賽銭箱ろわいやる


 魔法の森の霧雨邸。
 かろうじて届く朝日は硝子窓を通して室内へ。
 薄暗い室内に指す光は、散乱した一人暮らしの部屋を煌々と照らし出した。
「…………んぅ」
 ベッドの上でシーツにくるまって寝返りをうつのは家主の霧雨魔理沙。
 一人暮らしという気ままな身分のため、起床時間も本人次第だ。
 昨日は夜遅くまで魔術書を読み耽って、就寝時間がずれ込んだ分こうして日が高くなってもまだ起きられないでいる。
 そんな魔理沙を起こそうとするかのように、天窓から朝日が彼女の顔を照らした。
 眩しさに顔を背け、意地でも睡眠を貪ろうとする魔理沙。
 出掛ける予定もないし誰かが来る予定もない。
 元より予定を立てて生活していないのだから当然ではあるが――


「魔理沙ーっ! いるんでしょう、出てきなさいっ」


 ……予定がないということは、突然の来客が来るのもまた当然である。
 まだ惰眠を貪りたい魔理沙としては居留守を決め込みたいところだ。
 だが聞こえてくる声とそこに含まれる感情が、それを許してくれない。
 もしこのまま放っておいたら間違いなく酷い目に遭わされる。
「あーもぅ」
 しぶしぶながらにベッドから這い出て、シャツにドロワーズという年頃の少女としては、
 はしたない格好のままクローゼットの前へと移動する。
「ねぇーっ、いるならさっさと出てきなさいよーっ」
 外からはさらにイライラした声で催促が掛かる。
 そんなことを言われても着替えているのだから仕方ないだろう。
 だがこんなことで家を壊されてもアレなので、魔理沙はできるだけ急いで着替えを済ませることにした。



「で、朝っぱらから人ん家の前で大声で叫ぶ程の用事って何なんだ?」
 魔理沙にしても寝ているところを叩き起こされたので、あまり機嫌は宜しくない。
 言葉が刺々しくなるのも致し方ないだろう。
 だがそんな魔理沙よりもずっと機嫌が宜しくない顔を相手はしていた。
「何なんだ、じゃないでしょ」
 腕を組んで、声にも顔にも苛立ちと怒りが滲み出ている訪問客。
 手には愛用の殴り棒、もとい御祓い棒。
 紅白の無駄にめでたい衣装に身を包んだ博麗神社の巫女、博麗霊夢だ。
「分からないから聞いてるんだぜ」
「そう分からないの。なら仕方ないわね」
 言いながら霊夢は御祓い棒を振り上げる。
 人間の魔理沙にとっては、有り難いお札よりもこっちの方が受けるダメージは大きいとわかっているのだ。
 いやそうではなく、素直に分からないと言っているのにこの仕打ちはないだろう。
「待て待て。お前はいつからそんなに人の話を聞かない人間に育った?」
「生憎だけどシラを切る相手の戯言なんて聞く気になれないの」
 不味い。非情に不味い。
 理由はまったく見当が付かないが、今日の霊夢の怒り方は本物だ。
「あ、あれか? この間の宴会の時に片付けしないで帰ったことを怒っているのか?」
「そんなのいつものことじゃない」
「じ、じゃあアリスと弾幕ごっこをして、境内を少し焦がしてしまったことか?」
「そういえばあの屋根の修理も頼まないといけないわね」
 どうやらどれも違うらしい。
 しかしもうこれで心当たりは全て言った。
 昔のことを上げればキリがないが、そんな前のことにまで執着するような性格ではないはずだ。
 だからこそ、霊夢をこれほどまでに怒らせる理由というものがわからない。
「ごめん!」
 魔理沙はもはや万策尽きたと頭を下げた。
 何があったかはわからない。わからないからまずは謝っておく。魔理沙にしては珍しい選択だ。
 それだけ本気で怒った霊夢はやばい存在ということが窺い知れる。
「白状する気になったのかしら」
「いや、そうじゃなくてだな」
 自分は本当に何も分からないのだということを必死に伝えた。
 霊夢は冷たい視線でそれを見ていたが、その必死さが伝わったのかしばらくするといらだった雰囲気は消えていた。
「……はぁ、もういいわ」
「そっか、わかってくれたんだな」
 良かった良かったと笑う魔理沙。
 だが霊夢の表情は晴れず、先程の怒りから一転凄く落ち込んだ表情になった。
 こんな顔の霊夢もあまり見ることはない。
 本当に何があったというのか。
「なぁ、何があったんだ?」
 本来なら一番最初に来るべき言葉をようやく言えた。
 なかなか話が本題に乗らず先へ進まないのは日常茶飯事ではあるが。
「わからないなら言っても仕方ないと思うけど」
「まずは聞いてみないとわからないぜ」
 すると霊夢はここに来るに至った経緯を話し始めた。


 ☆


 いつもと変わらぬ朝の訪れ。
 別に公務があるわけでもないが、目が覚めてしまった霊夢は布団から這い出した。
 閨から見える空は晴天そのもの。日中も良い天気は続くだろう。
 せっかくだし布団でも干そうかなと、早起きを有効活用することにした霊夢。
「よいしょ、っと」
 庭まで布団を運び、物干し竿によいしょと掛ける。
 軽く叩いて埃を落としたら、後は太陽に任せておけばいい。


 なんだか朝から動くと気分が良い。
 こんな日は良いことがありそうな、そんな気にさえなる。
 もしかして賽銭箱にお賽銭が入っているかもしれないという淡い希望さえ浮かんでくる。

 ここは神社だというのに参拝客は殆どおらず、集まってくるのは迷惑な奴らばかり。
 元々人が近寄りやすい場所には建っていないが、それでもこの寂れっぷりは如何ともし難い。
 なんだかんだで生活はできているが、それでも空っぽの賽銭箱を見ると無性に虚しさがこみ上げてくる。
 たまに五円玉一枚でも入っていたら、それだけで万々歳だ。
 あまりいろんな事には関心を持たない霊夢だがこれだけは気になってしまう。
「昨日は覗いてないし……もしかして十円くらいは入っているかも」
 十円で喜べる性格になんの疑問も持たないのが痛々しいが本人はてんで気付いていない。
 なんとなく予感がして、母屋から境内へと向かう。
 誰もいない朝の境内は澄み切った空気でいっぱいだ。
 まさに今の自分の心中が澄み切っているかのように。


 だがそんな全てを覆す光景が霊夢を待ち受けていた。


 あるべき場所にあるべき物がない。


 ☆


「――というわけ」
「いやいや。今の話の何処に私に怒りを覚える要素があった?」
 というわけ、と簡単に締めくくられてしまったが魔理沙は逃さなかった。
 賽銭箱が消えたというのは、霊夢にとって充分怒るに値する出来事だ。
 だがそれと自分とどう関係があるというのか。
「だってあんたが盗ったんでしょ?」
 そうだと信じて疑わない真っ直ぐな視線と言葉。
 いっそ眩しさを感じるほど純粋に言い切れられたが納得できるはずがない。
「待て。なんで私がお前の賽銭箱を盗むんだ? 第一あんな御利益もなさそうな賽銭箱、
 盗もうなんて誰も思わな、ったあーっ!?」
「もう一度言ってみなさい。今度は夢想封印発動よ」
 手に持った御祓い棒の一閃。容赦ない一撃はかなり痛い。
「わかったわかった。でも私は盗んじゃいないぜ」
 さっきから何度も弁明の言葉を口にする魔理沙。
 流石にここまでくるとシラを切っているわけではないと霊夢も気づき諦めた。
「そうね。ここにいても時間の無駄だということは分かったわ」
 霊夢はそう言うとくるりと踵を返し、ふわりと浮かび上がった。
 一番の容疑者である魔理沙が外れたのなら次の容疑者をあたるまで、ということらしい。
 一刻も早く賽銭箱を探し出して犯人に制裁を加える。
 つい長話になってしまった、その分の時間も取り戻さなければ。


