのだ。
「それにしてもよく巡回中の先生に見つからずに入ってこられたわね」
 このアカデミーは月の一族の学校の中でもかなり優秀な者達が集まるとして有名だ。
 反面規則は厳しく、授業のない教師は校舎の外で見張りをしている。
 彼女のように校舎に侵入しようとする者が現れないようにするためである。
 その目をかいくぐって木に登って裏庭に入ってくるとは。
「便利な力を持ってるからね」
「便利な力?」
「乙女の秘密。それ以上は言えないわ」
「何も言ってないじゃない」
「つまりそういうこと」
 会話がどこかちぐはぐだが、永琳は長い間忘れていた楽しさを感じていた。
 もっと幼かった頃、まだ同じ年頃の子供達が気軽に話しかけてくれた頃のこと。
「そういえばあなたの名前を聞いてなかったわね」
 ふと気がついたように少女が尋ねてきた。
 自分のことを知らないのか。
 それは永琳も言えた義理ではないが、この学校で自分を知らない者がいることに少し驚いたのだ。
 それは高慢でも何でもなく自然にそう思ってしまった。
 それだけの存在感があることを否応にも自覚しているのだ。
「八意永琳よ」
「やごころ?」
 永琳の名前を聞いた途端、少女は腕を組んで考え込み始めてしまった。
 何度も首を捻ってはうんうんと唸って必死で何かを思い出そうとしている。
 声も掛けづらいのでしばらく待っていると、突然ぽんと手を打って
「あー、あの天才家系の!」
 その言葉がずきりと胸に刺さる。
 八意家という存在は嫌でも自分につきまとう。
 この少女も自分が“あの八意永琳”だと分かればこんな封に話しかけてくれはしないだろう。
「ふぅん、案外普通なのね」
「え……」
「もっと怖い子かなって勝手に思っていたんだけど」
「怖いって誰がよ!」
「ふふ、全然怖くない」
「そんなの当たり前でしょ」
 あれ、まったく変わらない。
 この子は八意家だとか、天才だとかどうでもいいんだろうか。
 目の前で屈託なく笑う彼女は、私になんの躊躇いもなく接しているように見える。
 本当に私のことを恐れたりしていないのだろうか。


「私、イザヨイ。よろしくね」


 突然差し出された手。
 戸惑う永琳をもどかしく思ったのか、強引に彼女の手を掴むとぎゅっと握った。
「あ」
 温かい。
 他人の手がこんなに温かいなんて、ずっと忘れていた。
「こ……」
 こちらこそと言おうとするが上手く言葉が出てこない。
 難しい数式や薬草の知識はすらすらと出てくるのに、なんでこんな簡単な一言が言えないのか。
「あの、えっと……」
 顔を真っ赤にしてもじもじとしている永琳。
 普段の他人を寄せ付けない彼女からは想像もできない姿だ。
 そんな永琳にイザヨイはにっこりと微笑む。
「これから慣れてくれればいいわよ」
「……ありがとう」


 手を握り合ったまま二人は動かない。
 誰もいない裏庭。
 突然の出会いと初めての感情。


 孤独を自覚して生きてきた永琳は、この日初めて「親友」と呼べる者と出会った。



 その後二人は揃って授業に遅れ、教師にこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
 しかしそれでも永琳は嬉しかった。
 怒られている最中に、こっそりと舌を出して笑う彼女が側にいてくれたから。
 成績のマイナスなんかよりも、ずっとプラスになるものを手に入れることができたから。



 ☆



 それからしばらくして、アカデミーを勿論首席で卒業した永琳は、
 当初の予定通り王立研究所への就職を果たしていた。
 研究所の職員達も彼女を快く受け入れてくれ、本格的に天才としての才能を開花していく永琳。

 しかし彼女に見られた変化はそれだけではない。
 彼女をアカデミー時代から知る者は、彼女はある日を境によく笑うようになったと言っている。
 その変化は彼女の近づきがたい雰囲気をも一変させ、だいぶ話しやすい相手として人気も出たほどだ。
 元々顔も性格良いため、その頃からは男子学生からの告白も多くなった。
 しかし永琳はその全てを断り続けたらしい。
 その数は百人にも及ぶと言われているが、その真相は定かではない。


