はじめてのおかあさん


 運命の出会いだとかなんとか言うけれど、結局の所出会いなんていつも突然だ。
 突然出会う、偶然出会う、偶々出会う――。

 その日チルノに訪れた出会いも、特に劇的なものでも何でもない偶然の出会いだった。
 そういうひょんな出会いから、今回の話は始まる。


  ☆ ★ ☆


 その日、ミスティアは早朝にも関わらず自分の屋台の所にやって来ていた。
 今の今まで営業をしていたとか、そういうわけじゃない。
「あちゃ〜、これは思ったよりひどいなぁ」
 溜息混じりで呟くのも無理はない。
 自慢の屋台がものの見事にひっくり返っているのだから。

 昨夜、幻想郷はそう例にはないほどの大嵐に見舞われていた。
 人間は当然、妖怪すら外には出ず、ただ自然の猛威が過ぎ去るのを待つという事態。
 往々にして激しい嵐というものは速い速度で通過するもので、この嵐も一夜ですっかり収まった。
 しかしその爪痕として残された被害は、大小様々な形で幻想郷の住人に降りかかっている。

 ミスティアの場合は、それが屋台の横転だった。
 吹き飛ばされていなかった分、いくらかはマシとは言えるけど、それでも修復が大変なことに変わりはない。
「まずは起こさないといけないんだけど……」
 だがミスティア一人の力でどうこうできるものではない。
 いくら妖怪とはいえ、見た目は人間の少女とさほど変わらない体型のミスティアだ。
 腕っ節だって、そこまで強いというわけじゃない。

 要するに一人じゃ無理だから、誰か助けを呼んできて一緒に手伝ってもらうしかないということ。
 さしずめチルノ辺りが手伝ってくれれば、他の妖精にも助けを求められるはずだ。
 チルノ自体は役に立たなくても、数が集まればそれだけ作業も進めやすい――に違いない。

 と、そんな時である。
「おーいっ、ミスティア〜」
「あれれ、噂をすればなんとやらね」
 ミスティアは聞き覚えのある声を、空の方から聞き取りそっちに顔を向ける。
 予想に違わず、声の主はチルノだった。
 なんでこんな朝早くにやって来たのかは謎だが、そんなことは二の次だ。
 理由がどうであれ探しに行く手間が省けたと、ミスティアは思わずしたり顔で笑みを浮かべる。
 しかしすぐにその表情が怪訝なものに変わった。

「よっこらせ、っと。ふぅ〜っ、重かった」
「何よ、これ」
 えっちらおっちら降りてきて、重たそうに抱えていたものを下ろすチルノ。
 ミスティアの表情が変わったのは、勿論それが原因である。
 チルノが理解不能な行動を取るのは今に始まったことではないが、今日は殊更わけがわからない。
「何って卵じゃないの?」
 さも当然であるように首を傾げるチルノ。
 その言うとおり、チルノが持ってきたものは卵とか言いようのない物だった。
 白くて楕円形で固いもの。
 ただ大きさが鶏の卵数十個分くらいな事を除けば、卵だと断言もできただろう。
「それは見たらなんとなく分かるけど……じゃなくて、なんでそんなもの持ってきたの!?」
「だって、ミスティアって鳥の妖怪じゃん?」
「それだけ?」
「うん、そんだけ」
 ミスティアは呆れるか、苦笑するか、殴るかの三択を考えた。


 とりあえず殴ってから呆れることにした。


  ☆


「それで? この卵はいったいどうしたの」
「ぅぅ、まだ痛い……だから拾ったって言ってるじゃん」
 チルノは頭を押さえながらも、事の経緯を話し始める。

 昨日の大嵐でうっぷんが溜まっていたチルノは、早起きしてその分いっぱい遊ぼうと考えていた。
 しかし早朝なんかに遊び相手が見つかるはずがなく、手持ち無沙汰で森の中をうろうろしていたところ、例の卵を発見したのだ。
 好奇心旺盛に近づいてみるが、いったい何の卵か分からない。
 そこで辿り着いた結論が、卵のことは鳥に聞け、というものだった。