 ☆


 霊夢はとりあえず次に怪しいと考える所へと向かっていた。
 若干いつもより飛んでいる速度が速く感じられるのは、それだけ霊夢が本気だということなのだろう。
 異変解決の時ですらここまで真剣な表情は見せまい。
 その目的、動機が賽銭箱というのは少々アレな感じもするが、本人は至って真面目も真面目、大真面目である。
「で、なんであんたが付いてくるの」
 霊夢は首を動かさずに、隣を飛んでいる黒い魔法使いに話しかけた。
 箒に跨って霊夢の隣にくっつくようにして飛ぶ魔理沙。
「だって私はお前に叩き起こされたんだぜ。そのお詫びをもらうまで付いていく」
「弾幕で良かったら今すぐにでもお見舞いしてあげるけど?」
 それは遠慮しておくぜと言いつつも、それでもついていくことをやめることはない。
 こんな面白そうなことを魔理沙が諦めるはずがないのは当然だ。
 いつも飄々として何事にも何処吹く風を貫く霊夢が賽銭箱のためにかけずり回る。
 こんなイベントそう滅多とお目にはかかれまい。
 魔理沙はにやにやと笑みを浮かべながら、急ぐ霊夢の背を追った。
「なぁ霊夢。ところで何処に向かって飛んでるんだ?」
「次の心当たりよ」
 霊夢は振り返ることなく端的に告げた。話し相手をしている時間も惜しいといった具合である。
 しかしそんな霊夢の様子など無視して魔理沙は話を続けた。
「霊夢から賽銭箱を奪うなんてよほどのバカか物好きだな」
 別に霊夢は賽銭だけで生活をしているわけではない。
 むしろその収入に頼って生活していては一週間とてまともな生活はできないだろう。
 しかしそれでも霊夢は賽銭に異常な執着を見せる。
 霊夢曰く、賽銭箱を覗いたときに一円でも入っていたのを見たときの恍惚がたまらないらしい。
 賽銭箱とは言うなれば、霊夢にとってお茶を飲むのと同じ日々の楽しみなのだ。
 その楽しみを突然奪われたのだから彼女の怒りも分からないではない。
 しかし霊夢は怒らせてはならない者の一人として多くの者が認識している。
 犯人はそれを知ってのことか、それとも知らずにやったのか。前者は質が悪く、後者は頭が悪い。
 ともかく犯人に対する霊夢の制裁はきっと凄まじいものとなるだろう。
 魔理にとってはその様子を高みの見物するのが一番の目的である。
 果たしてその哀れな犠牲者、もとい許すまじ犯人は誰なのだろうか。
「なぁそろそろ何処に向かっているのか教えてくれたって良いんじゃないのか?」
「教える必要はないわ。あんたは犯人じゃなかった。その時点で今回の件とは関係が無くなったんだもの」
「でも行き先くらいは一言で済むし教えてくれたっていいんじゃないか?
 なにも霊夢の邪魔をしようっていうわけじゃないんだしさ」
「邪魔をする気なら即刻撃ち落とすわ、よ?」
 ふいに霊夢の語尾が疑問系のアクセントを含む。
 彼女の視線は地上へと向けられている。
 魔理沙もそれを倣って同じように下を見た。
 広がっているのは巨大な森。別段変わった風はない。
 いつもなら何事もなく通り越していく通過点過ぎない場所だが、そこに霊夢は何を見たというのか。
「ん、あれは……」
 よくよく目をこらしてみると、木々の緑色の合間に爽やかな水色が見えた。
 ここら一帯の妖精達から「大妖精」と呼ばれており、いつの間にかその呼称が定着してしまった妖精だ。
 せっかく背中には立派な羽が生えているというのに、森の中を歩いて移動している。
「何やってるんだ? まぁ、私たちには関係ないけど……って霊夢?」
 魔理沙はまさか霊夢が彼女に興味を持つとは思っていなかった。
 どう考えても大妖精は今回の件とは無関係な性格だ。
 如何に悪戯好きな妖精と言っても、博麗神社から賽銭箱を盗むような真似はしないはずだ。
 だがそんな魔理沙の予測とは裏腹に、霊夢は大妖精の元へと降りていく途中だった。
 魔理沙は慌てて箒の角度を下へ向けその後を追うことにした。


 ☆


 大妖精は何も飛べないわけではない。こうして森の中を歩くのが好きなだけだ。
 涼やかな風と木漏れ日を一身に受け、自然の恵みを全身で感じ取る。
 今日も平和そのもの。
 特に大きな争い事も面倒事もない。……いや、なんだか変な物は見つけたけれど。
 それでも別段大して大変な事は起きていない。
 なべて世はこともなしとはよく言ったものである。
「歩きながら呆けるなんて器用ね」
「ひゃわぁっ」
 目の前に突然降りてきた巫女。
 あまりにも驚いた大妖精は大仰に尻餅をついた。
「おいおい怖がってるぜ?」
「別に何もしていないわよ。この子が勝手に驚いただけだわ」
 霊夢は飛行中に乱れた髪を手櫛で整えながら、魔理沙の冷やかしにまったく悪びれることなく言った。
 あんな登場のされ方をすれば、誰でも驚きそうなものであるが霊夢にはそこを指摘しても意味はないだろう。
「あ、あの……」
 いきなり驚かされて尻餅まで打ったというのに、その後はてんで会話に入らせてもらえない大妖精。
 おずおずと間に入ってはみたが、その様子は明らかに怯えを見せている。
「私に何か用……ですか?」
 声は震えており、下手をすれば今にも泣き出しそうな瞳で霊夢達を見ている。
 大妖精は以前霊夢達にコテンパンに打ちのめされたことがあり、
 そこに彼女たちの性格がこのようであることも加わって苦手意識が芽生えてしまっているのだ。
 しかし苦手に思われていようがいまいが、霊夢達が気にすることは断じてない。
「見かけたから一応聞きに来ただけよ」
「聞きに、って何をでしょうか」
「あなた、この辺りで賽銭箱を見なかった? もしくはそれを盗んだ犯人」
「え、えっと……賽銭箱って何ですか?」
 これは霊夢も予期していなかった返答だった。妖精達に賽銭という文化はないから当然のことだ。
 霊夢は簡単に賽銭箱という物の外観を説明した。
 賽銭箱がなんたるかを今ここで説いたところで時間の無駄だし
 何より理解してもらっても肝心の賽銭箱がないのではまったくもって意味がない。
 ちなみに魔理沙によると霊夢に賽銭の話をさせたら小一時間は軽くつぶせるらしい。
 閑話休題。
 賽銭箱の形を理解した大妖精は、あぁと呟きポンと手を打った。
「見ましたよ」
「本当!?」
 散歩をしていたときに何故か森の中に木の箱が置いてあったのを発見した。
 天板には縦格子があり、さらにそこから中を覗くと二枚の板が中央に向かって斜めに取り付けられている。
 いったい何なのか大妖精にはさっぱり理解できず、どこかに移動させようにも重たくてできず結局そのまま放置してきた。
 そのことを霊夢に告げると、鬼気迫る様子で霊夢は詰め寄ってきた。
「それは何処なの!」
「ひぅっ」
 再び瞳に涙を溜めて怯え出す大妖精。
 しかしそんなことで怖じ気づいていては賽銭箱を取り戻すことはできない。
 霊夢はがっしと大妖精の肩を掴むと再び同じ質問を繰り返した。
「そ・れ・は、何処なの?」
「あ、あっちです……」
 指差した方向へと首を動かす霊夢。
 強く掴んでいた手を離すと、霊夢はすたすたと歩き始めた。
 大妖精はこれまた突然のことに、解放されても動けずにいた。
「今日の霊夢はいつもの三倍増しで怖いぜ。何もされなくて良かったな」
 動けない大妖精の頭をぽんぽんと手の平で叩くと魔理沙も霊夢の後を追っていった。
 一人取り残された大妖精だが、しばらくはそのまま動くことはできなかったという。



 大妖精が指し示した方向を進む霊夢と魔理沙。
 森の中にある為、上空からでは見落としてしまう可能性があるためこうして徒歩で捜索を行っている。
 いつもの霊夢なら面倒くさがって空を飛んでいるだろうが、今日の彼女は違うのだ。
「それにしても森の中でって、いい加減な説明だな」
 大妖精はそうとしか言わなかった。言えなかったのかもしれないが。
 ともかく目印になりそうな物が全くと言っていいほどない。
 ここは大妖精の言葉と霊夢の勘だけが頼りである。
 当の霊夢だが、ただ黙々と歩を進め魔理沙が言った言葉にも耳を貸していない。
 今ここで、「れーいーむっ」とか言いながら後ろから飛びついたら……
(考えただけで恐ろしいぜ)
 勝手に想像してぶるりと背筋を震わせる魔理沙。
 もう何をしゃべっても霊夢からは返答がないので、魔理沙もついには黙ってしまっていた。
 だからだろうか、要らぬ事が次々に思い浮かんでくる。
 しかしそのたびに恐ろしいヴィジョンが脳裏に浮かび決行までは至らずにいた。