 閑話休題。
 そんな彼女の変化の根本であり、唯一の親友はどうしたのか。

 イザヨイは永琳とは違って成績も普通――そうは言ってもあの学校の学生ある以上
 月の民の中では上位に入るほどの知能はある――だった。
 しかし彼女には周りの者にはない特殊な力が備わっており、それが認められて
 なんと王家に仕えるメイドとして王宮に勤めることとなった。
 永琳とは方向性は異なるものの、同じく王家直属務めということもあり、
 その道が決まったときは二人揃って喜んだ。
 ただ相変わらずのルーズな性格はたびたび表れるらしく、そのたびに上司のメイド達からお叱りを受けている。


 二人の関係はアカデミーを卒業してからも、変わることなく続いていた。
 王宮と研究所は隣接していることもあり、顔を合わせることも多い。
 互いに暇ができれば、共に酒を飲んだり買い物に行ったりして過ごす。
 そうやって互いに幸せな時間を過ごし続けていた。



 ☆



 広い王宮の中を、永琳は一人で歩いていた。
 今日は副業として任されている、姫の家庭教師の日なのだ。
 カグヤという名の姫は、とにかく大事に育てられたらしく、
 その所為あってかなり我が侭な性格に育っている。
 しかしそれは永琳からすれば可愛らしい程度のものだ。
 姫という立場にあるから、そういった性格は咎められるが同じ年頃の子供ならば
 それくらい我が侭であってもなんら不思議はない。
 血筋や立場で性格まで縛られる事の苦痛を、永琳は誰よりも理解している。
 だからカグヤの我が侭にも付き合い続けていられたのだ。

「入りますよ」
 中からの返事はない。
 だが永琳は何も躊躇うことなくそのドアを開いた。
「また布団に潜っているんですか」
 永琳の視線の先。
 一人用にしては無駄に大きな寝台の上、不自然に膨らんだ布団に向かって永琳は話しかける。
 小さな山のようになっているそれはしばらくじっとしていたが、
 だんだん暑くなってきたのだろう、もぞもぞと動き始めた。
 そして――
「ぷはあっ」
「おはようございます、姫」
「もぅ。勉強は嫌だっていつも言ってるのに」
 布団に潜っていたから長い髪の毛もクシャクシャになってしまっている。
「勉強の前にまずは身だしなみを整えましょう」
 その黒髪を愛でるように、永琳は櫛でとき始めた。
 カグヤは文句を言わず、されるがままに永琳に任せている。
 なんだかんだで人に甘えたいのが本音なのだろう。
「ねぇ永琳」
「なんですか?」
 手を動かしながら永琳は聞き返す。
「永琳は天才なのよね」
「人からはそう言われます。ですが天才かどうかは知りません」
「でも頭は良いのよね」
「えぇ、それなりには」
 姫の前だから謙遜しているわけではない。
 他人の評価で振り回されるのは御免だからと気にしないようにしているのだ。
 これもイザヨイからの受け売りである。
 彼女はどんなレッテルを貼られようとも、決して彼女が変わることはない。
 それは悪く言えば反省がないのかもしれないが、そうではなく良い方向で変わらないのだ。
 個をしっかりと持つ。
 それを永琳はイザヨイから学んだのである。
「永琳、私ね。あなたにしてもらいたい事があるの」
「私にできる範囲でしたら、できる限りのことはいたしますが」
 できるとは断言しないのが永琳らしい。
 例え相手が王族であろうとも、できないものはできないと言わなければならない。
 後でできませんと言う方がより相手に対して失礼に値する。
「永琳にしかできないことなのよ」
 カグヤは永琳の瞳を見つめながら言う。


