弔いの雫
幻想郷の端に位置する巨大な竹林。
人を寄りつかせない鬱蒼としたその林は、入った者を閉じこめる自然の迷宮。
そんな人目につかない場所だからこそ、訳ありの者が隠れ住むには最適だったりする。
その訳ありの者こと、蓬莱山輝夜と八意永琳が住む永遠の名を冠した屋敷――永遠亭。
そこには二人のほかに、多くの妖兎が住んでいる。
若干1羽、生まれの違う兎もいるが特に問題はない。
本当に問題なのは、現在この屋敷に住む生き物の総数だ。
正確な数を把握するのも面倒な数、と言えばどれ程多いか察してもらえるだろう。
そして生き物の数が多い、すなわちそれは屋敷の生活費も比例して多くなるということである。
幻想郷では貨幣価値がまだまだ認識されていない部分が目立つ。
しかし、食料の買い出しなどで利用する人里では、それなりに制度が認知されているため、どうしても資金が必要となる。
だからこそ食い扶持が多いことは、この幻想郷では最大の死活問題となりうるのである。
中にはたった一人でしか住んでいないのに、餓死寸前まで追いやられたという巫女もいるほどだ。
そうかと思えば外界の人間からの献上品で優雅な暮らしを営む吸血鬼のお嬢様もいるのだが、それは極めて希有な存在だ。
幻想郷の大多数の住人は自給自足で生活をしている。
とは言っても住人のほとんどは妖怪やその類で、その食料となるのはもっぱら人間だったりするのでお金は必要ない。
問題はそれ以外の住人、すなわち人間に代表される、人間を食料としない住人たちである。
彼らはどうにかこうにか食料を手に入れ毎日を食いつないでいる。
たいていの者は独りで住んでいるため、自分の分だけ確保できればそれで良い。
それでも前述に出てきた巫女のような不憫な生活を送る者もいる。
それでもまだ生きているという噂が流れている限り、どうにかこうにか生きているのだろう。
閑話休題。
話を永遠亭のことに戻そう。
永遠亭に住む妖兎は人間を食べない。野菜が主食だ。
もちろん人間である輝夜や永琳も人肉は食べない。
正確に言うと輝夜と永琳は人間とは違う存在――不老不死の蓬莱人なのだが、死なない人間というだけで、食生活はふつうの人間と変わらないのだ。
だからこそ食費がかさむのである。
輝夜を連れ戻すために地上へやってきた時に一緒に持ってきた月の品々。
貴重なそれらのいくつかを売り捌き、できた資金をやりくりして生活していたのだが、いつまでもそんな生活がままなるはずがない。
永遠亭の財源を取り仕切る永琳は、この大問題に終止符を打つべくある試みを行うことにした。
それは八意印の万能薬。
永琳は「月の頭脳」と謳われるほどの天才薬師である。
その腕にかかれば作れない薬などないと言われるほどの実力者だ。
それだけの才能を利用しない手はないだろう。
永琳が思いついたのは、その薬を売る、という単純かつ明快な方法だった。
しかしここで問題が発生する。
この幻想郷に住んでいるのは妖怪や悪魔といった人外の類がほとんどだ。
現に永琳たちの知り合いも、そのほとんどが人外の者達か、それらと肩を並べることができる特異な人間だけ。
そんな連中に薬という人間的なものが必要だろうか。
答えは当然、否、である。
病気にもかかることは――ほとんど――ないし、怪我もすぐに治る――というか怪我をするような事態がほとんど起こらない。
ということは、だ。
薬を売る対象がいないことなる。
ただそれは知り合いに限っての話だ。
この幻想郷に住んでいるすべての者が妖怪の類というわけではない。
もちろんちゃんとした人間も住んでいる。
幻想郷と外界との境界近くにはいくつかの集落があり、人間はそこに住んでいる。
只の人間なら病気にもなるし怪我もする。
そこで出番となるのが八意印の万能薬だ。
医者の数が少ないこの土地なら、よく効く薬はきっと売れるに違いない。
そう思って始めたこの商売は想像以上に繁盛した。
永琳の考えは見事的中し、永遠亭の食費問題はほぼ解決したも同然となった。
食事で争い奪い合うウサギたちの姿も、元姫という肩書きがいっそ惨めに見えるほど貧相な食事を輝夜に出すこともない。
平和という日常を手に入れた永遠亭。
そんな日々の中、些細な事件が勃発する。
☆
「ウドンゲー、何を手間取っているのー」
永遠亭の玄関先で大声を上げる永琳。