 それから十分程度歩いた頃だろうか。
 ずっと無言で歩き続けた二人は、賽銭箱ではなく別のものを見つけていた。
「なぁ霊夢」
「なに魔理沙」
 二人は揃って足下の“それ”を凝視している。
 それがなんなのか分からないわけではない。
 だがどうしてそれが、こんな風にここにいるのかは理解できずにいた。
「どう見てもチルノだよな」
「そうね。あの頭の弱い氷精に間違いないわね」
 二人の足下には氷精チルノが倒れていた。
 しかも全身傷だらけで意識がない。寝ているというわけではないようだ。
 それにこんな傷はただ遊んでいただけではつくはずがない。
「誰かと争ったのか」
 魔理沙はしゃがみ込んで意識のないチルノの頬をつつく。返ってくる反応はない。
 喧嘩っ早いチルノのことだ。誰彼構わず弾幕ごっこを申し込んで返り討ちにあった、そんなところだろう。
 だがこのやられっぷりは見事なものだ。
「まぁ放っておいても問題ないわね」
 ただ気絶しているだけだとわかると、霊夢は再び先を急ごうと歩き始める。
 確かに下級妖怪が自分勝手に暴れて倒れるなど日常茶飯事だ。それを逐一気にするなど愚の骨頂である。
 魔理沙もチルノを別に心配することもなく、霊夢の後を追おうと立ち上がろうとする。
 だがその時チルノが譫言の様に呟いた一言に魔理沙はその腰を中途半端に上げたまま動きを止めた。
「……はこ?」
 チルノは確かにそう言った。何度か呟くのを聞いたから間違いない。
 はこ、とはどういう意味なのか。いやすぐに心当たりは思い出された。
 だがそれとこれと何の関係があるのか。
「とりあえず霊夢についていくかな」
 考えても答えが出そうにないので魔理沙はすっぱりと諦め、すでに歩き出している霊夢の後を追った。
 しかし彼女たちはこの時点で気付くべきだった。
 自分たちがとんだ思い違いをしていたということに。


 ☆


 結局大妖精に言われた方向へと歩き続けても、賽銭箱を見つけることはできなかった。
 ついには森の出口までやってきたというのに手がかりすら掴めていない。
「まったく妖精の言う事なんて真に受けるんじゃなかったわ、はぁ……」
 骨折り損のくたびれもうけとでも言いたげに、霊夢は溜息をついた。
 頭上にはすでに日が高く昇っており、お腹も昼食を求めて小さく鳴き始めている。
 だがここで魔理沙が休憩の提案をしても霊夢が聞く耳を持つとは考えにくい。
 普段なら霊夢が真っ先に休憩を提案しそうなものだが、今回は何度も言うようにいつもとは違うのだ。
「それで次は何処に行くんだ?」
「そもそもの目的地からは随分離れちゃったから、行くなら別の心当たりね」
「別のって、どんだけ心当たりがあるんだ?」
「そうね。うちに騒ぎに来る奴ら全員かしら」
「しれっと言ってるけど、かなり酷いぜ」
 中でも真っ先に疑われたのが自分だと思うと、なんだかショックだ。
 もっと疑わしい連中ならいくらでもいるというのに。
 紫とか幽々子とかその他諸々とか。
 しかしそうなると目的地はだいぶ絞ることができる。
「ここからだったら永遠亭だな。ついでに昼ご飯も頂いていこうぜ」
「勝手にしなさいよ。私は強盗に荷担なんてしないから」
 頂く=強奪、という魔理沙方程式は霊夢も認識している。
「心外だな。奪うなんて一言も言ってないぜ」
「まぁ私の邪魔にならなければ何だって構わないわ」
「わかったわかった。とりあえず永遠亭に行くとしようぜ、ってまたお前は!」
 魔理沙が気付いたときには、すでに霊夢は空に浮かび上がっていた。
 慌ててその後を追いかけて魔理沙も永遠亭への途を急いだ。


 ☆


 かつては外界にあったと言われている迷いの竹林。
 永遠亭はその竹林の奥深くに佇んでいる。
「いつ来ても静かで良いわね」
「そうか? 私は静かすぎて耳が痛いぜ」
 そんなことを話しながら門前へとやってきた。
 霊夢は賽銭箱の為に。魔理沙は昼ご飯の為に。それぞれの目的を胸に門をくぐり玄関へと踏み出す。


 ぐに。


 足下に違和感を感じて立ち止まる霊夢。
 なんだか柔らかい物を踏みつけたような、そんな感覚だった。
 あまり良い予感はしないまま足下へと視線を向ける。
 案の定あまり見ても良いものではなかったらしく霊夢はまた大きな溜息をつく。
「ちょっとこんな所で寝てたら風邪引くわよ」
 しかし放っておく訳にもいかずしゃがみ込んで、踏みつけたそれを軽く揺する。
「どうしたんだ?」
 しゃがみ込んで何かしている霊夢に魔理沙が話しかけてきた。
 そのまま霊夢の手元をのぞき込んで目を見張る。
 そこには傷だらけの姿で、これまたこっぴどくやられて気絶しているてゐの姿があった。
「どうなってるんだ?」
「さぁ。ここまで辿り着いたのは良いけれど玄関までは辿り着けなかったんじゃない?」
「それにしても酷いやられっぷりだな。さっき見たチルノの方が可愛らしく見える」
 先程も同じように何者かにやられて気絶しているチルノを見つけたばかり。
 てゐのやられ方はそれを上回る酷さである。
 何があったのか気になるところだが、気絶していては話を聞くことができない。
 ひとまずは屋敷の中に入って事の顛末を知っている者に話を聞くほかないだろう。
「あ、あんた達。いったい今日は何のよ……」
 玄関先で話していたのが聞こえたのだろう。扉が開いて中から鈴仙が顔を出した。
 なんの用よ 、と言おうとしたのだろう。だがそれははばかられた。
 彼女の視線は二人の足下で倒れているてゐを凝視している。
「ねぇ魔理沙。なんだかとても嫌な予感がするんだけど」
「まぁどうにかできないことはないけどな。お腹も空いてるしあんまり動きたくないぜ」
「そうね。だったら先手を打ってしまうっていうのはどうかしら」
「おぉそれは名案だな」
 なんだか勝手に話を進めている二人。
 しかし鈴仙も鈴仙で、自分勝手な想像を巡らせていた。
 どう考えてもあの二人がてゐをやったように見える。
 まさかまた襲撃でもしにきたというのか。
 もしそうならばここで食い止めなければなるまい。
 てゐだって曲がりなりにも一つ屋根の下で暮らす仲間だ。
 どんなに嘘をつかれて酷い目に遭わされようとも、その点において変わりはない。
「あなた達っ! これ以上の非道はゆるさないわっ」
 ビシィッと指を突きつけて決めたつもりだったが、その人差し指が指していたのは
 もう目前に迫っていた霊夢と魔理沙の姿だった。


「――で、ウドンゲに攻撃される前に先にふんじばったと?」
 二人は不意打ちで鈴仙を倒した後屋敷の中で永琳と会い、事の次第を伝えた。
 とりあえず話を聞くからと二人は茶の間に通されたのだ。
 ちゃぶ台を囲んで座っているのは霊夢と魔理沙、そしてこの屋敷の主の従者八意永琳。
 家主は自室に籠もって読書中とのことらしい。
 ちなみにちゃっかりと昼ご飯が並べられている。
 来て早々まずはそれを催促したのである。
 霊夢の前にも置かれており、彼女もなんの躊躇いもなく箸を付けていた。
「強盗に荷担しないんじゃなかったのか?」
 魔理沙がにやにやしながら告げる言葉も霊夢にとっては何処吹く風。
「くれるって言ったからもらっただけよ。もらえる物は有り難くもらっておくもの。
 お寺でいう托鉢みたいなものかしら」
「それは違う気がするぜ」
 喋りながらも着々と二人の膳は空っぽになっていく。
 そんなやり取りを続けながら、永琳の言葉にはまったく耳を貸さない様子の二人。
 器用なものねと半分感心し、半分呆れながら永琳は話を進めようと尋ねる。
「あなた達、まさかそれが目的でてゐとウドンゲを倒してまでしてやってきた訳じゃないわよね」
「そりゃそうよ。私にはちゃんとした目的があってわざわざ足を運んだんですもの」
「私は昼ご飯目当てだぜ」
「あんたは黙ってなさいよ」
「はいはいそれで? こんなことをしてまでの用事って何なのかしら。博麗霊夢」
「あー、そうそうあんたに聞きたいことがあったのよ」
 霊夢はすっかり出された食事を平らげて、ようやく本題に入った。