「蓬莱の薬を作ってみて欲しいの」


 耳元で囁かれたその言葉に永琳はビクリとした。
 蓬莱の薬。
 薬師の家系に生まれ、幼い頃より薬学に精通してきた永琳に分からないはずがない。
 いや知識ある者なら皆が知っている。
 それを服用した者は永久の不老不死が与えられるという秘薬中の秘薬。
 しかしそれは同時に、森羅万象の理から外れるという禁忌を犯すこととなる。
 生と死という繰り返しを経て、世界は常に流動し続けている。
 蓬莱の薬はその流れから強制的に外れるための薬なのだ。


「姫、それはできません」
「どうして? 作れないの?」
 確かに永琳は『できる範囲なら』と言った。
 しかしこれはそういう類の問題ではないのだ。
「してはいけないことなんです」
「どうして?」
「そういう決まりなんです」
「決まりって……誰が決めたの?」
「それは……」
 誰が決めたのかなどわかるはずがない。
 昔からその存在は禁忌とされ続け、不老不死はあってはならないものだとそう信じてきた。
 ただそれだけのことだ。
 しかしカグヤにそれを伝える術がない。
 言葉はこういうとき、なんと無力になってしまうのだろうか。
「でもそれは飲むのが禁忌なんでしょう?」
「それは……そうですが」
「だったら作るだけなら禁忌じゃないって事よね」
 作るだけなら。
 そうだ。作るだけなら罪にはなるまい。
(いや、ダメよ)
 本気でそんなことを考えていた自分に、永琳は自分で否定する。
 罪になるとかならないとかそれ以前の問題なのだ。
 なのに自分は罪にならないなら、と考えが揺らぎそうになってしまった。

 それは自身の知識欲がそうさせているのだということに永琳は気がついていた。
 最近は王立研究所での仕事すら、永琳には物足りなくなっていたのだ。
 蓬莱の薬は秘薬中の秘薬。
 それを作ってみたいという気持ちも、少なからず永琳の中には存在していたのである。



 それからしばらくして、天才故の欲望なのか。
 新たな挑戦枯渇していた永琳は蓬莱の薬の研究を始めてしまった。



 ☆



 最近永琳の付き合いが悪い。
 買い物には付き合ってくれないし、お酒も飲まなくなった。
 ずっと個人の研究室に籠もって一心不乱に研究を続けている。


 だからイザヨイは少し不機嫌だった。
 別に永琳は自分だけのものではないし、そこまで束縛する存在にはなりたくない。
 だけどもう少し付き合ってくれても良いと思う。
 ずっと一緒にいようというわけではないのだ。
 たまに会って、お互いの近況を言い合ったり嫌な上司について愚痴ったり。
 それだけで充分なのに。
 最近はそんな会話すらろくにしない。
 次に会ったときは絶対にびしっと言ってやろう。
 そんなことを決意しながら、イザヨイは王宮の廊下を歩いていた。
 自分たちがきちんと掃除をしているため、床はいつも清潔ピカピカ。
 コツコツとブーツが奏でる音が耳に心地よい。
 今の永琳にはこんな音を楽しむ余裕もないのだろうと考えると少し可哀想になってきた。
 やっぱり今の彼女には息抜きが必要だろう。
 びしっと言うまではしなくても、気晴らしになるくらいは話をしてあげよう。


 そんなときイザヨイの耳になにやら話し声が聞こえてきた。
 どうやら姫の部屋から聞こえているようだ。
 そう言えば今日はカグヤの所に永琳が家庭教師をしにくる日だったはずだ。
 自分との付き合いは断るくせに、姫の家庭教師はやるのかとイザヨイはムッとする。
 だがこれも永琳の仕事なのだ。
 研究所にいられなくなれば、それこそ彼女にとっては死活問題である。
 だから研究に没頭したくても、家庭教師にはやってくるのだ。

(それにしてもいったいどんなことを話しているのかしら)
 永琳の授業風景は見たことがない。
 頭が良いのは知っているが、実際の所それは彼女の成績でしか見たことがないのだ。
 普段は頭の良さを露骨に示したりすることはしなかった。
 ただし人に教えるときはそうはいかない。
 頭がよい者は教え方も上手いものだ。
 逆に言えば、教え方を見ればその者の頭の良さが分かるということである。
(どれどれ、永琳の頭の良さとやらを拝聴させてもらおうかしら)
 興味本位でドアに近寄るイザヨイ。
 どんなことを、どんな風に教えているのか気になるところだ。
 それにあの我が侭姫がちゃんと授業を受けているのかも同じくらい気に掛かる。