今から薬を売りに人里へ行くのだ。
背負っている葛籠の中には、すでに今回の受注分と即売分の薬は用意してある。
後は同伴者の支度が終わるのを待つだけなのだが。
「す、すみません。なかなか入りきらなくて」
五分ほど出立予定の時刻を過ぎたあたりでその同伴者がやってきた。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
長ったらしい名前はこの星の住人になりすますためのカモフラージュ……とのことだ。
ともかく、そんな真似をしなければならないことには、ちゃんとした理由がある。
それは彼女が“月の兎”だからだ。
以前彼女の元に、かつて住んでいた月の同胞からの連絡が入ったことがあった。
それはレイセンを連れ帰るというもの。
それを是としなかった輝夜と永琳は満月を隠す地上密室の術を使った。
偽りの月を異変と見なした人妖達にこっぴどくやられたものの、当初の目的――鈴仙を月へ返さない――は果たせたのだ。
そんなことがあったが、今ではすっかり幻想郷の住民としてなじんでいる。
おかげで安心して行商にもいけるようにもなった。
しかしいくら安心できるとはいえ、のんびりとしていたら日が暮れてしまう。
「売る薬は私が用意しているのよ。あなたの準備なんてお昼のお弁当くらいじゃないの」
「あ、里の子供達にあげるお菓子を詰めていたんです」
あぁそういえば、と永琳は納得する。
鈴仙を行商に同伴させるのは今回が初めてではない。
もう何回か連れていき、外の世界を学ばせている。
鈴仙のような人外は、幻想郷の人間にとっては見知った存在である。
そのため耳が兎のそれであっても、驚いたり怖がったりする者は一人もいない。
むしろ鈴仙のくしゃくしゃのウサ耳は、輝夜御用達の癒しアイテムとして活躍している。
そしてそれは里の子供達とて例外ではない。
いつの間にか鈴仙は子供達と仲がよくなっていた。
鈴仙は元より面倒見のよい性格である。
お土産を持って行こうと思いつくのは当然のことといえる。
だがしかし、だ――。
「時間に遅れるのには感心しないわね」
永琳が少し強めの口調で窘めると、鈴仙のクシャウサ耳がさらに垂れ下がる。
さながらロップイヤーだ。
そんな馬鹿正直な反応を返す鈴仙に苦笑を浮かべる永琳。
この正直さが長所であり、からかわれる短所でもある。
それはさておき、いつまでもしょげてもらっているわけにもいかない。
「さぁさ、これ以上出立が遅れたら本当に日が暮れてしまうわ。せっかく用意したお土産も無駄になるわよ」
「は、はいっ」
ちょっとしたやりとりの後、二人は永遠亭を後にした。
永琳はいくつか点在している集落を、決まった周期で訪れることにしている。
だいたい六日から一週間といったところで、そのときに受けた注文の薬を、次に来るときまでに調合してくるというのがお決まりのスタイルだ。
ただ、中には例外もある。
それがこの永遠亭から最も近い――そうは言っても歩いていけば半日はかかる――位置にある集落だ。
この集落だけは三日周期で訪れている。
その理由は――
「れーせんお姉ちゃんっ♪」
集落に着いてすぐのところで駆け寄ってきた少女に抱きつかれる鈴仙。
この里の住人の一人で、名を市巴(いちは)という。
八歳前後のまだまだあどけなさの残る女の子だ。
「市巴、お出迎えありがと」
「えへー」
鈴仙に頭をなでられ、満面の笑みを浮かべる市巴。
その笑顔に、鈴仙も自然と笑顔を浮かべた。
市巴は、鈴仙が初めて永琳の行商に同行したときに知り合った子供だ。
道ばたで、膝をすりむいて泣いているところを助けてあげて以来、妙に懐かれてしまった。
それからというもの、鈴仙がやってくるとこのように出迎えてくれるのだ。
鈴仙もまんざらではなく、市巴と会えることが楽しみの一つなっていた。
市巴とともに村中を歩き回る二人。
最後にやってきたのは市巴の家だった。
市巴の家には彼女の祖父母が住んでいる。
両親はすでに事故で亡くなっているため、市巴は祖父母と三人で暮らしているのだ。
永琳は家に入る前に、ふと立ち止まり鈴仙に向かって唐突に告げた。
「ウドンゲ、少し市巴と遊んでてちょうだい」
その言葉に鈴仙は首をかしげながらもうなずく。
「……? わかりました。でも、手伝わなくて良いんですか?」
