曲目『brilliant ray』


 その夜、一人の少女が家出した。


  ☆


 草木も眠る丑三つ時と、静まりかえった夜をよくそう言うが、ここ幻想郷においては草木が眠っても眠ることのない者達がいる。
 それは妖怪であったり、夜型の人間だったり、幽霊だったり。

 そんな夜に生きる者達の間で今、とある騒霊たちのコンサートが人気を博していた。
 その名は“プリズムリバー騒霊楽団”。
 ルナサ、メルラン、リリカの騒霊三姉妹で構成される楽団だ。

 しんみりと聞かせる曲もあれば、聞いているだけで昂揚する明るい曲もあり、レパートリーの豊富さは抜群。
 その対象は主に幽霊であることが多いが、こっそりと覗きに来る人間達の間でもファンが増加しているという。
 それを知ってか、最近の彼女達は比較的里に近い墓地でもコンサートを開くことが多くなった。
 おかげでさらに人気は高まり、人間は勝手にファンクラブなるものまで設立する始末。
 ただ彼女達にとっては、聞きに来てくれる者が増えるという認識しか無く、特に困ることはない。
 いつもと変わらず、東の国の眠らない夜を演出するだけだ。

 今日もただ満月というだけで、場所も時間も特定しない、所謂ゲリラライブを敢行した。
 それでもその音に誘われて、幽霊やら妖怪やら人間やらがやって来て、最終的には夜の静けさなど何処へやら。
 ライブはかなり盛り上がり、人間達からは頼んでもいないのにお捻りが沢山もらえりもした。

 しかし、夜が訪れれば、いずれは朝になる。
 それが彼女達のライブの終了時刻でもある。
 白んでいく空をバックに、一仕事終えた三人は彼女たちの依り家への帰路に就いていた。

 リリカとメルランは高揚感が未だ収まらないのか、黄色い声で今日の戦果を語り合っている。
 それを先頭を飛びながら、長女のルナサは耳を傾け聞いていた。

「今日の満月ライブも盛況だったね」
「やっぱり満月の日は気分が良いから、音の出も良いしね!」
「……私はちょっと疲れたけど」
「ルナサ姉さんは、ライブの後はいつもそうじゃない」
「家に帰るまでがライブなんだから! 最後まで楽しまないと損よ、損!」

 疲れたくないルナサは「はいはい」と生返事を返す。
 そんな素っ気ない態度も、いつものことなので二人も特に気にはしない。
 再び二人だけの会話に戻っては、あの曲はもっとこうだとか、あのアレンジは良かったとか話している。

 そんないつも通りの帰り道。
 丁度山裾から朝日が顔を出し始めた頃、三人は騒霊屋敷と呼ばれる彼女達の家にたどり着いた。

 俗に騒霊屋敷と呼ばれるその館は、外界からやってきた紅魔館とよく似た境遇の洋館だ。
 しかしその外観も内装も、紅魔館とは違って手入れは成されていない。
 がらくたがそこらかしこに散乱し、壁や屋根には穴が空いていて、まともに使える部屋は多くない。
 それでもここはプリズムリバー姉妹にとって、大切な大切な帰る場所なのだ。

「ただいま」
「たっだいま〜!」
「ただいまっ」

 誰もいない。
 誰もいるはずのない屋敷。
 それでも三人は欠かすことなく「ただいま」を告げる。
 それはかつて、ここに住んでいたもう一人の為に。


 例えもうその人はいなくても。


(貴方達は生まれつきの霊。拠り所だった物は既に無い。そう、貴方達は少し自己が曖昧過ぎる)


 かつて出会った閻魔に言われた言葉。
 ルナサはその意味について思うところがあった。


(後ろの二人は攻撃に迷いがあるようね。ならば、少しは可能性があるという物です)


 閻魔の言葉をそのまま聞けば、メルランも何か思うところはあったのだろうか。

「今日のライブはだっいせっいこう〜♪」

 クルクルと回りながら意気揚々と中へ入っていくメルラン。
 その様子を見る限りでは、あまりそういう風には思えないのだが……。


「ああああぁぁぁぁっ!?」


 その感慨を吹き飛ばすような、甲高い叫びはメルランのものだ。
 先に入った時に、何かあったのだろうか。

「メルラン姉さんっ!?」
「どうしたのっ」

 メルランが騒がしいのはいつものことだが、この叫びはそんなものじゃない。
 二人はすぐにその後を追って、リビングとして使っていた部屋に駆け込む。
 その入ってきたルナサに、メルランが泣きながら飛びついてきた。