 霊夢の話を聞き終えた永琳は、しばらく何かを思い出そうとするように腕を組んだ。
 しばらく永琳が考えている間、霊夢と魔理沙は食後のデザートに舌鼓を打っている。
「この屋敷はサービスが良いな」
「本当ね。紅魔館のケーキもいけるけど、ここのお餅も中々に美味だわ」
 今朝はあれだけ気が荒立っていた霊夢だが、今はすっかり丸くなってしまっている。
 魔理沙は、もしかして霊夢は朝食を抜いていてお腹が空いていたから苛々していたのではと密かに思った。
 当然そんなことを本人に言えるはずもないが、霊夢の変わり様を見ているとそんな気がしてならない。
「賽銭箱が盗まれたって話だったわね」
「えぇそうよ。森の中で大妖精が見かけたって聞いたけど、そこにはもう無かったわ」
「残念ながら私もそんな物の行方なんて知らないわ」
 そんな物と言われて霊夢は少しムッとする。
 だが神社関係者――つまり霊夢以外に賽銭箱を重視する者は多分殆どいない。
 それに博麗神社はいつも閑古鳥が鳴いている状態であることは皆が周知の事実である。
 永琳のように淡泊な反応をされて怒るのはお門違いというものだ。
「私にとっては大事な物なのよ。何でも良いから手がかりになりそうなことは?」
「それなんだけど、あなた達が来る一時間前くらいだったかしら。てゐが何羽かの兎と一緒に出掛けていったのよ」
 それが帰ってきたときにはボロボロの姿で霊夢達に見つけられることになった。
「で?」
 それと賽銭箱盗難との関連性が今ひとつ掴めない。
「手がかりになるかどうかは知らないわ。気懸かりなことを言ったまでよ」
「はぁ……さっきまでの間はなんだったのよ」
 考え込んでいた割には大した情報は出てこなかった。
 これでは本当に昼食とデザートを頂いただけではないか。
(あぁそういえばまだデザートを食べている途中だったわ)
 思考が食べ物に切り替わり、目の前の皿に手を伸ばす霊夢。
 だがその手は空を掴むだけで、目当ての餅は掴めなかった。
「ふー、ご馳走様だぜ」
 隣には満足そうな笑みを浮かべる魔理沙。
 口の端に拭き忘れたあんこがついている。その頬が赤く腫れたのは言うまでもない。


 ☆


 またもや手がかりを失ってしまった霊夢と魔理沙。
 一応心当たりとなる箇所はまだ残っている。
 だが最早そこをしらみつぶしに回ることに霊夢は嫌気を感じていた。
「はぁ、この際向こうから何か仕掛けてくるのを待とうかしら」
 賽銭箱を盗んだ犯人はただそれだけを目的にするとは考えにくい。
 その犯行に対しての霊夢の反応を見ようとしていると考えるのが妥当だろう。
 ならばこちらから何もしなければ痺れを切らせて向こうから何かしてくるかもしれない。
 それならそれで迎え撃てば良いだけだからこちら側の労力は少なくて済む。
 あれだけ躍起になっていたのに、今は随分落ち着いてしまった。
 もしかすると本当に魔理沙の予想通りお腹が空いていたのが原因かも知れない。
 しかしそんな思考に行き着こうとしていた霊夢を魔理沙は叱咤した。
「今更何を言ってるんだ? ここまで付き合った私の手間はどうなる」
「それはあんたが勝手に着いてきただけじゃない」
「諦めるくらいなら最初から私を起こすな」
 どうやらそれが本音らしい。
 だが霊夢には魔理沙が言うように、諦めるに諦めきれない気持ちがあるのも事実なのだ。
 その二つの気持ちの間で葛藤する霊夢。
「お前にとって賽銭箱はその程度のものだったのか?」
 その言葉に霊夢はハッとする。
 賽銭箱の隅っこの方に微かに光り存在を示す硬貨を見つけたときのあの悦び。
 少なからずも願いを込めて投げ込まれたであろうその賽銭を手に取ったときの温もり。
 あの瞬間の感情は何ものにも代え難い刹那の至福。
「そうね。ここで諦めたら朝食を抜いてまで探し回った意味がないわ。
 魔理沙に言われて、というのがちょっと癪だけど」
「最後のは余計。決まったならさっさと心当たりの次に行くとしようか」
 箒に跨り空へと浮かび上がる魔理沙。
 その影を見上げる霊夢の目に、それとは別のもう一つの影が飛び込んできた。
 それは次第に大きさを増しこちらへと向かってきているのがわかる。
 上空にいる魔理沙も近づいてくる影に気がついたらしい。
「おーい、霊夢。なんか来るぜー」
「わかってるわよ。それで何が来てるの?」
 魔理沙は右手を目の上にかざして正体を見極めようと目をこらす。
 だがいつの間にかその影は見えなくなっていた。
 どこにいったのかと首を左へと動かし――
「うひゃわあっ」
 思わず声を上げてしまったのは、その顔面に別の顔が迫っていたからだ。
 しかし魔理沙と違って相手は至って平然としている。
「どうもこんにちは」
「なんだ嘘八百の天狗か。驚かすなら先に言ってくれ」
「別に驚かすつもりはないですし、言ってしまったらそもそもの意味が無くなりますよ。
 あと嘘八百なんてそれじゃあまるで私がでっち上げの記事ばかり扱ってるみたいじゃないですか」
 丁寧なようだが何処か皮肉めいた言葉を返すのは、幻想郷の中でも一二を争う駿足烏天狗の射命丸文だ。
 どこからともなく現れては、適当に見つけた出来事を適当に記事にするゴシップ記者である。
 しかし彼女が来てくれたのはある意味幸運とも言える。
 日々文々。新聞の為に幻想郷を飛び回っている彼女なら、賽銭箱泥棒の事も何か知ってるかもしれない。
 なんだか凄く都合の良い登場だが利用できるものは利用するべきだろう。
「丁度良かったわ。あんたに聞きたいことがあるんだけど」
「私も貴方に聞きたいことがあって来たんです。取材させてください」
 させてくださいといいながら、すでに手帳を取り出し完全にその体勢に入っている。
 しかも許可など一言も出していないのに。早速質問を始めてしまった。
「とうとう強行手段に出たようですが、そこに至るまでにどんな心境の変化があったんです?」
「え?」
「ですから時々荒れることもあるけれど大体は日和見主義な貴方が
 あんな手段に出るなんて、よほどのことがあったんですよね?」
「いやだから何が?」
 文の言っていることにまったくもって理解できない霊夢は困惑の疑問詞を返すばかり。
 対する文は文で霊夢が知らないでいることに困惑しているようだ。
「もう少し詳しく話してくれないかしら。私はあんたの言っていることがまったく理解できないんだけど」
「あれ? 私はてっきり貴方がお賽銭が入らないことに腹を立ててあんな事をしたのかと……」
「あんなことってどんなこと!?」
 突然霊夢が文の肩を掴んだ。
 賽銭というキーワードが出てきたのだ、落ち着いてなどいられるものか。
「あんた賽銭箱の在処を知ってるのね、知ってるんでしょうっ? 白状なさいっ」
 がくがくと肩を揺さぶり尋ねる霊夢。
 完全に主導権を奪われ、文はもはや為すがままにされてしまっている。
「しし知ってます。教えますかららら、離してくださいいい」