「それで、薬は完成しそうなの?」
「少しずつですが、着実に研究は進んでいます」
「そう、流石は月の頭脳と呼ばれるだけのことはあるわね」
「ありがとうございます」
「あぁ、早く見てみたいわ。蓬莱の薬って一体どんなものなのかしら」


 だが聞こえてきたのは信じられない内容。
 蓬莱の薬について語る二人。
 しかも永琳はその研究をしていると言っているではないか。
 姫はそれを嬉々として褒めている。
(……どうしてそんな)
 イザヨイは訳が分からないままその場を走り去っていった。
 その目には熱い涙がいっぱいに溜まり、その頬に幾つもの跡を残した。




 翌日。

 誰よりも早くやってきた永琳は自身の研究室で、研究の続きを再会した。
 しかしその顔には険しい表情が浮かんでいる。
 作れない薬はないと言われる永琳ですら、やはり蓬莱の薬を作ることは困難を極めることなのだ。
 カグヤにあぁは言ったものの、実のところ研究は頓挫してしまっていた。
 どうしても先に進む術が見つからない。
 これまでの研究に間違っているところはないはずだ。
 後は最後の仕上げだけなのだが、それが最も重要で最も難しい。
 そこをなんとかしなければ蓬莱の薬はただの万能薬程度のものにしかならない。
「いったいどうすれば……」
「随分と悩んでいるようね」
 いつの間に部屋に入ってきたのかイザヨイが背後に立っていた。
 まったく突然のことなのに、永琳はまったく驚く様子はない。
 初めて出会ったときと違って、イザヨイの力を今の永琳は知っている。
「ごめん。今立て込んでいるから相手ができないの」
「天才のあなたが悩むなんて相当難しい研究みたいね」
「……何が言いたいのかしら」
 イザヨイの言葉に嫌みを感じた永琳は刺々しく聞き返す。
 こんなやり取りなど今までしたことがない。
 些細な喧嘩なら度々あったが、こんなどろどろした真意を隠し合うようなものではなかった。
「そんなに悩むなら止めればいいじゃない」
「なんですって?」
 イザヨイがそんなことを言い出すとは思いもしなかった。
 彼女だけは自分を理解してくれていると思っていたのに。
「最近の永琳、なんだか変よ」
「私は私。何も変わってないわ」
 変わってしまったのはイザヨイの方ではないか。
「私は永琳みたいに天才じゃないから分からない。でも、そんなにボロボロになるまでして
 やらなくちゃいけないことなの?」
「分からないなら黙ってて!」
 そうだ。
 誰も私の悩みなんて理解してくれない。
 いや、元々誰かに理解してもらうことなど不可能なのだ。
 理解して欲しいという願望はあっても、所詮他人は他人でしかない。
 自分以外の誰にも自分を理解してもらうことなどできやしないのだ。
 それを理解してくれていたつもりになって、信用していて――。

「だからって、禁忌に手を出そうとしている友達を放っておくなんてできないのよっ」

 イザヨイが悲鳴にも似た叫びをあげた。
 哀しみの震えが混じったその叫びに、永琳は思わず思考を止めてしまう。
 イザヨイはどういう経緯でかは知らないが、自分が蓬莱の薬の研究をしていることを知っていたらしい。
 他の研究員にも極秘で続けている事をどうして彼女は知っているのか。
 いや今はそんなことは関係ない。
「私は永琳じゃないから、永琳がどんな想いで研究をしているのか分からない。
 でも永琳がしたいことでもそれがあなたを追い詰めているなら私は止めて欲しい」
「イザヨイ……」
「とりあえず私もあなたも落ち着きましょ。王宮仕込みの紅茶を淹れてあげるからちょっと待ってて」
 言って休憩室へと入っていくイザヨイ。
 永琳はその後ろ姿をじっと見つめていた。