「私のお気に入りのカップが割れてるのよぉっ」
「お気に入りのって、あんたには必要ないでしょう」
「必要なくても気に入ってるの!」

 あー、はいはいとあしらいながら、そのカップを見やる。
 確かにものの見事に砕け散っている。
 だがさっきも言ったように、騒霊がカップなど必要とはしない。
 つまりこのカップがここに出ているのはおかしいということだ。

「姉さん、姉さん、事件事件!」
「今度は何よ」

 不審に感じていると、今度はキッチンの方から、リリカの素っ頓狂な声が響き渡る。
 溜息を吐きながら、隣の部屋に移動するルナサ。
 今日は疲れているから早く休みたいのに、と不平を漏らしながら。

「事件って、今度は何が割れてるの。皿? グラス?」
「違う違うっ、これ、これっ」

 なんだかメルラン並みに慌てているリリカ。
 説明するのがもどかしいと言うように、ある一点を指差し続けている。
 何かと思って近づいてみると、

「わー、美味しそうなスープ……って、何なのよこれは!」

 あの冷静なルナサまでが素で驚いたもの。
 それはなんてことはない、ただの鍋に残って冷めたスープだった。
 コンソメとタマネギの芳醇な香りが、冷めても尚食欲をそそる。……食欲など無いのだが。

 もしここがただの家で、住んでいる者もただの人なら、このスープだって何の違和感も感じはしない。

 だがここは知る人ぞ知る幽霊屋敷、もとい騒霊屋敷。
 住んでいるのは、人気赤丸上昇中のプリズムリバー三姉妹という騒霊のみだ。
 スープなんて、この屋敷には不自然すぎる代物。

「これは……事件ねっ」
「事件って言うほどのものでもない。単なる侵入者。良くある話だわ」
「おぉ、さすがはルナサ姉さん。もういつものテンションに下がってる」
「あんた達が騒ぎすぎているだけよ。とりあえず盗られた物がないか、各自確認しましょう」

 ルナサの冷静な指示に従い、三人はそれぞれの部屋を始めとして、屋敷の中を確認して回った。
 屋敷は三階建て。
 つまり一人が一階を担当すれば、被ることなく確認ができる。
 ルナサは二人にそれぞれの担当場所を割り振ると、自身も確認するために三階へと上がっていった。

 ただこの屋敷にあるのは、どれも騒霊である自分たちには特に必要のない物ばかりだ。
 商売道具である楽器も、本当はあってもなくても演奏はできる。


 それでも盗られたくない物はあるのだ。


  ☆


「後はこの部屋か……」

 三階を担当していたルナサは、最後の一部屋の前までやって来ていた。
 今のところ何か盗られた形跡はない。
 メルランの奇声も、リリカの大声も聞こえていない辺り、一階も二階も特に変化は無いのだろう。
 何もなければそれで良い。
 後はこの部屋を確認して何もなければ、単に侵入した不届きな輩がいたというだけで事は済む。

 しかし、ルナサの手はそのドアノブに掛けられたまま、なかなかドアを開くことができないでいた。
 それはこの部屋が、誰の部屋かを知っているからだ。
 ここにはメルラン達もあまり近づくことはない。

「でも、確認しなきゃ」

 ゆっくりと、錆びたドアノブを回し、静かにドアを開く。
 他の部屋と違って小綺麗に整理された部屋。
 ベッドと机と、いくつかの本棚。
 パッと見はガランとしているが、この部屋に入るといつも胸を締め付けられるような想いをルナサは感じていた。
 今日は何故か、その締め付けが殊に酷く感じられる。

 揺れるカーテン。
 その破れ目から、とうに登りきった太陽の陽射しが差し込んでいる。
 窓が割れているため、そこから吹いてくる風によってカーテンが揺れ、
 光が部屋をゆらゆらと漂っているように見えた。

「ん……」

 その風と揺れる光に反応したのか、ベッドから人の声のような物音がした。
 誰かが寝ている? まさか。
 その声に自身が本来怖がられる存在である騒霊ということも忘れ、ルナサは過剰に背筋を震わせた。

 ここが“あの子”の部屋だから、変な緊張をしているだけだ。
 そんなはずはない。
 もし何かがいるなら、それは無断で人の家に上がり込んだ不届き者。

(そう、あの子である筈がない。だってあの子はとっくの昔に……)