「あら、あなたは私が手伝いを要するような薬師だと思うの?」
「い、いえ。じゃあ市巴、行こうか」
「うんっ」
鈴仙と市巴が離れるのを確認すると、永琳は改めて市巴の家へと入っていった。
その顔には翳りがさしていたのだが、鈴仙がそれに気づくことはなかった。
「れーせんお姉ちゃん、み〜つけたっ」
木陰に隠れていた鈴仙を指さし、市巴がお決まりの宣言をする。
「あはは、市巴は隠れん坊が得意だね」
市巴と二人だけの隠れ鬼。
市巴が鬼になると、大抵五分もしないうちに見つかってしまう。
「お姉ちゃんの耳が見えてるからだよ」
その理由はとても短絡たものだった。
というか気づいていなかった。
それが無性に可笑しくなって鈴仙は吹き出した。
「あっ、そっか。あははは」
「あはははっ」
夕暮れの空に響く二つの笑い声。
しばらくして止んだとき、日も落ちようとしていた。
それは帰らなければいけない合図。
「それじゃあそろそろ帰ろうか。師匠も用事を済ませているだろうし」
「ねぇお姉ちゃん」
「うん?」
市巴の声がどこか沈んで聞こえた。
遊び足りなくて拗ねているのだろうか、そう思ったがどうもそうではないらしい。
「お姉ちゃんは……えいりんさんのこと好き?」
「どうしたの? 急に」
「好き?」
どうやら答えないと引いてくれないらしい。
まぁ言うべき答えは決まっているのだが。
「うん、師匠は大好きよ。師匠だけじゃない。輝夜様もてゐも、永遠亭に住んでいるみんな」
それを聞いた市巴はなぜかにっこりと優しい笑顔を浮かべた。
無邪気な笑顔とは違う、別の意味で暖かな笑顔。
どうしてそんな笑顔を向けてくれるのか、鈴仙にはさっぱりわからなかった。
だが、それで市巴が満足してくれたのならそれでいい。
「市巴は? おじいさんとおばあさんのこと好き?」
「うんっ、私もおじいちゃんとおばあちゃんが大好きだよ」
「うん」
「お父さんとお母さんはいなくなっちゃったけど……でも今は寂しくないんだよ。おじいちゃんとおばあちゃんがいっしょにいてくれるから」
そういえば、と鈴仙は永琳伝いに聞いた市巴の事情を思い出した。
両親が亡くなってすぐの市巴も今の彼女からは想像もつかないほど塞ぎ込んでいたという。
誰とも口をきかず、家から一歩も出ず、食べるものも食べず飲まず……。
それを救ったのが両親を亡くしてから一緒に住むようになった彼女の祖父母だった。
壊れた心を直してくれた祖父母の存在は、市巴にとってとても大事なものに違いない。
この話を聞いたとき、鈴仙は市巴を自分の姿と重ね合わせていた。
月から逃げてきた自分は、誰一人仲間のいない地上でずっと隠れ続けていた。
それを助けてくれたのが輝夜と永琳だった。
どこの誰ともしれない自分に居場所を、名前を、するべきことをくれた。
二人がいてくれたからこそ、自分はこうして鈴仙として、ここにいることができているのだ。
自分が永琳達に救われたように、市巴もまた祖父母に救われたのだ。
どうして市巴が自分にあういうことを聞いてきたのかはわからない。
しかし、なんとなくはわかる気がした。
お互いにお互いが、似たような者だと感じるのだ。
自分は市巴の過去を知っているからそう思うのかもしれないが、市巴も自分が過去に傷を負って、それを誰かに救われた者だということがわかっているのかもしれない。
根拠はない、本当になんとなくだがそう思うのだ。
それが先ほどの答えになっているわけではないが、それだけで良い。
別に何の意味があったわけではないのだろう。
大切な人がいて、その人が大好きで――だから今は幸せなのだ、と。
ただそれだけのことだったのだと思うのだ。
☆
その帰り道のこと。
鈴仙は市巴の問いが、妙に頭に残っていた。
永琳のことが好きかと問われ、好きだと答えた。
それは今の生活が幸せだと言ったのと同じ事だ。
幸せの再認識、とでも称しておこうか。
いや、そこまで堅いものでもない、本当に些細なこと。それでいてとても大切なこと。
そしてこの幸せをくれたのは他ならぬ永琳達だ。
「師匠」
「どうしたの? さっきからずっと考え事をしていたようだけど」
「大好きです」
永琳は思いっきり急ブレーキをかけた。
そして真っ赤になって、鈴仙の肩を掴みガクガクと揺さぶる。
「どどっ、どうしたの!? 突然。変なものでも拾い食いしたの?