 目の前には淹れたての紅茶。
 イザヨイが淹れてくれたもので、何度か飲んだことがあるが味は申し分ないはずだ。
 ここずっとはメイドとして王宮で勤めているため、その腕もさらに上がったと自負していた。
 あくまで自称なのでその真相は定かではなかったが、そんなことをかつての永琳は笑って聞いていた。
「いただくわ」
 お気に入りのカップに注がれたアップルティーを一口。
 風味も程良く少ししか口に含んでいないのに、香りが口にも鼻にも広がる。
 甘すぎず苦すぎず飲みやすい。
 落ち着くには最適な優しい味だった。
 それに一番気に入っているカップを選んでくれたのも、偶然ではないだろう。
 イザヨイはあえてそれを選んでくれたのだ。
 永琳はその優しさが固まっていた心を解してくれるように感じていた。
「美味しい。腕を上げたのは確かみたいね」
「そりゃ、あれだけしごかれたら嫌でも上がるわ」
 困ったような笑いを浮かべるイザヨイ。
 そういえばこの顔を最後に見たのはずっと前だった。
「さっきは言い過ぎたわ。勝手に部屋に入っちゃったし」
「言い過ぎたのは私も同じ、ごめんなさい。部屋に勝手に入るのは昔からだけど」
 それを言われると耳が痛いなーとイザヨイはまた笑った。
 その素振りに永琳も口の端を緩める。
 笑うなんてとても久しぶりな感じがした。
「ねぇ聞いても良い?」
 イザヨイの顔に真剣な色が浮かぶ。
 どうやら本題に入ろうということらしい。
 だが時間の経過とイザヨイの紅茶のおかげで冷静さを取り戻した永琳は穏やかに返した。
「嫌って言っても無理矢理聞くつもりのくせに」
「できれば永琳が自分の意志で言ってくれるといいんだけど」
「善処するわ。それで聞きたい事って何かしら」
 イザヨイは一口紅茶を飲んで喉を湿らせると、カップを置きながら尋ねてきた。
「どうして蓬莱の薬なんて作ろうとしているの?」
「作ってみたい。それだけよ」
 永琳は即答した。
 それ以外には理由など何もない。
 禁忌だとはわかっていても、自分の知識が技術がどこまでのものかを知りたいという
 自身の欲望がそうさせているだけだ。
「そっか。永琳はやっぱり凄いわ」
「イザヨイ……」
「どんどん上を目指そうとしているんだもの。私みたいな適当な人間には思いもつかない。
 それが禁忌なら尚更ね。でも、だから私は心配してるの」
「えぇ。さっきの紅茶の味でよくわかったわ」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
 言葉は時に無力。
 ならばそれ以外に思いを伝える術はないものか。
 そうしてイザヨイが辿り着いた答えが紅茶だった。
 永琳にはそれが伝わってくれたらしい。


「じゃあ今度はこっちから質問するわ」
 ホッとするイザヨイに永琳が尋ねた。
「私が蓬莱の薬を研究しているってどこで知ったの?」
「偶然ね、あなたと姫様が話しているところを立ち聞きしちゃったの」
 イザヨイは王宮でのことを包み隠さず永琳に話した。
「そう、迂闊だったわ。他の人に聞かれていたらもっと大事になっていたかも」
「そうよ。聞かれたのが私だったから良かったものの」
「そこは威張ることじゃないわ。姫の部屋の前で立ち聞きなんてメイド失格じゃない」
「う……それは、その……じゃなくて。そもそもどうして姫とあなたがそんな話をしていたの」


 そこから先は永琳が話す番だった。
 カグヤから興味本位で蓬莱の薬を見てみたいと言われ、その時から自身の知識欲がうずき始めていたこと。
 その欲に負けて研究を始めてしまったこと。
 家庭教師として出向く度に、その経過を報告していたこと。