 ゆっくりと近づき、枕に埋もれている寝顔を覗き込む。
 朱みのある頬、吐息に合わせて上下する体、命を刻む魂の鼓動。
 ふわふわとした栗色の髪の毛を白い枕に寝乱れさせて、無防備な寝顔を晒す只の少女がそこにいた。
 やはり単なる人間だった。

 なんてことはなかった。
 ホッとすると同時に、ルナサの心は落ち着きを取り戻す。
 さてこの不届きな輩をどうしてくれようか。

「姉、さん……」
「えっ?」

 その声は、あの子のものとは全然違う。
 それなのに、一瞬だがルナサの体は固まってしまう。
 落ち着こうとしていた矢先の奇襲に、精神が再び跳ね上がってしまったのだ。
 その一瞬の間に、ベッドに寝ていた眠り姫が目を覚ました。

 目覚めた少女の栗色の瞳と、ルナサの金色の瞳が真っ正面でぶつかり合う。
 しばらく二人は互いの瞳を凝視したまま、一言も口を開かなかった。
 ルナサもまさかこのタイミングで目を覚ますとは思ってなく、どう切り出せばいいのか考えあぐねていたのだ。


 そしてたっぷり二十秒間、お互いに沈黙を守った後――――


 大声が絶えなかった騒霊屋敷で、この日一番の大きな悲鳴が二つ響き渡った。


  ☆


「あっははははっ、まさか姉さんの“あんな”大声が聞けるなんて」
「ホントホント。ルナサ姉さんの悲鳴なんて、良い幻想の音が手に入ったわ〜」

 妹二人に頬を突かれながらも、ルナサはじっと堪えていた。
 ここで取り乱しては長女としての威厳に関わる。

「し、仕方が無いじゃない。目の前でいきなりあんな悲鳴あげられたら、誰だって便乗してしまうわ」
「へぇ〜、ルナサ姉さんって、案外恐がりだったんだぁ」

 キッと睨み付けても、今のリリカ達には大した効果はない。
 照れ隠しの可愛い行為としか見られないのだから当然だ。
 だが今は茶化したり、茶化されたりしている場合ではない。

 リビングに集合した三姉妹は、人の家に勝手に上がり込んだ侵入者の相手をしている途中だった。
 テーブルの端にルナサ。その両隣に、それぞれメルランとリリカが座っている。
 例の少女は、ルナサとは対極の位置に座っていた。

 少女は俯いてじっとしたまま、口を開こうとはしない。
 確かに並の精神の人間なら、起きた瞬間に目の前に霊がいて、
 しかもさらに霊に囲まれるという状況は、充分怖い体験に値するだろう。
 ただ目の前で、姉を茶化す妹二人という微笑ましい光景を見せつけられると、
 かなりその印象も変わってしまた可能性は充分あり得る。

「だぁっ、あんた達は一旦黙れっ! 私はこの子と話さなきゃならないのっ」
「はいはい。その不法侵入者とね」
「震えてるわよ。姉さんが怖い顔するから」
「そうさせたのはあんた達でしょうが」 
 
 なかなか本題に入れないのはいつものこと。
 しかしいつまでもこの調子では埒があかない。
 まずどうにかするべきは、後ろで騒ぐこの二人か。
 そう思っていた矢先、今までずっと黙ったままだった少女が突然口を開いた。

「あ、あの、ごめんなさい。ここって誰も住んでないって聞いていたから」
「まぁ住んでないっちゃあ住んでないよね。私たちは騒霊だし」
「リリカっ。……で? 住んでないからって勝手に入って勝手に寝ていたの?」
「私のお気に入りのカップも割ったでしょ!」
「メルランも黙って! とりあえず泥棒目的じゃあなさそうね。ここに来た理由は?」

 口々に言いたいことを言いまくる二人を制止しながら、ルナサは少女から話を聞き出した。
 それをかいつまんで説明すると、こういうことになる。


 彼女は人間の里に住んでいる、ごく普通の人間。
 ある日、家族との折り合いが悪くなり、それに堪えきれずに家出。
 しかし行くアテもなく、ふらふら歩いている内に夜になってしまった。
 心細くてもジッとしているわけにいかず、満月の光を頼りに進んでいるとこの屋敷に辿り着いた。
 以前にこの屋敷の話は聞いていて、さらに中の様子を見て、ここがその屋敷だと確信したらしい。
 とりあえず外でいるのは怖かったため、屋敷で夜を明かすことにした。
 お腹かが空いていたので、持ち出してきた材料で簡単なスープを作って空腹を凌ぐと、
 安心したこともあって、すぐに睡魔が襲ってきた。
 もし誰かがやって来てもすぐには見つからないように、一番上の一番端の部屋にあったベッドで寝ることに。