 あぁ、なんて単純な。
 顛末を聞き終えたミスティアは、妖精というかチルノの思考の短絡さに、改めて嘆きの言葉を浮かべた。
 ただここで突っ込んでも仕方のないことだとは、長い付き合いで良く理解している。
「それで結局、この卵はなんなのさ」
「私にもわからないわよ」
「は? ミスティアもわかんないの?」
 使えねぇと、表情が露骨に語るチルノにミスティアはもう一発お見舞いする。
「なんで殴るのよ! しかも今ので二回っ」
「いい加減にしてよっ、私は屋台がひっくり返って大変なんだから。遊んでいる暇はないの!」
「あたいだって遊びに来たわけじゃないもん」
「だったら、もう用は済んだんでしょ。忙しいんだから、ほら行った行った」
 しっしっと、うるさい犬を追い払うようにミスティアは背を向ける。

 だがチルノが帰る気配はない。
 何やら背後でごそごそしているが、これ以上相手をしたところで時間の無駄だ。
 せっかくチルノの方から来てくれて、その分早く屋台の修繕に取り掛かれると思ったのに。
「ミスティアっ」
 まだ呼んでいる。
 だがここで振り返ってしまったら負けだ。
「ねぇ、ミスティア! ミスティアったら!」
 無視だ無視……。
「こっち向いてってば! この……ウナギっ」
「誰がウナギよっ」
 思わず振り向いてしまったミスティアは、自身の単純さを呪うよりも先に、ぎょっとした。
 その視線の先には困った顔をしたチルノ。
 もっと正確に言うとその胸元に、まるで子ウサギのように両脇を抱えられているものに対してだ。
「こんなん生まれたんだけど」


 チルノが抱いていたのは、黒い翼を生やした子どもだった。


  ☆


「ど、どうしよ」
 二人は子どもを挟んで一体どうすればいいのか決めあぐねていた。
 当の子どもはくりくりした瞳で、見下ろす二人の顔を興味深そうに眺めている。
 もしこの子どもが知っている妖怪だったなら、可愛い程度の印象で済んだだろう。
 しかし生まれたばかりの子どもを知っているはずがない。
「どうしよって言われたって……」
 ていうか、そんなすぐに生まれられても困る。
 ただでさえ屋台のことで手一杯なのに、これ以上面倒事を増やされても、手に余りすぎて溢れてしまうだけだ。
 すでにミスティアはチルノの相手をすることに辟易していた。
 さっさと行ってくれないと作業に集中できない。
 ミスティアは適当に答えて、チルノをこの場から追い払おうとした。
「とりあえず卵があったところに戻しといたら?」
「そ、そっか。ちょっと行ってくる」
 突然の事にチルノも気が動転しているのだろう。
 ミスティアのひどい発言に何の疑問もためらいも持つことなく、その場所へと飛び立っていった。

 ようやく静けさを取り戻した屋台の周辺。
 これでようやく修繕作業に取り掛かれると、ミスティアは腕まくりをしたところでハタと気がついた。
「あ、手伝い呼んできてもらうの忘れてたわ」


  ☆


 それから数時間後。
 ミスティアは適当にその辺りを飛んでいた妖精や妖怪を捕まえて、修繕の手伝いを頼んで作業を終わらせていた。
 もちろん快く引き受けてくれる者は少なかったが、今晩八目鰻をご馳走すると言ったら大抵の連中は話に乗った。
 ただその内の殆どが夜になるまでに忘れてしまっているだろうから、そこまで豪勢に振る舞う必要はない。
 後は細かい汚れを落としたり、壊れている箇所がないかを確認すれば、夜には営業できるだろう。
 そう、このまま面倒がなければ――――。

「ミスティア〜っ」
「……またか」
 本日二度目となる聞き覚えのある声に、ミスティアは溜息を吐く。
 ようやく片付けが終わりそうなこの時に、また面倒な奴が戻ってきたのものだ。
 だがその声は朝よりも、もっと切羽詰まっているように聞こえた。

「ミスティア〜、どうにかしてよ〜」
 降りて来るなり、いきなり泣きついてくるチルノ。
 とりあえず事情くらいは聞いてやるかと、ミスティアが口を開こうとした時だ。
 頭上からパタパタと可愛らしい羽ばたきが聞こえてくる。
 その音が聞こえた瞬間に、しがみついているチルノの背中が大きく震えた。
「き、来たっ」
「来たって何が」
 チルノはミスティアから離れると、どこか隠れられる場所はないかと周囲を見回す。
 そして屋台を見つけると、その影に隠れて縮こまってしまった。
 本当に一体何が起こったというのか。
 その理由はチルノに聞かなくても、例の音が原因であることは明白。
 ミスティアはその正体を知ろうと、何気なく空を仰いだ。
「あー、あれか」
 ミスティアはその原因たる存在を一目で見て把握した。