 ☆


 あの後凄い剣幕で詰め寄られた文は、取材秘密だと答えることも許されずに二人の案内役をさせれられていた。
 彼女からしてみれば、記事にできそうだと取材に近づいただけなのにとんだ災難である。
 まあ近づいたのが霊夢と魔理沙という時点で、警戒をしていなければならなかったのかもしれないが。
 何にしても今となっては大人しく案内を行うのが得策というものだ。
「なぁそれにしてもなんかおかしくないか?」
「何よ藪から棒に」
 魔理沙は前を行く文の姿を目で追いながら、隣の霊夢に話しかける。
 霊夢の手には文が逃げないように縛ってある縄が握られているので逃げられることはない。
「この方角って白玉楼だろう? 賽銭箱はそこにあるんだよな」
「あの天狗が嘘をついていなければね。この状況で嘘をつくなんてしないでしょうけど」
「だったら尚のことおかしいぜ」
「だから何が……あぁそういうこと」
 話している内に霊夢も魔理沙の言わんとしていることに気がついたらしい。
 だがあまり奇怪には感じていないようだ。
 まったく大したことではないと、清ました顔は崩れない。
「あんな重たい物がこうも簡単に居場所を変えるなんて不思議だってことでしょう?」
 霊夢の言葉に頷く魔理沙。
 確かに賽銭箱のような重量のある物を、森の中から消えて冥界まで運ぶなど誰が好き好んでやろうか。
 目的地に運ぶ途中で一旦休むために森の中に置いていたのだとしたら合点はいくが、
 それが冥界にあるという時点でこの可能性も消える。
 幽々子にせよ妖夢にせよ、そんな力がないのは承知のことだからである。
「でもこんなことができる奴らは何人かいるわ」
 力持ちの奴、手下の数が多い奴。
 その中でも怪しい奴といえば頭に浮かぶのはあの得体の知れなさを湛えた笑みを浮かべる奴しかいないだろう。
 魔理沙は疑わしい候補のトップであり、怪しさという点においてはそんなに怪しくはない。
 大平に自身のことを晒しているから怪しいも何もないのだ。
 怪しさの塊と霊夢達が口にしているのは、八雲紫彼女をおいて他にいない。
「紫なら冥界との関わりも深いしな」
「でもあまりに安直すぎるかも……」
「いいっていいって。簡単に解けた方が霊夢だって楽で良いだろう」
 スキマをちょちょいと操れば、賽銭箱を移動させるなんて寝ていながらでもできるだろう。
 意味もなく人をおちょくるのが好きな奴だから動機なんて予想することの方が愚行である。
「ここのところは宴会に顔を出すくらいで何もしていなかったから油断してたわ」
 でも、と霊夢は思う。
 確かに紫が犯人であるという可能性は結構最初の頃から考えていたことではある。
 だがそうではないかもしれないと、自身の勘がそう告げてくるのだ。
 解決の鍵はもっと別の部分にあるのではないだろうか。そんな気さえ浮かんでくる。
 それでも賽銭箱は冥界にあるという情報を掴んだ以上、まずはそこへ向かうほかあるまい。
 霊夢は考え中の思考を現実へ引き戻し、冥界への道を急いだ。


 ☆


 冥界白玉楼。
 天空に浮かぶ巨大な門を抜け、長階段を上った先に広がる二百由旬の庭がそれだ。
 門まで辿り着くと、もう案内は必要ないですねと言って文は足早に二人の元を飛び去った。
 一刻も早く解放されたかったのだろう。文の姿はあっという間に見えなくなった。
「さてと、賽銭箱は何処にあるのかしら」
「冥界のことは冥界に住んでる奴に聞くのが一番だぜ」
「それもそうね。そろそろ半霊剣士が出迎えてくれると思うんだけど……」
 出迎えるというより、実際の所は迎え撃つと言った方が正しい。


 庭師魂魄妖夢は広大な庭の何処にいても冥界に侵入者があれば必ずその元へとやってくる。
 そして背に携えた二振りの刀で撃退に掛かってくるのだ。
 だがしかし。
「遅いわね」
「まったくだ。職務怠慢だな」
 いつもならもう弾幕ごっこが始まっていてもおかしくない頃合いだ。
 しかし今日に限っては姿すら見せない。
 どこぞの死神のようにサボっているということは考えにくい。
「……どうやら先客がいるようね」
 霊夢が口元に人差し指を立て、静かにしろとジェスチャーを送る。
 魔理沙が耳を澄ませてみると遠くの方から微かではあるが音が聞こえてきた。
 妖夢はそこで二人よりも先に侵入してきた何者かの相手をしているに違いない。
「行ってみるか」
「勿論」
 二人は一気に庭へと続く長階段を上っていった。



 そのしばらく前のこと。



 妖夢はいつものように庭師の仕事を行っていた。
 昼飯時になって幽々子が自分を呼ぶまでにはまだ時間がある。
 ようやく本来の仕事ができるというものだ。
「と思った矢先に……」
 庭には彷徨っている魂以外には誰もいない。
 だからそれ以外の何かが入ってくれば、その異質な気配はすぐに察知できる。
 しかも今回の侵入者は今までに感じたことのない気配を醸している。
 知っている者の侵入ではないとすれば、否応にも妖夢の緊張は高まる。
 冥界に侵入するにはそれ相応の力も必要なため尚更だ。
 木々の剪定に使用していた刀を鞘に収めてその気配のする方へと風のような速度で向かう。
「私は西行寺家二代目庭師、魂魄妖夢! ここを冥界と知っての侵入か! ……って、あれ?」
 ばっちり前口上も決まったというのに肝心の侵入者の姿が見えない。
 代わりに目の前にあるもの。それは――
「賽銭箱よね、これ」
 賽銭箱と言えば思い当たるのは神社しかない。
 博麗の巫女が何か企んでいるのだろうか。
 それにしては霊夢の気配は微塵も感じられない。
「でもなんで賽銭箱?」
 考えれば考えるほどここに賽銭箱がある理由が分からない。
 妖夢はおそるおそる近づいてみて、まずは楼観剣で小突いてみる。
 反応無し。
 次はもっと近づいて様子をうかがってみる。
 これまた反応はない。
「なんだ、何かあると思って警戒しすぎたな」
 妖夢はその中をのぞき込んだ。
 案の定空っぽである。
「なんで霊夢は賽銭を集める努力をしないんだろう。もっと巫女としての仕事をこなせば参拝客だって来るかもしれないのに」
 「増えるかも」ではなく「来るかも」というのがなんとも物悲しい。
 霊夢といい三途の川の死神といい、どうしてああも働くことから逃げるのか。
 労働の素晴らしさをどれだけ語ったところで、こればかりは感性の問題だ。
 働くことを気持ちいいと本人が感じられなければ、いつまで経ってもかわることはできないだろう。
「まったく、あんなだから賽銭箱だっていつまで経っても“空っぽ”なんだ」
 何気なく呟いた一言。
 だがその言葉に賽銭箱が突然反応しガタガタと動き始めた。
「ななななになになにっ!?」
 一気に後退り、離れた位置からその様子を見守る妖夢。
 賽銭箱の動きはさらに激しくなり、まるで何かが入っているかのように飛び跳ねだした。
 もはや賽銭箱などと呼べる代物ではない。
「なんなのよおっ」
 賽銭箱は飛び跳ねるだけでは飽きたらず、しまいには変形まで始めてしまった。
 腕が現れ足ができ、顔らしき物が以後に現れると完全に人型の絡繰り人形が完成した。
 もう妖夢の混乱した頭ではまったく理解することはできない。
「うわぁぁぁんっ、幽々子様ぁっ」
 剣士としてのプライドもなにもあったものではない。
 得体の知れない恐怖に、見目相応の立ち居振る舞いで怯えを露わにする妖夢。
 普段のなんでも斬り潰そうとする半霊剣士の面影は見る影もない。
「おーい、妖夢ー」
 そこへ物音を聞きつけた霊夢と魔理沙がやってきた。
 妖夢がその声に反応してよそ見をした瞬間である。
 元賽銭箱の絡繰り人形――らしきもの――はもの凄い速度で飛び上がると、いずこかへと飛び去ってしまった。
 恐怖の元が消え、緊張の解けてしまった妖夢は思わずその場にへたり込んでしまった。
「おい今のアレは何だったんだ」
 わけのわからないものが飛び去った方向を見ながら魔理沙は妖夢に尋ねる。
 だが妖夢はまで話せる状態ではない。
「そんなことより賽銭箱は見なかった? 天狗はここで見たって言ってたんだけど」
 霊夢からしてみればあんな訳の分からないものよりも賽銭箱の方が重要だ。
 訳の分からないものなどこの幻想郷にはごまんと溢れている。
「さ、賽銭箱っ」
「そう、さっさと在処を白状なさい」
「い、いやっ、怖いっ」
「はぁ?」
 霊夢は魔理沙に訳が分からないと視線を送る。
 しかし魔理沙も妖夢が怯えている理由がわからないと両手を挙げるだけだ。
「お困りのようですわね」
 そこへ3人とは別の声が会話に混じる。
 その声に霊夢は溜息をつき、魔理沙は苦笑を浮かべる。妖夢はそれどころではない。
「あら、無視とは失礼千万ね」
「それならさっさと出てきなさいよ。姿を見せずに話しに入ってくる方がよっぽど失礼だわ」
「はいはい、せっかちね」
 空間に線が入り、そこから異次元に繋がるスキマが生じる。
 霊夢達が見守る中、そのスキマから金髪の少女が顔を見せた。
「お前はもう少し普通に登場できないのかね?」
「これが私の普通な登場の仕方ですわ」
 まあいつも通りと言えばいつも通りに現れた紫に霊夢はやはり溜息をつく。
 そこに込められた意味は様々だ。
「それにしても霊夢。貴方はいったい今まで何をしていたの」
「また何よ。今日は突然なことばかり言ってくる連中ばかりで訳が分からないわ」
 いろんな所を巡っては自分の知らないところで何かが起こっている。
 それを多方向から、しかもなんの脈絡もなく言われてもさっぱりだ。
「とりあえずこんな所で立ち話も何だし白玉楼でお茶でももらいましょ」
「それは大賛成だぜ」
 それに妖夢もこのままにはしておけない。
 なにせお茶を淹れてくれるのは彼女なのだから。