ウドンゲがそんな嬉しい告白をしてくれるなんて、嬉しいけど信じられないわ。
もしかして薬の調合中に間違えて、何かよくない薬を飲んでしまったのかしら。
あぁ、だったら早く帰って診療しなくちゃ!」
「お、落ち着いてください、師匠。私はいたって健康体ですから」
その後しばらく永琳の暴走は続き、鈴仙は解放されたときには少し健康体ではなくなっていた。
「それで、何でいきなりあんなことを言うの。突然すぎて取り乱してしまったわ」
「いえ、特に意味はないんです。ただ改めて言ったことがなかったかなって」
「何かあったの?」
「えぇ、実は――――」
鈴仙は市巴の話を聞かせた。
幼いながらも、過去に傷を負った少女。それが救われ幸せを掴んだ。
その話に自分も、幸せをくれた人がいたことを改めて噛みしめたのだ、と。
しかしそれを聞いた永琳の反応は、鈴仙が思いもしていなかったものだった。
予想していたのは、微笑み。
今の永琳が浮かべているのは苦渋。
「あ、の。師匠?」
その理由を尋ねようにも、聞く必要性がわからない。
今の話のどこに問題があっだろうか。
好きだ、と言った瞬間にはあれダム取り乱して喜んでくれたのに。
「ウドンゲ、それを本当に市巴から聞いたのね」
「……はい」
永琳は大きく息をついた。
その様子に鈴仙の不安はいっそう募る。
「わかったわ。そろそろ話しておかないと……いけないと思っていたことだしね」
「いったいなんなんですか」
「あなた自身に直接関係のあることではないわ。市巴の、おじいさんのことよ」
市巴の祖父、それがどうしたと言うのだろうか。
「あの人は――――」
そして聞かされたのは、どうしようもない事実。
市巴の祖父の命がもってもあと一週間という見立てだった。
☆
次の日も、二人は同じ集落を訪れた。
先に他の集落での行商を済ませ、本来ならば帰るはずの予定を急遽変更することにしたのだ。
その理由は言わずもがな、市巴の祖父の容態を診るためである。
市巴は今日も明るく迎えてくれた。
しかし、鈴仙はその笑顔にどこか含むものを感じた。
突然幸せということを話した市巴。
そして彼女の祖父のわずかに残された余命。
それが意味するのは、市巴は気づいているということ。
永琳が直接伝えるような無粋な真似をしないのは明白だ。
だが、それでも気づくべき事には気づくというもの。
死を幼いながらも理解している彼女のことだ。
市巴は周囲の様子や、祖父の容態からなんとなくわかったのだろう。
だからこそ、あんなことを話したのだ。
昨日鈴仙は特に意味はないのだ、と思っていた。
しかし実際はそうではなかったのだ。
市巴は今の幸せが崩れることを感じ取り、それを口にしないと耐えられなかったのだ。
鈴仙は初めて市巴の祖父と対面した。
これまで市巴の家には入らせてもらえなかったのだ。
その理由が今までわからなかったのだが、昨日の話で理解した。
永琳はまだ自分に、医者としての死を見せるのは早いと思っていたのだ。
医者は人の死を感情的にとらえてはいけない。感情が入れば安易な結論を出しがちになる。
それを懸念していたのだと永琳は話した。
今日、家に入れてもらったのは鈴仙が懇願したからだ。
どうしても会わせてほしいと。
永琳はしばらく考え込んでいたが、市巴との関係もあるから、と特別に許しを出してくれたのだ。
そして実際に死を迎えようとしている市巴の祖父を見た。
その姿に鈴仙は息を呑んだ。
骨と皮だけにやつれ、自分の意思では動くこともできない体。
どこを見ているともわからないうつろな瞳。
他人にまかせるしかない排泄の臭い。
「おじいさん、お薬持ってきましたよ。飲ませてもらってくださいね」
永琳は動けない彼に優しく語りかける。
しかし返答はない。
もはや耳も聞こえていないのだろう。
「永琳さん。せめて安らかに天寿が全うできるようにしてあげてくださいね」
「えぇ。おばあさんも無理はしないでくださいね。市巴ちゃんもいるんですから」
「そうですね。私までいなくなったらあの子はまた一人ぼっちになってしまいますから」