 そこには今朝生まれたばかりのあの子どもが浮かんでいたのだった。


 人間より高い身体能力を有する妖怪は、生まれたときからすでにある程度の体ができている事が多い。
 それにしても生まれてすぐに飛ぶことができるということは、かなり力の強い種族の子どもということになる。

 そんな妖怪の卵が道ばたに落ちていたというのは、いったいどういうことなのか。
 いや今はそれより、チルノがこの子どもを恐れている理由の方が気に掛かる。
 ミスティアは、屋台の影に隠れているチルノに話しかけた。
「ねぇねぇ、生まれてすぐに飛べるのは強い妖怪の証拠だけど、そんなに怖がるもんなの?」
「ちょっ、せっかく隠れてるのにあんたが来たら見つかっちゃうじゃない!」
 本人は完全に隠れていると思っているようだが、青いスカートの端がひらひらとはみ出てしまっている。
 これでは、自分から見つけてくださいと言っているようなものだ。
 流石はチルノ、こういう間抜けっぷりには抜け目がない。意図してやっているわけではないだろうけど。

 それを言ってやろうとしたが、その必要はなかった。
「まぁま」
 子ども特有の舌っ足らずな言葉が背後から聞こえてくる。
「だからあたいをママって呼ぶなぁっ」
 半分涙声になって、否定の言葉を口にするチルノ。
 どうやら困っている理由はこれらしい。
 というかそんな大声で叫んだら、見つかってしまうのでは?
「とりあえず見つかっちゃったんだし、観念して出てきてたら?」
「あんたが見つけさせたんでしょうがっ」
「いやいやチルノ。『頭隠して尻隠さず』をそのまま体現してる隠れ方で言われても説得力無いから」


 ひとまずチルノを引っ張り出して、例の子どもと対面させる。
 チルノはあまり顔を合わせたくないようだが、いい加減観念させないと収拾が付かない。
「この子は卵があったところに戻したんでしょ? どうしてチルノを追いかけてきたのよ」
「そんなのあたいが知りたいわよ」
「なんかやったんじゃないの?」
「失礼ね。あたいは自分が面白いと思ったこと以外はやらないわ」
 それは暗に面白いと感じたらなんでもやるということじゃないのか。
 それが無意識のうちに、この子どもに何かしたという結果になったとか。
「なんべん戻しても着いてくるのよ。あたいのことをママ、ママ呼ぶし」
 がっくりと項垂れて漏らされた言葉だが、ミスティアはその言葉に今回の原因を見た。
「あれ? それって単に刷込なんじゃないの?」
「すりこみ?」
 それなら話は簡単だ。ただし解決するのは難しい。

「刷込って言うのは、鳥の赤ちゃんが卵から孵ったときに初めて見た動くものをお母さんだと思い込む習性のことよ」
「へー、そーなのかー……じゃなくて! じゃあこいつはあたいをママだと思ってるの?」
「じゃあもへったくれもないわ。まさにその通り」
 そんなぁと、その場に崩れ落ちるチルノ。
 その背中に無邪気な笑顔を振りまきながら、子どもがくっついた。
 しかし振り切る気も起きないのか、チルノはされるがままになっている。
 チルノとしてはどうにかしてほしいところだろうが、こればかりはどうしようもない。

「それにしてもチルノなんかがママじゃ、この子も可哀想だね」
「それどういう意味よ」
 ミスティアはなんとなく思った一言を呟いただけだ。
 しかし負けず嫌いなチルノは、その一言に過敏に反応する。
「どうもこうも、言ったままの意味なんだけど」
「あたいがママだと、こいつが可哀想だって言うの?」
「だって私がその子だったら、あんたがママだなんて絶対嫌だもん」
 いくら自分でも無理じゃないかなと思っていることでも、そうあからさまに言われるとカチンと来る。
 衝撃的な事が起こりすぎて、埋もれてしまっていた負けん気が、その言葉で顔を出し始めた。
 そしてそうなってしまうと、いつも以上に感情でしか話せなくなってしまうのがチルノの性格だ。
 だからいずれそう宣言することは、時間の問題だったとも言える。
「わかったわよ。……ろうじゃない」
「ん?」