「それじゃあ一息付けたことだし、さっさと本題に入りましょうか」
 妖夢の淹れてくれたお茶を飲み終え、お代わりも充分にもらった後霊夢は話を切り出した。
 賽銭箱盗難から始まった今回の事件。
 いろんな所を回り、未だ手がかりもほとんど無い状況だがどうにかしないわけにはいかない。
 いったんは諦めかけたことだが、諦めないと決めたのだ。このまま手ぶらでは帰りたくない。
 そもそも犯人候補として今一番怪しい奴が目の前にいるのだ。
「紫、“また”何かやらかしたの?」
「やぁね。“今回は”何もしてないわよ」
 同席している幽々子が笑顔で告げ、紫も笑顔で返す。
 幻想郷で得体の知れなさの一二を争う二人の笑みは、まったくもって何を考えているのか読み取れない。
 だが今の会話には霊夢にとって聞き捨てならないことが含まれていた。
「ねぇ今回は何もしていないって、本当なの?」
「まさか私を疑っていたのかしら」
 躊躇いもせずにこくりと頷く霊夢。
「酷い、酷いわ霊夢。一緒に満月を取り戻しに行くほどの仲なのに」
 さめざめと泣き真似をする紫。
 ばればれな演技なのは意図してやっているのだろう。だから質が悪いというのだ。
 それにあの一件は紫が無理矢理連れ出したのではなかっただろうか。
「はいはいそれで? あんたが犯人じゃなかったなら誰が私の大切な賽銭箱を盗っていったのよ」
 霊夢の言葉に紫と幽々子は顔を見合わせる。
 そして霊夢の方にチラチラと視線を向けながらひそひそと二人だけで話を始めた。
「感じ悪いわね。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに」
「言いたいことを言われたら怒るからだろうぜ」
 魔理沙の脳天に容赦ない一撃。
 頭から煙を上げて机に突っ伏す魔理沙。
「これで邪魔は入らないわ。さっさと話してちょうだい」
 霊夢の催促に苛立ちが含まれ始める。
 それに観念したのか、単に話したいだけなのか紫はその要望に応じた。
 その口元に浮かんだ笑みから察して後者である可能性は高い。
「霊夢、ここに来たときに飛んでいったアレ。何なのか分かるかしら」
「速くてよく見えなかったわ」
 ただ人の形に似た何かだったような、その程度なら覚えていると霊夢は答えた。
 しかしそれが何であるのかまでは、あの一瞬では理解できなかった。
「急かされていることだし単刀直入に言うわね。あれが貴方のお探しの物よ」
「お探しのって……冗談でしょ?」
 霊夢が探している物、それは賽銭箱。
 あの人型の何かがその賽銭箱だと? 信じられないのも当然だ。
「それは本当ですよ」
 そこへ妖夢が入ってきて紫の言葉を肯定する。
 彼女は目の前で賽銭箱が形を変えるのをまざまざと見ていたのだ。
 話を聞き終えた霊夢は、最初こそ信じられなかったようだが紫の付け足す話を聞く内にだんだんとそれが真実であると思い始めた。
「あれはね。付喪神化した賽銭箱なのよ」
「付喪神化ってことは私の賽銭箱が妖怪になったって言うの?」
「そうよ」
 妖怪化すれば変形したり空を飛んだりしても、別に不思議がることはない。
 実際鈴蘭畑の毒人形のような妖怪だって存在しているのだ。
 しかし何も賽銭箱まで妖怪化しなくても良いと霊夢は思う。
「博麗神社はなんだかんだで古い建物。賽銭箱も相当な年代物だわ」
「付喪神になる可能性は多分にあったというわけね」
 紫の言葉に幽々子が答えを付け加える。
 それは霊夢にもわかっていることだ。
「とりあえずここで反論してもなんだしあんた達の話は信じるわ」
「それは良かった」
「でもちょっと待って。ここに来る途中で妖怪達がやられているのを見てきたんだけど」
「多分賽銭箱の仕業でしょうね」


 最初賽銭箱は森で見かけられた。
 しかし見つけたのは賽銭箱ではなくぼろぼろになって気絶したチルノだった。
 そこから近くにある永遠亭に向かうと、今度はてゐが倒れていた。
 そして永琳はてゐが森に行ったことを教えてくれたではないか。
 チルノは興味本位で近づき何かしようと――多分凍らせようとでも――したのだろう。
 そして反撃にあった。
 てゐはてゐで博麗神社の賽銭箱を見つけたのなら何かに利用しようとしたと考えても不思議ではない。
 悪戯以上に賽銭箱の機嫌を損ねたてゐはチルノ以上に酷い仕打ちを受けたわけだ。


「これ以上いろんな場所で暴れられても困るわね」
 ちょっかいを出す妖怪を返り討ちにする今の程度なら問題はないが、いつ郷で暴れ出すとも限らない。
 そうなれば博麗神社は妖怪を生み出す神社として悪評が立つ。
 それに郷を守っているワーハクタクからも目を付けられてもおかしくはない。
 とにかく色々と面倒事が巻き起こるのは火を見るよりも明らかだ。
 このままにしておくわけには勿論いかない。
「妖怪化したといっても賽銭箱は賽銭箱。妖怪の力を封じたり清めれば元に戻るはずよ」
「何でもかんでも知ってるような口ぶりね。やっぱりあんたが一枚噛んでるんじゃないの?」
「まさか。さっきも言ったでしょう。“今回は”何もしてないって」
 言ってることが信用できないから疑うのだが。
 しかしここで紫と押し問答を繰り返していては埒があかない。今はそんな時間が惜しいのだ。
 一刻も早く妖怪と化した賽銭箱を調伏しに行かなくては。
「でもどこにいるのかしら」





「……で、なんでまたあんたが着いてきてるのよ」
 夕焼けの朱を受けながら飛んでいる霊夢の隣には、一眠りして元気を復活させた魔理沙がいた。
 もうとことん最後まで付き合うつもりらしい。
 今は鼻歌交じりに黄昏時の朱と蒼のグラデーションを楽しんでいる。
「他人事だと思って無責任な奴ね」
「そりゃ他人事だしな。ところで付喪神の居所は分かってるのか?」
「勘よ」
 最後に頼れるのは情報ではなく自身の力だ。
 今までだってこれに頼ってなんとかなってきた。
 今回もそうであると言い切れないが、そうでないとも言い切れない。
 夜になれば他の妖怪達も活動を始めてなにかと動きづらくなる。
 次に行く先でどうにかしなければ今日はもう見つけられないだろう。
 時間が経てば経つほど、分が悪くなるのはこちらの方なのだ。
「それにしても賽銭箱が妖怪になるなんてな」
「何よ」
「いや神社って聖域みたいなものだろう。そこの道具が妖怪化するなんてよっぽどのことだぜ」
「そういえば紫も気になることを言っていたわね」
 いったい今まで何をしていたのかと。
 そんなの他方を飛び回って賽銭箱を探していたに決まっている。
 だが紫はそんなことを言いたいのではなかったはずだ。
「なんだっていいわ。さっさと賽銭箱を元に戻すだけよ」
 そうすれば別に何を言われていたとしても構わない。
 終わりよければなんとやらというやつだ。
「お、見えてきた見えてきた。あそこが目的地なんだな?」
 魔理沙の言葉に答えないが、霊夢の顔を見ればそうであるとわかる。
 夕焼けの朱にも負けないほどの紅に染まった大きな館。
 湖は二つの赤に染められてまるで燃えているようにさえ見える。
「紅魔館か。永遠亭、白玉楼とくれば残っているのは此処かマヨヒガくらいだしな」
「くれぐれも邪魔はしないでよね」
「朝から何度同じことを言ってるんだ。もう耳にたこだぜ」
 それでもわかってないから言うのだと霊夢は思った。
 しかしそれを言う前に、もう紅魔館の庭が目前に迫っていたため口には出されなかった。
 それに言ったところで無駄だというのは霊夢が一番知っている。
「あっ、おいあれ!」
 魔理沙が箒から身を乗り出すようにして指差すが、そんなもの必要ない。
 霊夢の目もしっかりと奴の姿を捉えていた。
「あれが私の賽銭箱……」
 どう見ても賽銭箱には見えないその風貌。
 しかしその体に刻まれた『奉納』の二文字、風雨にさらされ年季の入った木の色を見ると直感的に理解できる。
 これは紛れもなく博麗の巫女達が守り続けてきた神社の宝であると。
 どうやら紅魔館にはまだ被害が出ていないらしい。すんでの所で間に合ったようだ。
「長かった鬼ごっこもこれで終わりね。さぁ、一緒に神社に帰るわよ」
 賽銭箱妖怪に近づき機会を窺う霊夢。
 大人しくついてくれば別段荒事にまで広げる必要はない。
 だがチルノやてゐの“あの姿”を目の当たりにしていることもあり、油断はできない。
 実際の所、本当にあれが目の前の奴の仕業かどうかも定かではないのだが、
 この後の反応で全てが理解できることだろう。
 じりじりと確実に距離を近づける霊夢。
 いつもの弾幕ごっことは違って忍耐と緊張による戦いだ。