そう言いながら永琳に頭を下げる市巴の祖母の姿に、鈴仙は同情を抱かずにはいられなかった。
☆
次の日も、永琳と鈴仙は市巴の家を訪れた。
今日は市巴の遊び相手をしていてくれ、と永琳に言われた鈴仙はそれに従った。
あそこに自分がいても何もできないことはわかった。
しかし、気になっているのは彼の病気である。
初めて彼と会ったのは一年くらい前だ。
そのときの彼はまだまだ肉もついていたし、自分で歩くこともできていた。
それがたった一年の間にああもなってしまう病気など鈴仙は知らない。
不老不死の蓬莱人である輝夜と永琳。
てゐをはじめとした永遠亭の妖兎達。
元々住んでいた月の仲間。
鈴仙の周りには寿命というものを感じさせる存在がいなかった。
だから彼女は「老衰」というものを知らなかったのだ。
「……ちゃん、お姉ちゃんたらぁ」
「えっ?」
気づくと目の前には、むくれた顔をむける市巴がいた。
どうやら遊んでいる最中に考え事の方を優先してしまっていたらしい。
それだけ自分が市巴の祖父の容態を気にしていたのだ。
「ごめんね。ちょっと考え事しちゃった……あはは」
無理に笑っても、どこか乾いた笑いになってしまう。
それもそのはず。
鈴仙が気にかけている老人は、目の前にいる市巴の祖父なのだ。
彼女を見ればいやでも彼のことを思い出してしまう。
「ねぇ市巴」
「なぁーに?」
「市巴は……もう、わかってるんだよね」
聞こうか聞くまいか一瞬悩んだ。
だが気づいているのは明らかだ。これ以上知らない振りをさせておくのは見ている方がつらい。
鈴仙の質問の意図がわからないほど市巴は幼くない。
突然顔に翳りが差した。
この年齢の少女とは思えないほどの暗鬱とした表情。
「おじいちゃんのこと……だよね」
やはり市巴は気づいていたようだった。
「わかってるよ。おじいちゃん、もうすぐいなくなるんでしょ。
お父さんとお母さんみたいに、私をおいて行っちゃうんだよね」
彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
やはり聞いたのは間違いだったのか。
「だ、大丈夫よ」
鈴仙はとっさに言ってしまった。
なんの根拠もないただの慰めに過ぎない言葉だとわかっていても。
「本当に?」
「だってあの師匠が診ているのよ。師匠の薬に治せない病気なんてないんだから」
「本当に本当?」
「大丈夫だよ。だからもう泣かないで、ね」
涙を拭ってあげると、市巴は鈴仙に抱きついて嗚咽を漏らした。
「助けて……おじいちゃんを助けて……助けてよぅ」
その嗚咽と共に聞こえてくるのは彼女の底にため込んでいた悲痛な願いの叫び。
「無理よ」
告げられたのは残酷な言葉だった。
その帰り、鈴仙は永琳になんとかして助ける方法はないのかと尋ねた。
そしてその返答は、わずかな希望をすべて砕くものだった。
「寿命に効く薬はないの」
「でも、師匠は天才薬師ですよね? 治せない病気はないでしょう?」
「病気なら、ね。でも老いは病気じゃないわ」
「そんな……」
「それが……人間、という生き物なのよ」
どんなに残酷に聞こえても、それが事実なのだ。
永琳の答え、いや天才薬師としての診断の結果である。
どんな病気でも治せると思っていた永琳にも治せないものがあったのかと驚く鈴仙。
だが、それ以上に市巴との約束が守れないことに罪悪感を感じていた。
☆
次の日、鈴仙は永琳に頼み、行商の同伴を休むことにした。
永琳はそれを了承し出かけていった。
もちろん市巴の家にも寄るだろう。決して治せないと自分で言っていたのに、だ。
だから鈴仙は自分で探すことにした。
師匠も天才とはいえ、まだ知らない治療法などがある。
だから暇なときにはいろいろなところから資料を借りてきて勉強や研究を続けている。
知らないだけかもしれない。
その最後の希望を頼りに、鈴仙は一人ある庵へとやってきていた。
そこは永遠亭同様人の近寄らない山奥にある。
ただし場所自体は人里からそれほど離れてはいない。