「あたいがママになってやろうじゃない!」


 腰にを手を当てて仁王立ちになると、半ばやけっぱちに言い放つチルノ。
 子どもは勿論何のことか分かっていない様子で、チルノの足にじゃれついている。
 ミスティアも予期していなかったこととはいえ、すっぱりと言い切るチルノに目を丸くしていた。
 ただしその驚きの大半は、ここまでアレだったのかという事に対するものだ。
「そんなに言うなら、あたいにだってできるって証明してやるわ」
 足にじゃれついていた子どもを持ち上げて、自分の目線まで持ってくる。
 その顔には並々ならぬ決意が浮かんでいる。
「そ、そう。頑張ってね」
 まあ本人がここまで張り切っているのだ。
 もう何を言っても無駄だろうと、ミスティアはそう声を掛けるしかできなかった。


  ☆


 そんな風にいかにも彼女らしい展開で、馬鹿な発言を豪語してしまったチルノだが、
 ミスティアと別れてから一時間も経たないうちに後悔する羽目になっていた。

 森の中に響き渡る子どもの泣き声。さっきからかれこれ三十分は続いている。
 何が癇に障ったのか突然泣き始め、それをチルノは泣きやませられないでいた。
 今まで子どもをあやすなんて、やったことがないのだから無理もない。
 ただわたわたおろおろするばかりで、冷静にすらなれていなかった。
 さっきまでならミスティアがいたけど、今はチルノ一人だけ。
「あーもー、泣きやんでよ〜っ」
 泣きたいのはこっちの方だと言わんばかりに、チルノは弱気な声を上げる。

 泣きやめと怒鳴ったところで逆効果なのは、すでに試した後なのでもうしない。
 泣きやんでと懇願したところで意味がないのは、今やってみてわかったからもうしない。
 さてどうしたものかと、いよいよ頭を抱えるチルノ。

 と、その時、呑気に飛び回る蛙が一匹、チルノの視界に飛び込んできた。

 すかさずそれを捕まえて、だめ元で子どもの前に突きつける。
 するとあれだけびゃーびゃーと泣いていた子どもが、少し泣きやんだ。
 生まれて初めて見る、蛙という生き物に興味が湧いたらしい。
 子どもにとって好奇心とは、何ものにも代え難い原動力なのだ。

 さらにチルノは、その蛙を両手で包み込むと軽く力を込める。
 この場合の力とは、直接的な力ではなくチルノの能力の方を指す。
 手が退けられると、そこには瞬間冷凍された蛙の変わり果てた姿があった。
 こんなものを見せられても、普通の反応なら、気味悪がるか反応に困るかのどちらかだ。
「ど、どうよ」
 ようやく泣きやむ気配を見せた子どもに、チルノはハラハラしながら尋ねる。
 ここでまた泣かれてしまっては、今度こそ本当に打つ手がない。
 固唾をのんで、どんな反応を示すのかをじっと耐えて待つ。
 すると――――

「キャッキャッ、キャッ」

 笑った。
 さっきまであんなに大泣きしていたのが嘘のように、無邪気な笑顔と笑い声を浮かべている。
 チルノの役に立たない特技に、どうやら琴線に触れるものがあったらしい。
 子どもの感性というのは、時に理解しがたいものがあるが、これも良い例だろう。
「あ、あんた。なかなか見所があるじゃない」
 自分の十八番が功を奏して、チルノもまんざらではなさそうに笑みを浮かべた。
 今まで散々バカにされたこの技で喜んでもらったのは、覚えている限りでは初めてなのだ。

 一時はどうなることかと思ったが、案外どうにかなるかもしれないと、単純な思考のチルノはそう思っていた。
 そんな簡単に言ってのけられるほど、簡単な状況ではないのは明々白々。
 しかしこの場に誰かがいれば、それももしかしてと思えたかもしれない。
 そう思わさせる程、その子どもの笑顔は眩しかった。


  ☆ ★ ☆


「それでお母さんを引き受けちゃったの?」
「うん」
「チルノちゃん……それはいくらなんでも軽薄すぎるよ」

 湖に戻って来るなり、チルノは大妖精に捕まった。
 朝早くからいなかった上、帰ってきたら妙なものを背負っているのだ。
 事情を説明しろの一点張りだったのも、心配から生じた行動と考えれば頷ける。
 その並々ならぬ気迫に押され、チルノは記憶を雑巾絞りのようにして、事細かに説明をさせられた。
 その話を聞いた大妖精の第一声が、先程の呆れの言葉というわけだ。