 すべてを聞き終えたイザヨイは、怒ることもなく黙ったままじっとしていた。
「イザヨイ?」
「ねぇ、それで蓬莱の薬は完成しそうなの?」
 とても真剣な声でイザヨイは呟いた。
 じっとこちらを見つめる視線も彼女らしからぬ程真剣なもの。
 そんな風に聞かれて、そんな目で見られて、親友に嘘がつけるものか。
「いいえ。今の段階というか、私の腕でも完成は無理ね」
 それがすでに行き着いていた答えだった。
 それでもそれを認める事ができなくて、がむしゃらに研究を続けていただけ。
 自分の限界を認めてしまえば、それ以上上には向かうことはできないと、
 常に向上心を持ち続けている永琳は自然の内に思い続けていた。
 だがそろそろ認めても良いのではないだろうか。
「ねぇ、イザヨイ」



「私、これ以上は蓬莱の薬の研究はしないことにするわ」



 ☆



 蓬莱の薬の研究は完全に止まった。
 永琳はカグヤにもその旨を伝え謝罪した。
 カグヤは残念だなと言うだけで、それ以上責めることもしなかった。
 元々興味本位で頼んでみた程度のことでしかないのだ。
 それで極刑を科すほどカグヤも良識がないわけではない。


 これで全てが丸く収まった――はずだった。


 しかし事態はすでに最悪の方向へと進み始めていたのだ。
 永琳がそれに気付いたときには、すでに全てが遅かった。




 永琳が蓬莱の薬の研究をやめてから数日が経った。
 永琳は研究所の仲間達との研究に戻り、イザヨイも日々上司にしごかれて生活をおくっている。
 蓬莱の薬が研究されていた永琳の研究室は今は殆ど使われないまま、
 そろそろ片付けて別の研究者に譲ろうかということに決まりかけていた。
 そんなある日のこと。


 城での生活に退屈していたカグヤは、こっそりと隣接している研究所へとやってきていた。
 家庭教師の永琳をちょっとからかいに来たのだ。
 だが問題が発生した。
「永琳はどこにいるのかしら」
 無断で来ているため、人に聞くことはできない。
 自力で永琳を見つけ出すしかないが、この研究所は広すぎる。
 流石は月一の設備と施設ということなのかもしれないが、
 そのおかげでカグヤは立派な迷子になってしまっていた。
「もー……これじゃあ迂闊に歩き回れないじゃない」
 適当にうろうろしていたら、何処で誰と出会うとも限らない。
 慎重に歩を進めながら、カグヤは永琳か出口を探していた。
 もはや永琳を見つけるよりもさっさと城に戻った方が良さそうだと気付いたらしい。
「なんでこんなに無駄に広い建物を建てるのかしら」
 先代の王族に理不尽な悪態をつきながら、カグヤは通路を歩いていた。
 その目にふと研究室のネームプレートが目に入る。
『八意 永琳』
 まだ片付けの済んでいない永琳の研究室。
 ネームプレートもそのままにされていたようだ。
 しかしそんなことなど露も知らぬカグヤは、これで永琳を見つけられたと喜んで部屋へと入った。
 突然現れた自分に永琳はどんな顔をするだろうか。
 そんなことを考えながら室内を見渡す。
 だがそこには誰一人いなかった。
 室内は暗く、誰の気配も感じられない。
 ただ研究機材やら薬品やらがそのままにされているだけ。
「なんだ永琳はいないのか」
 ちぇーっと残念そうに呟くカグヤ。
 だがこのまま買えるのも勿体ないと室内を物色してから帰ることにした。
 ここには王宮では見られないようなものが山のようにある。
 その全てがカグヤにとっては新鮮なものだった。
「ふぅん、永琳はこんな物を使って研究をしているのね」
 カチャカチャと目に付く物を手に取ってみては目を輝かせる。