「あーもー面倒だぜっ」

 突然の大声に霊夢の背中が硬直する。
 これだからつれてくるのは嫌だったのだと後悔させる暇も与えず、脇を通り抜けていく高エネルギー砲。
 ミニ八卦炉から放たれたマスタースパークが、ものの見事に賽銭箱に命中した。
「って、あんた何してんのよっ!」
「こっちの方が断然早いだろうに」
「あれほど邪魔をするなって言ったでしょうが!」
「何を言ってる。これは邪魔じゃなくて立派な手助けだぜ」
 えっへんというお約束な言葉が相応しいポーズで自身の行動を肯定する魔理沙。
 もう何も掛ける言葉が見つからない。
「賽銭箱が壊れちゃったら何にもならないのに……」
「どんまいどんまい。やっちゃったものは仕方ないって」
 お前が言うかと憎しみを込めた瞳で訴える霊夢。
 だかその目で睨んだ魔理沙の視線はまったく別の方向を向いていた。
「あんた良い度胸ね。この状況で私のことを無視するなんて」
「いや、そうじゃない。霊夢、喜ばしい事態が起こってるぜ」
 魔理沙は言葉とは裏腹に表情は堅くなっている。
 その視線の先、粉塵の中に黒い影。
「確かに喜ばしいことだわ……傷一つ付いてないなんて」
 賽銭箱妖怪はまったく先程と同じ形でそこに立っていた。
 砂埃で汚れてはいるものの、目立った傷は一つも付いていない。
 魔理沙のマスタースパークは確実に命中したはずだ。この目でしっかりと見ていたのだから間違いない。
「ならもう一発喰らわしてやるぜっ」
「だっ、やめなさいよ!」
 霊夢の講義も空しく魔理沙は第二波を放つ。
 賽銭箱妖怪は迫り来る魔砲を前にしても微動だにしない。
 一瞬でその姿は魔砲の光に包まれる。
「あーあー……」
 霊夢が情けない声を上げ、魔理沙は今度こそと勝ち誇った笑みを浮かべる。
 だが――
「だからなんでなんだっ!」
 光が収まった後、賽銭箱妖怪は何事もなかったように立ち尽くしている。
 その様子に霊夢はホッと胸をなで下ろす。
「どうやらあんたの攻撃は効かないようね」
「む〜……」
 魔理沙にしてみれば渾身の一撃を二度も喰らわせて無傷というのはどうにも納得がいかない様子だ。
「さぁ、邪魔が入ったけど今度こそ帰るわよ」
 両腕を広げて促す霊夢。
 だが賽銭箱妖怪は近づいてこない。
 代わりに賽銭箱妖怪の腹部――元々は賽銭を投げ入れる部分が観音開きに開いていく。
 いったい何を始めるのかと霊夢と魔理沙が見つめた瞬間、賽銭箱妖怪は腹部から突然エネルギー砲を発射してきた。
「おっと」
 強力なエネルギー砲は避けた二人の背後にあった木を吹き飛ばす。
 その威力は魔理沙のマスタースパークと互角といっても過言ではない。
「まさかあれだけの力を持っているなんて……」
 吹き飛ばされた跡を見てその威力をまざまざと痛感する。
 賽銭箱がたかだか人型になったくらいで、あんなにも強い力を持った妖怪に変化するだろうか。
「流石は博麗神社の賽銭箱。そこらの妖怪よりも桁違いの力の持ち主ね。誰に似たのかしら」
「ねぇ、あんたはどこまで知ってるのよ」
 まったく驚きもせず、いつの間にか隣にいた紫に霊夢は尋ねた。
 紫の絶えることのない微笑の奥には必ずまだ何かが隠されている。
「あの賽銭箱は殆ど空っぽ。だからそこに入る物を求めている。それが賽銭でなくてもね」
「成る程な。私のマスタースパークも食われていたってわけか」
「でも賽銭箱である以上、そこに入るべきは賽銭が相応しい」
 要らないものはどうする? 答えは簡単、はき出せばいい。
 先程の攻撃はマスタースパークそのものだったのだ。
 ならばあれだけの威力があって当然である。
「それじゃあどうすれば倒せるって言うんだ?」
「力ずくがダメなら平和的解決しかないじゃない」
「お前が言っても説得力がないんだが……」
 魔理沙に一撃を加えるのを欠かさず、霊夢は賽銭箱妖怪へと一歩踏み出す。
 たしかにもうそれしか方法は残っていないだろう。
 手を出すからやられるのだ。
 ならばそれ以外の方法で事を済ませるほかない。
「色々と邪魔が入ったけど本当にもう何も起こらないわよ。さぁ早く帰りましょ」
 にっこりと微笑んで攻撃の意思がないことをアピールする霊夢。
 元々は同じ神社で過ごした者同士、きっと説得は届くはず。
「貴方は今までお賽銭がもらえなかったからいろんな所を回っていたのよね」
 賽銭が入っていないことの空虚感は自分もよく知っている。
 賽銭箱が永遠亭や白玉楼、そしてこの紅魔館に訪れたのも、
 きっといつも賽銭を入れることのない連中から賽銭をもらうためだったのかもしれない。
 だとすればなんといじらしい行動ではないだろうか。
「あなたの気持ち、よくわかるわ。でもこんな方法をとっても誰もお賽銭なんてくれないわよ」
 お賽銭とは無理矢理に迫ってもらうものではない。
 神社にあって願いを込めて奉納されるのが賽銭の意義だ。
「ね、だから一緒に帰って待ちましょう」
 霊夢の言葉が届いたのか、賽銭箱妖怪はゆっくりと霊夢に向かって歩いてきた。
 背後を振り向き魔理沙と紫に向かってピースサインを送る。
 魔理沙は悔しそうな表情を浮かべ、紫は依然として笑みを浮かべたままだ。
「良い子ね。それじゃあ帰りまし」