 さすがに大妖精も、今回ばかりは呆れが先行してしまったらしい。
 まさか子どもを拾って帰ってくるなんて、誰か予想できるだろうか。
 チルノだから、予期せぬ事を起こすのは得意中の得意なのかもしれないが、それで今回の件が納得できるはずもない。
「悪いことは言わないから、ちゃんとしたお母さんを探した方が良いよ」
 これ以上その子を連れていても、困るのはチルノ本人だ。
 そもそも妖怪の子どもはおろか、犬猫の類や蛙の子も育てたことがないのに、母親の代わりなど務められるはずがない。
 今までそんな経験がない以上、これから困る機会はもっと増える。
 そうなったとき、嫌になって放り出さないと誰が言い切れるだろうか。

 と、そんなことを言うと、チルノも黙り込んでしまった。
 一番協力してくれそうな大妖精が、反対してきたのではもう頼めるアテがない。
 しかし本当は頼むアテがどうというよりも、反対されたということがチルノにはショックだった。

「チルノちゃんが思っているほど、簡単な事じゃないんだよ?」
「……わかってるもん」
「わかってるなら、どうして――」
「わかってるけど、仕方なかったんだもん! 大妖精のばかーっ」

 チルノは立ち上がると、子どもを背負ったまま大妖精の元を飛び去ってしまった。
 その去り際に見たチルノの目尻が濡れていたのを見て、大妖精は肩を落とす。
「だめだな……。ちゃんと分かってもらえるように言いたかったのに」
 人間や妖怪に比べて、妖精の頭が良くないのは身を以て知っている。
 だから自分の頭で、チルノに何かを諭すのは至難の業だということもわかっているのだ。
 しかしだからといって何も言わずに、黙って見過ごすわけにいくはずもない。
「チルノちゃん……」
「お困りですか?」
 俯き悔やむ大妖精の上空より、少し急いた様子の口調で、余裕めいた言葉が響く。
 またこんな時に面倒な客が来たものだと、大妖精は逆光に眼を細めながら、その姿を見上げた。


  ☆


 大妖精の元に珍客が訪れていた頃、チルノは森の片隅で膝を抱えていじけていた。
 勢いに任せて飛び出したは良かったものの、行くアテがないことにすぐに気づき、
 こうしてそんなに離れていない場所で落ち着いているのだ。
「何さ何さ何さっ」
 さっきから口を突いて出てくる言葉は、行き場のない苛立ちと悔しさ。
 それを的確に表す言葉が紡げず、ただひたすらに「何さ」を繰り返している。
「あたいが悪いの? そうよ、あたいが悪いわよ。でも、あんな言い方しなくたっていいじゃん! 何さ、大妖精ってば!」

 大妖精はいつも正しいことを言う。
 言うことを聞かずに、痛い目酷い目に遭ったことは数知れず。
 たまに、言うこと聞いておけば良かったなぁと思うときもあるけれど、今回はそうだとは思わない。
 正しいけど正しくない。
 チルノには難しく考えることができないので、そう結論づけるしかできないのだ。
 ただ、その一言に今のチルノの全てが込められているのは確かだ。

 すんと鼻を鳴らして、目尻を拭う。
 鼻水も垂らしてしまいそうになるのを、チルノは必死に耐えていた。
 涙を堪えるのは慣れている。
 だけど鼻と目の両方を緊張させながら、悪態を吐くというのは、これがなかなか難しい。
 ほんの少しでも気を抜くと――

「うぅっ、うっうっ……大妖精のばかぁ」

 こんな風に溢れ出てしまうのだ。
 腕と足で顔を隠し、肩を震わせるチルノ。
 いつもなら気が済むまでそうして泣くしか解決策はない。
 しかし、今回はその震える肩に触れるものがあった。
「まぁま?」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、今にも泣きそうな顔をした子どもと目が合った。
「何よ、あんたまで泣くことないじゃない」

 今泣いているのはこっちの方だ。
 なんであんたまで泣く必要がある。
 また何か癇に障るようなことがあったのか。

 そんなことをぼんやりした頭で考えていると、子どもが突然抱きついてきた。
 蔑ろにされて寂しかったのだろうか。……いやそうじゃない。
「もしかして、慰めてくれてるの?」
「まぁま、まぁまぁ」
 そうだ。今この子の母親は自分なのだ。
 母親が泣いているのを見て、なんとも思わない子どもはいない。