 そして最後に行き着いたのは永琳の使っていたデスクだった。
 そこに置かれた一冊のノートと一つの薬瓶。
「……研究ノート?」
 中にはよくわからない数式やら図形やらが無秩序に描かれている。
 まとめたと言うよりは走り書きの為のノートのようだ。
 そこに何が書かれているのかなどカグヤには理解できない。
 だがそのノートに書かれた、ある単語が目に付いた。
「蓬莱の……薬」
 カグヤはノートから薬瓶に視線を動かす。
 このノートと共に置かれたこの薬。
「これが蓬莱の薬……」
 ごくりと唾を飲み込んで、その瓶を手に取る。
 しかしそれはあくまで未完成の薬だ。
 これには永遠の力はなく、一時的に傷や病気を治癒したり多少老化を抑える程度の効果しか持たない。
 永琳が最後の最後まで完成できなかったのは、「永遠の力」の付与。
 永遠の力を作り出す術を永琳は見つけられず、研究は終えられたのである。
 カグヤも未完成のままで終わったということは永琳から聞いていた。
「これが蓬莱の薬の未完成品……」
 瓶の蓋を取って匂いを嗅いでみる。
 特別な香りはない。
 手にとって見てみるが、他の丸薬と何も変わり映えはない。
 実際に飲んでみなければわからないということだ。
「未完成なら飲んでも大丈夫よね」
 しかしやっぱり手を付けるのは不味いのではないかという後ろめたさも感じられる。
 飲もうか飲むまいか決めあぐねるカグヤ。



 そのとき巨大な爆発音と衝撃がカグヤを襲った。



 ☆



「何っ! いったい何が起こったの!」
 永琳はパニックに陥っている他の研究員達を落ち着かせて指示を出す。
 こういう場合は闇雲に逃げず、状況を性格に把握し適確な判断が求められる。
「どうやら第八班の研究室で巨大な爆発が起こったようです!」
「よりにもよって八班かよっ」
「研究所全体が巻き込まれるのも時間の問題だ」
 八班は特に劇薬を扱っている。
 そこが爆発したとなればただでは済まない事態になってしまうだろう。
 一刻も早くここを脱出しなければ。
「みんな、慌てずに避難通路を使って逃げるのよ」
 永琳の言葉に従って次々と研究員達は脱出していく。
 ぎりぎりまで残って避難誘導をしていた永琳も脱出に成功した。



 ☆



 王立研究所はその後完全に崩れ、残ったのは瓦礫の山と助からなかった者達の亡骸だけだった。
 警邏隊の兵士達がその収拾作業にあたり、亡くなった者達の遺体が次々に発掘されていく。
 永琳もその場にいた。
 自分の所持品を見つけるとかそういうことではない。
 研究員だけでなく、なんと王までがここに出向いていた。
 王宮に隣接している研究所が爆発したが、幸い王宮にはさほど被害が出ていない。
 だが王家にはこれ以上にない被害がでていたのだ。
「まだか! まだ見つからんのか!」
 王の怒声は切実な悲鳴にも似た想いが込められていた。
 それもそのはず。


 王の娘――つまりカグヤがこの事故に巻き込まれたのだ。


 それを知った永琳もいてもたってもいられず、こうして事故現場へとやってきたのである。
 しかし規模が規模だけに、なかなか遺体の捜索は進まない。
 もうすでに作業が始められてから数時間が経過しているというのに、まだ半分も終わっていない。
 王宮の兵士の全てがかり出されての一大作業なのにだ。
 しかしその時、王の下に一報が告げられた。
「何! 娘が見つかっただと!?」
 だがそれは自分の娘の死という現実と向き合わなければならない。
 それでも確認せずにはいられない。
 どれだけ酷い有り様であろうとも、王として父としての矜恃が彼にはあるのだ。


「これです」
 屍体が集められた一角に、他と同じように布で覆われた小さな体が横たわっていた。
 他の屍体とは明らかに大きさが異なっている。
 王の後ろで永琳もその光景をつぶさに見守っていた。
 そして兵士の一人がその布をそっと取る。
 途端地面に崩れ落ちる王。
 永琳の目にも映った現実。
 爆発でかなり酷くなっているがそれは紛れもなくカグヤの体だった。
 どうして研究所に彼女が来ていたのかわからない。
 だが自分が見つけてあげていられたなら、こんなことにはならなかったのに。
 今更そんなことを考えてもしょうがない。だが考えずにはいられないのだ。
 カグヤは二度と戻ってこないのに――
「ひっ、うわああああああっ」
 突如響き渡る兵士の悲鳴。
 それは屍体に掛けられていた布を取った兵士のものだった。
 何事かと顔を上げる一同。
 その目の前で信じられない光景が広がっていた。
「なんなんだ……どうなっているんだ、これはあっ!!」
 どうなっているのか。
 それはその場にいた誰もが理解しがたいことだった。
 確かに死亡は確認されたていたはずだ。