その山からはいくつかの里が一望できるほどだ。
そんな場所に居を構える変わり者に、鈴仙は用事があった。
扉に向かってノックをしようとするが、どこかためらってしまう。
それはここに住む住人と自分との関係にあった。
お世辞にも良いとは言い難い間柄であるため、このように訪ねるのは正直どうしようかと思った。
しかし背に腹は代えられない。
意を決してノックをしようと手をあげて――
「さっきから人の家の前で何をしているんだ」
「うひゃあっ」
鈴仙はぴょんと跳び上がると、そのまま尻餅をついた。
ことり、と茶の入った湯飲みが差し出される。
「それで? 永遠亭のツキウサギが私に何のようだ」
鈴仙の目の前に座る女性。
白い長髪にきりっとした顔つき。身に纏う青い衣装と帽子がどことなく知的な印象を思わせる。
彼女の名は上白沢慧音。
幻想郷の中でも、トップレベルの知識人だ。
故あって永遠亭の住人とは少しばかり相性が悪いのだが、話の通じない者ではない。
今もこうして鈴仙を招き入れてくれている。
「あの……その……聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? 永琳には聞けないことなのか?」
「聞いたんだけど……」
ふむ、と慧音は腕を組んだ。
鈴仙の様子から見るに、よほど困ったことがあるらしい。
そしてそれはあの永琳ですら解決できないもののようだ。
「とにかく話してくれないか。答えられるかどうかはそれからだ」
「……すまないが私にも同じことしか言えない」
「そう……」
慧音が下した答えも、老衰を救う手はないというものだった。
その答えに鈴仙は肩を落とす。
まだ方法が完全に消え去ったわけではないが、永琳も慧音もだめだったことを思うとだめだと思えてくる。
「方法が……ないわけではない」
「えっ」
顔を上げると、慧音は苦々しい表情を浮かべていた。
「蓬莱の薬だ」
蓬莱の薬。
それは服用した者を不老不死へと変える秘薬。
飲めば病気にもならず、怪我をしてもすぐ治り、そして老いることもない。
「だが……この方法は使わない方が良い。永琳もそれがわかっているからおまえには話さなかったんだろう――って、鈴仙!?」
慧音が気づいたときには、すでに鈴仙の姿はどこにもなかった。
話の途中で飛び出していったのだ。
「しまった……だからか、永琳」
慧音は安易に話してしまったことを後悔した。
永琳がそのことを話さなかった時点で気づくべきだったのだ。
鈴仙はまだそれほど冷静には死を直視できない。
「入るよ」
そこに鈴仙と入れ違う形で別の客人がやってきた。
白髪に紅いもんぺが特徴的な慧音にとってはよくよく見知った客人。
鈴仙は永遠亭への帰りを急いでいた。
蓬莱の薬があればそれで市巴も彼女の祖父も救われる。
助けることに躍起になっていた鈴仙は、慧音の話を最後まで聞く余裕なく飛び出したのだ。
永琳が懸念していたように、鈴仙はまだ医者としての精神が未熟だった。
助けたい、と思う気持ちだけではどうにもならないことがある。
助けられれば、という重いだけでは間違うこともある。
それにまだ彼女は気づけていない。
早く、早くしないと。
余命の宣告は一週間だ。
しかし、それより早く死が訪れないとも限らない。
鈴仙は最悪の事態を想定し、さらにスピードを上げようとした。
そのとき、突然上空から無数の火球が雨のように降ってきた。
慌てて避けて、上空を仰ぎ見る。
「この攻撃は……」
鈴仙はその火球に見覚えがあった。
何度か輝夜からの命によって戦った相手。
姫や師匠と同じ蓬莱人である元人間。
「いったい何のようなの。急いでいるというのに……藤原妹紅!」
目の前に降り立つ炎の翼を纏った少女。
その顔には怒りの色がありありと浮かんでいる。
「輝夜のペット、あんたをこのまま永遠亭に帰すわけにはいかないんだ」
「どいて! あなたには関係のないことよっ」
「関係ない……? よくもそんなことが言えたものね」
妹紅の手に紅いエネルギーが集中していく。