 ろくに口がきけなくても、考えることができなくても、想いや感情は伝えられる。
 チルノはぐしぐしと乱暴に顔を擦って、涙と鼻水をぬぐい取った。
 目元や鼻の頭は赤く、あまり見られたものじゃないが、今は見せる相手もこの子しかいない。
「そうだね。ママのあたいが泣いてたらダメだよね」
 まだ泣いた跡が残った顔で、チルノは精一杯の笑みを浮かべた。
 するとその感情の変化が伝わったのか、子どもも泣きそうだった顔を緩ませる。
 その顔を見ていると、最初こそヤケで引き受けたようなこの状況でも、良いかもしれないと思えてくる
 このまま母親でいてもいいかなと――チルノは本気でそう決心がつき始めていた。


 しかしその打開策は、この直後現れる者がもってくることになる。


  ☆


「あー、いたいた」

 チルノが泣くのを止めた殆ど直後、上空から一羽の烏天狗が降りてきた。
 その顔にはチルノも見覚えがある。
 天狗族の新聞屋、射命丸文。
 話を聞きに来たという名目で、いつもからかっては去っていくはた迷惑な奴だ。
「あんた、何しに来たのよ」
「いつもながら突っ慳貪な挨拶ですね。ですが、今日はあなたに用事がある訳じゃありません」
「じゃあ誰に用があんのよ」
 チルノがそう尋ねると、文はついと指を動かした。
 その指はチルノを指している。
「やっぱりあたいじゃん!」
「じゃなくて。あなたが背負っている、その子どもですよ」
 また疲れてしまったのか、子どもはチルノの背中で寝息を立てている。
 文はその子どもに用があり、その為にチルノをずっと探していたという。
「色々動き回っていたので探すのに苦労しましたよ」

 文が言うには、その子は烏天狗の子どもだという。
 どうりでその黒い翼には見覚えがあるわけだ。
「じつは昨晩の大嵐で、仲間の卵が一つ行方不明になりましてね」
 それはもうすぐ生まれる時期にあった卵だった。
 無くなったことがわかると、天狗達は慌てて幻想郷中を探しに飛び回った。
 文も勿論その中に加わり情報を集めていたところ、ミスティアから、
 チルノが卵から生まれた子供の世話をすると言って連れて行ったことを聞いたのだ。
「あなたなら湖に戻っていると思ったんですが、生憎大妖精さんしかいなくて……」
 それで近くを探しようやく見つけたと、そういうことらしい。

「それで……どうするのよ」
 話を聞き終えたチルノは、そんな過程の話などどうでも良いといった感じで尋ねた。
 この子どもが、烏天狗の子どもだということはわかった。
 しかし一番知りたいのは、この子どもを文はどうするつもりなのか、それだけだ。

「決まっているでしょう。元の親の所に連れて帰ります」
「そんなのダメっ」

 刹那も開けずにチルノは拒否の意を示す。
 それは文が言うであろう言葉がわかっていたからだ。
 いくら馬鹿と言われても、それくらい察せないほどではない。
「ダメと言われても、その子には母親がいるんですよ?」
「この子のママはあたいだもん! あんた刷込って知ってんの!?」
 今日知ったばかりの知識を盾に、なんとか反論しようとするチルノ。
 だってついさっき決心したばかりなのに。

「それくらい知ってますよ。烏天狗のことは私たちが一番よく知ってますからね」
「……でもこの子のママは」
「ですから、刷込があっても大丈夫なんですよ」

 チルノのように、極稀に烏天狗の子どもを拾うものがいる。
 生まれる瞬間に出くわす場面も、かなりの低確率だが無い話ではない。
 つまり刷込によって、実の母親ではない者を母親にしてしまうケースは起こり得ない話ではないのだ。
 だから天狗の里には、それを矯正するための手段がある。
 まだ理性が完全に形成されないうちに、再び殻の中にいるのと同じ状態で眠らせる薬。
 それを用いて眠らせ、起きた直後に本当の母親と対面させれば事は済む。

「だからチルノさんを母親だと、刷込で思い込んでいても、生まれたばかりなら母親の元へと返せるんです」
「でも……でも……」
 チルノは肩越しに子どもの顔を見る。
 母親と目があって、子どもはまた花のような笑顔を浮かべた。