 刹那、霊夢の体が宙を舞った。


 視界が一回転するのをまるでスローモーションのような体感速度で見つめながら、
 霊夢は体を痛みが襲うまで、いったい何をされたのか気付くことができなかった。
「霊夢っ!?」
 まさかこんな反応が返ってくるとは魔理沙も予想していなかったらしい。
 相手はただ攻撃を吸収してはき出すだけが攻撃の術ではなかったのだ。
 しかも霊夢は何もしていない。妖怪の方から仕掛けてきた。
「あらあらよっぽど恨まれていたようねぇ」
 クスクスとさも面白そうに笑みを溢す紫。
 それはこうなることを事前に知っていなければできない反応だ。
「ゆ〜か〜りぃ」
 よろよろと立ち上がり、すぐさま紫に詰め寄る霊夢。
「やっぱりあんたの仕業なんでしょう!」
「人聞きの悪い。今のは自業自得でしょうに」
「どういうことよ!」
 憤慨する霊夢に、紫は淡々と告げた。
「あの妖怪は賽銭箱が賽銭箱としての意義を全うできないでいたから妖怪化したの。
 そもそも付喪神は人間への恨みが道具に募ることで起こる現象。
 あの賽銭箱だって同じよ。貴方がいつまで経っても賽銭を入れてもらえるような
 努力をしないからいつまで経っても空っぽなまま。それが恨みとして蓄積されていたんでしょうね」
 紫は霊夢に言ったはずだ。
 いったい今まで何をしていたのかと。
 それはつまり妖怪化するまで何故放っておいたのかと、そう注意を告げていたのである。
「そんな……それじゃあ私の言葉は届かないの?」
 このままでは賽銭に飢えた奴が幻想郷中を暴れ回ってしまう。
「そうね。スキマの中に放り込んで異次元に捨ててしまうっていう手もあるにはあるわよ」
「それはダメよ」
「おいおいこの期に及んでまだあれに執着するのか?」
 もはやあれは賽銭箱ではない。賽銭を求めて彷徨う妖怪なのだ。
 しかしそれでも霊夢は退治することを是としない。
「あれはうちの賽銭箱よ」
「そうは言うけどな。お前の言うことだって聞かないんだぜ? どうしようって言うんだ」
「それは……」
 魔理沙に指摘されたようにもはや打つ手は残されていない。
 攻撃は吸収されてしまうし、説得の言葉も届かない。
 異次元に放り込む手も使いたくないとなれば、後はどうしろというのだろうか。
 万策尽きたかと思われたその時。
 遅ればせながらやって来た者がいた。
「こらーっ、そこの侵入者共ーっ」
 彼方から飛んでくるのはここ紅魔館の門番を務めている妖怪紅美鈴。
 魔理沙の度重なる訪問もとい襲撃によって、その評価は下がる一方という不幸な少女だ。
「ここで暴れるなんて私が許しませんよ!」
 この忙しいときにどうでも良い妖怪が現れたものだと霊夢と魔理沙は揃って肩を落とす。
 そんなことなど露とも知らない美鈴はカンフーの構えを取って立ちはだかる。
「毎度毎度好き勝手にやってくれているけど、今日という今日は許さないんだから」
 霊夢、魔理沙、紫と敵視するべき者達に強い意志を込めた視線を送る。
 そしてその目は四人目の訪問者の姿を捉えた。
 見たことのない顔だ。
「あれ? その変な奴……」
 動かないそれが賽銭箱妖怪であるとも知らずに美鈴は近づく。
 きっと近づいたところで空の彼方に吹き飛ばされる――彼女はそんなポジションだと誰もが思っていた。


 しかしそこで奇跡が起こった。


「あぁ、あなたは」
 美鈴はにっこりと微笑むと自身のその豊かな胸元に手を入れてまさぐる。
 けっしていやらしいことをしているのではなく、そこに入っている物を取り出すための動作だ。
 美鈴は小さな巾着を出し、そこから銀色に輝く硬貨をとりだした。
 そしてそれを妖怪の腹部へと投げ入れる。
 チャリン。
 あの独特の良い音と共に硬貨は賽銭箱妖怪の中へと吸い込まれていった。
 するとどうだ。
 賽銭箱妖怪はみるみるうちにその姿を元へと戻してしまったではないか。


 あれだけ異質な雰囲気を漂わせていたものが、まったく違和感のない賽銭箱へと戻った。
 事としては一件落着のはずだが、霊夢達にはどうにも納得がいかない。
「あんた、あれが賽銭箱だってわかってやったの?」
 美鈴に近づき霊夢は訝しむように尋ねた。
 まああの腹部を見ればなんとなく予想はつくかもしれないが、
 だからといってあの状況下で普通賽銭をいれるという選択肢を選ぶだろうか。
 すると美鈴はこう答えた。
「あれが賽銭箱だっていうのは気の流れでわかったんですよ。
 神社には何度か足を運んでいるので、知ってる気配だったし」
「そうだったの? それまたなんで」
「……お願い事をするために」
 美鈴は人知れず神社に通っては願い事をしては帰って行くということを何度か行っていたという。
 そして最近ようやくその願いが叶ったそうだ。
「それでお礼参りに行こうと思っていたんですよ」
 そんなある日にやってきたのがあの賽銭箱妖怪だ。
 初めこそその変わりように驚いたものの、その正体が神社の賽銭箱だと知ると
 願いが叶った事への感謝の念がこみ上げてきた。
 まさか向こうから出向いてくれるなど普通あり得ない。
 だがその出向いてくれた事への感謝も含めての行動があれだったのだ。
 想いの込められた賽銭を入れてもらえたことで、彼もしくは彼女の気が晴れたのだろう。
 幻想郷を賽銭箱の妖怪が賽銭を求めて彷徨うという事態は彼女の些細な行動が救ったのである。
「なんだか凄く意外な奴が終わらせたな」
「そうね。私もここまでは予想していませんでしたわ」
 魔理沙の隣で紫もこの顛末に意外さを隠しきれずに呟いた。
 いざとなればスキマに放り込まざるを得ないだろうと、彼女はそう思っていたのだが
 思わぬ奴の活躍によって事件は丸く収まってしまったのだ。
 それでも自身の神社の賽銭箱に思いっきり攻撃される巫女という面白い絵図は見られたので、紫としては満足なのであった。


 ☆


「それにしてもあんたがうちの神社で願掛けしていたなんてね」
 美鈴が博麗神社を参拝していたという事実を霊夢は今日初めて知った。
 しかも一度や二度ではなく、結構な回数だったらしいのにまったく気付かなかったのである。
「境内にはいつ行っても誰もいませんでしたよ」
「ちょうどお茶を飲んで休憩しているときに来ていたみたいね」
「霊夢はいつも休憩してるけどな」
「煩い。私だって気が乗れば境内の掃除くらいするわよ」
 そこを改めなければ参拝客など増えるはずがない。
 無人の神社に誰が御利益を感じることがあろうか。
 いや若干一名ここにいるが。
「それでお前はどんな願いを叶えてもらったんだ?」
「うふふ、それはですね」
 美鈴はとても嬉しそうな顔を浮かべる。
 何度も通ったということは、やはりそれだけ強く願っていたことなのだろう。
 それだけの願いと言われれば否応にも気になってしまうというものだ。


「実は最近誰も私のことを「中国」って呼ばなくなったんですよぉ」


 霊夢と魔理沙の動きが固まる。
 その話に反応しているのは言った本人だけである。
「私にはちゃんと「紅美鈴」って名前があるんですよ? それなのにみんなして中国、中国って」
 だからそう呼ぶなと躍起になって返していたのだが、まったく効果は上がらず
 ひいては逆効果で広まってしまうという事態を招いてしまった。
 それで最後は神頼みという結果に辿り着いたのだ。
「そうしたら最近本当に呼ばれなくなったんですよ」
 確かに名前は大事な記号だ。
 個を個として認識するにはどうしても必要となる要素である。
 美鈴は長い時間を掛けて、ようやくその尊厳を取り戻したのだ。
「なぁ一つ良いか」
 魔理沙が美鈴の肩に手を置く。
「なんですか?」
「それは願いが叶ったわけじゃないと思うぞ」
「そんなまた〜。だって本当に呼ばれなくなったんですよ?」
 確かにそうかもしれない。
 だがそれは美鈴が思っている最高の結果とは違うのだ。
「可哀想だから言わなくてもいいんじゃない?」
「いやいや、ちゃんと知っておかないと後になったらもっと可哀想だぜ」
「な、なんですか。さっきから」
 気の毒そうな顔を浮かべる霊夢と魔理沙。
 そんな顔をされては美鈴も気になってしょうがない。
「なんでも良いから言ってくださいよ。気になります」
 本人が言えと言ったのだからと霊夢もそれ以上は止めなかった。
 多分最初からそんな気は毛頭無いはずだが。
 止める役がいなくなって、魔理沙はその事実を美鈴に告げた。



「あのな。それは単にお前の影が薄くなっただけだ」



 ☆



 博麗神社の境内に、再び賽銭箱が戻ってきた。
 また妖怪化しないようにと、巫女はそれなりに努力を始めたと風の噂が流れた。
 しかしそれを聞きつけて、烏天狗が取材に赴いたときには、縁側で茶を啜る今まで通りの巫女の姿が目撃された。


 ちなみに余談ではあるが、紅魔館の門番が自室に引きこもって泣いていたのを
 メイド長が引きずり出して説教したという事件も起こった。
 その時の門番の第一声は「私は中国じゃありません」だったという。
 まったくもって意味不明な言葉に、メイド長の怒りはさらに上がったらしい。



 そう、幻想郷は今日も平和そのものである。



《終幕》  


☆後書☆

 これは第三回東方SSコンペに出典した作品です。テーマが『箱』ということで、
 やはりまず思いついたのは『賽銭箱』。
 これを料理するにあたり、ふと良案として浮かんだのが付喪神。
 賽銭箱がロボットみたいになって戦った格好よくね?みたいな……。
 本当は「サイセーン!!」みたいな声でもつけようかと思ってましたよ。
 ほらボウケンジャーに出てくるズバーンみたい、あんな感じで。

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