まるで手が紅蓮の炎に包まれ、燃えているかのように見える。
それは彼女の命のエネルギーだ。
「この身に宿る不死の力。憎い輝夜の置き土産……喰らいなさいっ」
その手から生まれる無数の火球。
容赦なく向かってくる炎の弾幕。
妹紅がどうして怒っているのか、どうして攻撃してくるのか見当がつかない。
しかし、ここでやられるわけにはいかない。
自分にはどうしてもやらなければならないことがあるのだ。
「そんな弾幕、あの巫女達に比べたらっ」
弾幕の間を縫うように避けていく鈴仙。
しかし向かう先は妹紅ではない。
避けて避けて、その先には永遠亭がある方向へ。
「あくまで戦わないつもりか。それでいもいいけど私は容赦しないからね」
妹紅の弾幕は激しさを増す一方だ。
それでも鈴仙は反撃しようとはしない。
「そこまでしてその家族を助けたいというの」
「知っているのね」
「慧音から聞いた。ついさっきね」
妹紅は攻撃をいったん止め、鈴仙もまた逃げるのを止めた。
向き合う鈴仙と妹紅。
「蓬莱の薬は絶対に使ってはいけない」
「どうして!?」
「それがわからないほど馬鹿だとは思わなかったけど」
「大切な人が死ぬのを黙って見ていろと言うの!? 助けられる方法があるのにそれを無視しろと」
「あんたは本当にそれで助けられると――本気でそう思っているのかい」
「どういうこと……?」
再び妹紅の手中に紅い光が灯る。
「あんたはあの永琳のもとで修行をしているんだろう。ならもっと考えるのね。
永琳が蓬莱の薬のことを知らないはずがない。服用した当の本人だからね。
なら一番知っているはずの永琳がどうして何も言わなかったのか……」
「そ、それは……」
そういえばそうだ。
自分が蓬莱の薬のことを教えてもらったのは慧音だ。
永琳ではない。
しかし永琳も知っていないはずがない。
だが永琳は助ける手だてはない、そう言ったのだ。
「目先の安易な答えに飛びつくな! もっと先を見通しなさいっ」
妹紅の手から放たれる火矢。
鈴仙はただそれが自分に向かっているのを見つめることしかできなかった。
鈴仙はぼろぼろの姿で永遠亭へとたどり着いた。
妹紅から受けた攻撃の残滓がまだ残っている。
それが痛むのか、それとも心が痛むのか、それすらよくわからない。
「ウドンゲっ!?」
扉を開いたの音を聞きつけ、永琳が走ってきた。
とっくに日は暮れ、もう夕餉の時刻も過ぎてしまっている。
永琳が心配するのも無理はない。
それに鈴仙のこの有様を見れば、いやでも心配させられる。
「何をしてきたの。こんなに火傷や傷を負って……どこか痛めていない?
大丈夫ならすぐにお風呂に入りなさい。あ、てゐ、ちょうど良いから湯を沸かしてくれる?」
永琳が心配してくれる声が、いつも以上に身にしみる。
「師匠……」
「どうしたの? どこか痛いの?」
そうじゃない。
そうじゃない。
「師匠……私はまだ未熟です」
「そうね」
「私は、市巴と約束しました。おじいさんを助けてあげるって。でも……無理なんですよね」
「……そうね」
「師匠、ごめんなさい……私、もっと勉強します。もっと考えます」
永琳の胸に顔を埋め、鈴仙は泣いた。
自分の無知に。
自分の不甲斐なさに。
永琳特製の薬湯のおかげで傷の痛みも治まり、今はこうして床についている。
妹紅がどうして蓬莱の薬を使わせないようにしたのか。
その意味を、鈴仙は天井を見ながらずっと考えていた。
蓬莱の薬は罪を与えるものだ、と輝夜が以前言っていたような気がする。
そのときはその意味がわからなかったが、いま改めて噛みしめてみると、あぁそうかと思った。
市巴の祖父が不老不死となり、死なずにすめばそのときだけは救われるだろう。
だが彼は死ぬことなくこれからを生きなければならない。
それは彼の妻の死を看取ることになり、そして市巴の死とも直面しなければいけなくなるだろう。
一人の死を迎えることがこれだけつらいことなのに、それをずっと見ていかなければならないのだ。
不老不死の代償、とでも言うべきか。