 この子には母親がいる。
 でもそれは自分じゃない。自分はそうだと思い込まれているだけ。
 文の言うとおり、元の母親の所に戻してあげれば、自分だって解放されるのだ。
 ミスティアの所にいた時は、それを切に願っていたじゃないか。
 世話をすると言ったのだって、やけっぱちから言っただけだったし。

 悩むチルノに、文は困った表情を浮かべる。
 まさか一日でここまで情が湧いているとは思っていなかったのだ。
 しかしだからといって、このままチルノの元に置いておくわけにもいかない。
「一週間後」
「え?」
「例の薬は造るのに時間が掛かります。一週間後に薬が出来上がったら、
 改めてその子を迎えに来ます。それまではあなたが責任を持って面倒を見てください」
「一週間? 本当に?」
「えぇ。ですが、その時までにきちんと心の整理をしておいてくださいよ?」

 そう言うと、文はチルノに烏天狗の子どもの食べ物や、注意事項を紙に書いて渡した。
 一週間くらいなら、まだ子どもも理性は芽生えない。
 それに今はチルノの言うとおり、彼女を母親だと思っているのだ。
 無理に引き離しても仕方がない。
 チルノだって、一週間も過ごせばどれだけ子どもの世話をすることが大変か、身を以て知るだろう。
 もしさらに情が湧いてしまって、迎えに来たとき渋るようでも、その時はその時で方法がある。

(それにしても拾ったのがチルノだったとは……)
 文は喜ぶチルノを後目にしながら、その場を去ろうとした。
 しかし、ふと在ることが気になって足を止める。
「あぁ、そうそう。一つ言い忘れていました」
「な、何よ。今更、やっぱり連れて行くとか言わないでよ?」
 子どもを抱きしめて、警戒を露わにするチルノに文は苦笑を浮かべる。
 なんだかんだで母性が働いているのか、それらしい顔をするものだと。
「いや、いくら体が強い妖怪といっても、いつまでも、その……裸でいさせるのは、ちょっと」
「へ?」
「それに女の子だし……とりあえず服くらいは着せてあげてくださいね」
 それだけ伝えると今度こそ文はその場を後にした。


  ☆ ★ ☆



 迎えが来るまで後6日――――



「……ぅー、あたいったら、むにゅ」
 心地よい微睡みに包まれながら、チルノは安らかな眠りを満喫していた。
 昨夜の疲れが溜まっていたのか、眠るという行為がとても気持ちよく感じられる。
 今日はただただ眠っていたかった。

 ぐいぐい。
「んー……」
 ぐいぐい。
「ぁによー」
 ぐいっ!
「ふぇ? みぎゃっ」

 思い切り引っ張られて、チルノは仰向けから俯せへと体勢を変えられた。
 これがふかふかのベッドの上なら、何ともなかっただろう。しかしここは固い地面の上である。
 下手に俯せになると、強かに鼻を打ち付けてしまうのは当然のこと。
 じんじんとした痛みが鼻の頭から広がり、とてもじゃないが心地よい眠りなど満喫できやしない。
「っだぁーっ、何すんのよ!」
 勢いよく起き上がると、怒りをぶちまけてやろうと犯人を捜す。
 だが周囲に人影はない。
 ふと気配を感じて下を見ると、子どもが服の裾を引っ張っていた。
「あー、そうだ。あんたを世話するって決めたんだもんね」
 昨日と違って、子どもはボロ切れを纏っている。
 文に指摘された後、人里近くで拾ったものを、とりあえず衣服代わりにしているのだ。
 見栄えはお世辞にも良いとは言えないが、まあ何もないよりはマシだろう。
「で、あたいを起こしたのはあんたよね? 眠いんだからもう少し眠らせてよ」
 横になろうとするチルノだが、服の裾を強く引っ張られて、それを許してもらえない。

「まだ遊ぶにゃ早いでしょー」
 太陽はまだ昇りきっておらず、空はようやく白やんできたところだ。
 朝焼け独特の、あの橙紫をぶちまけたような空を見たら、普通はもう少し寝ようと考えるだろう。
 だが子どもにとってはお構いなしだ。
 起きたいときに起きる。寝たいときに寝る。
 そして……
 
 ぐぅ〜……キュルルルゥ

「……あー、お腹空いた?」
 言っても返事がないのはわかっているが、とりあえず尋ねてみる。
 するともう一度、可愛らしくお腹の虫が自己主張をした。
「あんた、お腹で返事なんて器用ねぇ」
 子どものきょとんとした表情と、その妙な返答が可笑しくてチルノは笑いを溢す。