 なのに、今、目の前で



 死んだはずのカグヤが蘇ろうとしているではないか。



 ☆



 多くの者が見守る中、カグヤは完全に蘇った。
 ただ息を吹き返したのではない。
 言葉の通り「完全に蘇った」のである。
 最初からあんな事故に巻き込まれなかったかのように。
 かすり傷一つなく、なんの後遺症も残さず。
 生前の彼女と変わりなく、カグヤは蘇ったのだ。


 そんなことができるのは蓬莱の薬を服用するほか考えられない。
 その後の現場調査で永琳の研究ノートが見つかり、その疑惑は確信へと変わった。
 禁忌である蓬莱の薬。
 その精製を行ったとして永琳は裁きを受けることとなり、王宮に罪人として召喚された。
 何も申しだてすることはない。
 精製しようとしたのは事実で、まさか完成しているなど思いもしていなかった。
 しかし現にカグヤは蓬莱の薬を服用したとしか考えられない体となっている。
 それがカグヤの命を救ったのは事実だが、それ以上に禁忌を犯した事への罪は重かったのである。

 裁判所には永琳と判決を伝える裁判官しかいなかった。
 弁護をするものなどいるはずもない。
 永琳はただ静かに裁判官が口を開くのを待っていた。
「罪人八意永琳。禁薬蓬莱の薬の精製を行ったと罪を認めるか」
「はい」
「申し開きはないか」
「ありません」
「そうか」
 ただ一言頷くと裁判官は口を噤んだ。
 そしてそのまま判決を出すかと思われたとき、兵士の一人が裁判官の下へ近づいてきた。
 何をしているのかと永琳が不思議に見ている中、その兵士は裁判官になにやら耳打ちをする。
 しばらくして兵士が去っていた後、残されたのは永琳と裁判官のみ。
「八意永琳、それではこれより判決を言い渡す」
 さっきの兵士がいったい何を言っていたのか。
 そんなことはもう関係ない。
 自分がしたことの罪は何をしようとも軽減されることはないのだ。
「無罪」
 ほら、やっぱり……
「何ですって」
「聞こえなかったのか? 無罪だ」
 そんなバカな話があってたまるものか。
 裁判官はもう全て終わったと言わんばかりに席を立つ。
 だが永琳はそれで納得できるはずがない。
「待ってください。無罪って……」
「王直々の命令だ。お前は無罪で釈放しろと」
 さっきの兵士はそれを伝えに来たのだ。
 だが王がどうして禁忌を犯したものを無罪にするなど。
「お前の頭脳は失うには惜しい。王にそう助言したものがいたそうだ」
 誰かは知らんが、と裁判官は言う。
「つまりお前にとっては命の恩人というわけだ。感謝しておくんだな」
 裁判官はもう良いだろう、と部屋を後にした。
 残された永琳はただ呆然とするだけだ。
 それは無罪になった事への安堵なのか、それとも別の何かなのか、それは永琳自身も混乱して分からなかった。


 何がなんだかわからぬまま釈放された永琳。
 ふらふらとした足取りで自宅へと向かう途中、誰も自分と目を合わせようとはしない。
 もうすでに自分が無罪判決を受けたことは知れ渡っているはずだ。
 例え無罪であっても許されはしないのはわかっていた。
 これがあるべき罪人の姿である。
 自重の笑みすら浮かべてしまいそうな状況の中、永琳の目にふと入ってきた報道。
 それを見た永琳の顔からは一切の表情が消え失せた。



 それは姫に課せられた残酷で非道な判決。



《後半へ》

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