その力を得た者は、同じ時を生きていた人間達と別の時間を歩むことになる。
それはいつまでも同じ時を生きられないということ。
先を見れば、そこにあるのは幸せではなく孤独と絶望。
輝夜と永琳、妹紅はその辛さを十分知っている。
知っているからこそ、妹紅は自分を止めようとしたし、永琳は何も言わなかったのだ。
今更になって自分がどれだけ身勝手で安直な答えに走っていたのかを痛感する。
鈴仙は少しだけ医者として成長した。
☆
それから数日後。
永琳と鈴仙は市巴の家を訪れていた。
しかし今日はいつものように薬を持ってはきていない。
もはやその必要がなくなったのだ。
「おじい、ちゃんっ……ひくっ、ぐすっ」
遺体にすがりつき泣きじゃくる市巴。
そう、彼女の祖父は最期を迎えたのだ。
いつ死んだのかすらわからないほどゆるやかな最期。
家族、そして永琳、鈴仙ら看取られ逝った老人の顔は、本当に穏やかで安らかだった。
市巴はそんな祖父に抱きつき、先ほどからずっと泣き続けている。
その姿に鈴仙は心が痛むのを感じた。
どうしようもないこととわかっていても、それでもやはり悪いと思ってしまう。
時の中を生きる、形あるものはすべからく死を迎える。
それがこの世の理だと理解はできても、それと感情はまた別物なのだ。
市巴の涙は、それを如実に物語っている。
医者は死を客観的に見つめなければならない。
だがそれは医者としての目で見なければならないときだ。
人の死を悼まない医者など医者であるものか。
最善であり、最高の手を尽くす。
そしてそれは決して間違ったものであってはいけないのである。
その帰り道、鈴仙はずっと黙ったまま永琳の後を歩いていた。
鈴仙が塞ぎ込む理由は永琳にもわかっているので、問いただしたりはせず鈴仙から動くのを待っているという風である。
なんだかんだで数十年のつきあいなのだ。
鈴仙が未熟だということも、優しすぎる故に悩むことも、師匠である永琳にはお見通しなのである。
「師匠」
案の定、鈴仙は自分の方から口を開いた。
「なに?」
「今回は……本当にすみませんでした」
「そうね……少しばかり自分勝手に動きすぎたわね」
「はい……」
「でも、そのおかげで少しは医者に近づいたんじゃない?」
技術も精神も、鈴仙は医者と言うにはほど遠い。
だが数十年共に生きてきたからこそ、わかるものもある。
この子は確実に成長している。
「師匠は」
「うん?」
「師匠は……私が死ぬときには泣いてくれますか?」
たぶん自分にも寿命があることを思い出したのだろう。
永琳のような蓬莱人とは違って、月の兎である鈴仙には長いながらも寿命がある。
そう、「時の中を生きる、形あるものはすべからく死を迎える」は鈴仙自身にもあてはまる。
だが、なんと馬鹿なことを聞いてきたのだと、永琳は苦笑を浮かべた。
そんなこと言われるまでもない。
永琳は言葉で帰さず、ただぎゅっと抱きしめることでその問いに答えた。
「大好きです」
「私もよ」
☆後書☆
東方SS第四弾。今回もまた永遠亭キャラのSSです。やはり一番好きな作品、というのが根強いのでしょうか。
今回は鈴仙・優曇華院・イナバが主役です。努めてシリアスを書こうとギャグは一切入れておりません。
死を描く、というのはすごく自分勝手な解釈が入りがちになる上、絶対に明るさを盛り込みたくないというポリシーがあります。
やはり主要キャラの死を描くのは忍びなく、オリキャラを織り交ぜてのSSということになりました。
医者の在り方とかこういうべきものだ、というのは私の独断です。人の命を扱うことがどんなことなのか、医者ではない私にもわかりません。
ただ命を扱うにはそれ相応の覚悟とか、精神の強さとかがないと無理だろうなぁ、と。
若干長めにはなりましたが、今回から改行等の方法を変えてみたので読みやすくはなったかと思います。
書物としての書き方と、ウェブ上での書き方が違うと言うことを最近勉強しまして。
まぁそろそろ永夜抄以外のシリーズも書いていこうかと思っています。