 仕方ない。
 お腹が空いたままにしておくと、また泣き出される。
 昨日の夜はそれで夜遅くに叩き起こされたのだ。
 さすがにチルノも昨夜の失敗くらい覚えている。
 次第に明けてゆく朝の中、チルノはもう一度寝ようとしていた体を起こし、一日を始めることにした。


 文からもらった注意書きのメモによると、烏天狗といっても食べ物は特別なものは必要ない。
 とりあえず歯が生え揃うまでは、柔らかくすれば大抵のものは食べられるそうだ。
 食べられる物という制限はあるが、妖怪の子どもだけあって人間よりはその制限も広い。
 昨夜なんて、その辺りの――チルノが知る限りで――食べられる野草と、湖の魚を磨り潰しただけの、
 離乳食とも料理とも言えない代物ですら、ぺろりと平らげてしまったのだ。


 とりあえず昨夜と同じメニューで朝ご飯を済ませた時には、朝もやに包まれていた山々も目を覚ましていた。
 獣達も住処から顔を出し、人間も畑仕事に出掛ける者などが家から出てくる。
 そんな起き始めた世界をよそに、満腹になって満足した子どもはまた眠りについてしまった。
 朝早くに腹が減ったと人を叩き起こしておいて、満足したらこっちの気も知らずに眠ってしまう。
「ったく、いい気なもんね」
 とか言いながら、その顔はまんざらでもない表情を浮かべていた。


「あー、本当だ。本当にチルノが子どもの面倒見てる」
「何よ。わざわざ見に来たの? 暇な奴」

 そこへ、どうやらミスティアからこの状況を知ったらしいリグルがやって来た。
 半ば冗談だと思っていたようだが、本当だったことを知って、さも面白そうに笑みを浮かべる。
 それが馬鹿にされているように感じられて、チルノは眉をひそめて返した。

「だって“あの”チルノが母親代わりだよ?」
「代わりじゃないもん。この子のママはあたいなんだから」
「ふぅん。ま、なんだって良いけどね」

 リグルは特に用があってきたわけではないらしい。
 本当にただ見に来ただけ。
「それでちゃんと世話はできてるの?」
「言われなくてもちゃんとやってるわよ」
 その内の大半は文の注意書きによるところが大きい。
 しかしそれを実行しているのは、他ならぬチルノ自身だ。
 リグルも少なからず感心の念は抱いていた。
 ただ、服とは言えないボロ切れを巻いているだけだし、
 食べ残しを見ても、まともな食事を作っているようには見えない。
「……ま、チルノだしね」
「なんか文句あんの?」
「ないない、なーにんもない。だから私はお暇するよ」
 何をしに来たのか分からないまま、リグルは飛び去っていった。


  ☆


 それからしばらく経った、別の場所。
 チルノの様子を見てきたリグルは、頼まれ事を済ませるために降り立った。
 その約束の場所には、浮かない表情をした大妖精が待っていた。

「言われたとおりチルノの様子を見てきたよ」
「……ありがとう。それでどうだった?」
「思っていたよりは逞しいね。なんだかんだで、きちんと母親役をやってたよ」

 リグルは単に面白半分で様子を見に来たわけではなかった。
 大妖精はチルノの様子が気になるものの、昨日のことがあって自分から行く勇気が持てずにいた。
 そこへリグルがやってきたので相談してみると、自分も興味があるからと偵察役を買って出てくれたのだ。

 そしてその報告を聞いた大妖精は、ひとまず安堵の息を漏らす。
 反面、仲直りをする切っ掛けが無くなってしまったことに落胆もした。
 大妖精の予想では、チルノはきっと困り果てているだろうから、
 そこに助けるという理由で近づき、そのまま仲直りができればと考えていたのだ。
「ま、時間が経てばチャンスなんていくらでもあるって」
「うん、ありがとう」
 リグルが見かねて励ましの言葉を口にするが、その1日、大妖精の顔が晴れることはなかった。


  ☆


 子どもの迎えが来るまで後6日。
 それぞれが思いを募らせながらも、時だけは淡々と過ぎていく。
 何が起こったとしても、止まることも戻ることもなく。


 そう、何が起こったとしても――――


《後半へ》

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