「それで目覚めたらルナサ姉さんが顔を覗き込んでいたと……」
「えぇ、最初は幽霊だって気がつかなくて、とりあえず誰かがいることに吃驚しちゃって」

 そして再び俯く少女。
 話を聞き終えた三人は、はてどうしたものかと、ひとまず少女を置いて話を始めた。

「要するに家出して、夜を明かすために一晩の宿を借りただけ、なのよね」
「だったら早いところ、里に帰ってもらうのが一番ね」
「え〜っ、勝手に私たちの家に上がり込んだのよ?」
「だからって何かをする必要もないよ。あの子は何もしてないんだし。私は面倒事は御免よ」
「私のカップ割ったもの」
「あーもー、いい加減そこから離れなさい。今度新しいの買ってあげるから」
「本当っ。それなら良いわよ。あの子を追い出しちゃえば良いのね?」
「そんな極端な。まあ此処にいられてもあれだから、さっさと話を付けてくるわ」

 とまあ、女三人寄れば姦しいとはまさにこのこと。
 この三人の場合はメルランが主にその原因だが。

 ひとまず話がまとまり、ルナサは再び少女と向かい合うようにして座る。
 ただメルランのおかげで、先程の話は殆ど筒抜けだっただろう。
 今更という気もするが、改めてルナサは少女に、里に帰るよう話をつけようと口を開こうとした

 ――のだが。


「いやですっ!」


 ルナサが切り出す前に、少女の口から発せられたのは断固とした拒否の言葉だった。
 先程の話が聞こえていたのなら、その拒否が指し示すのは、里に戻るということだろう。
 だがいきなりそんなことを言われて、はいそうですか、の一言では済まされない。

「嫌って言われてもね……。それじゃあ、あなたはどうするの」

 ルナサが優しく尋ねても、少女は答えない。

「他に行くアテがあるとかっ。当たりっ?」

 メルランが指差して尋ねても、少女は首を振るだけだ。

「じゃあさぁ、どうすんの」

 リリカが呆れて尋ねると、少女は一言こう返した。


「私をここに住ませてくださいっ」



  ☆ ★ ☆



 少女――澪(みお)の一日は、近くの河原まで水を汲みに行くことから始まる。
 騒霊屋敷に井戸はなく、洗顔や洗濯のためには、逐一水辺まで行かなくてはならない。
 だがその程度で音をあげるくらいなら、最初から家出なんか考えない。
 多少の不便は承知の上だ。

 屋敷を出ると、まずは朝の新鮮な空気を吸い込み、体全体の目を覚ます。
 里のようにごみごみした朝とは違う、一人だけの朝。
 その独り占めした朝の中を、澪は桶を片手に駆けていく。
 朝露滴る草を掻き分けて、せせらぎを頼りに川へと急ぐ。

 辿り着いた川は、朝日を受けてキラキラと輝きながら、澪を迎えてくれた。
 その光る水を両手で掬うと、勢いよく顔へと浴びせかける。
 背筋がぞくっとするほどの冷たさに、最初こそ体が拒否を示すものの、すぐにその冷たさが心地よくなってくる。
 何度かそうして朝の冷たい水を堪能すると、持ってきた桶に水を汲んで、元来た道を辿って帰った。


 帰ってくると、次は朝食の支度だ。
 家を出るときに、持ってこれるだけの食料と、さらに里を出るときにも幾らかの材料を購入した分がある。
 火をおこす道具や薪などは、自由に使って良いと許しを貰ったので、それを使って簡単な料理を作る。
 今日は卵焼きとパンといメニュー。
 質素な食事しか作れないが、食べずにいるよりは遙かにマシだ。

 そうして食事をしていると、ドアが開いてルナサが顔を出した。
 霊だからすり抜けることはできるのに、ちゃんとドアから入ってくるあたりルナサの真面目さが伺える。

「おはよう、今日も早いわね」
「ルナサ達が遅いだけよ。霊だから当たり前だけどね」

 数日の経過の間に、三姉妹と澪はすっかりうち解け、話す言葉もずいぶん砕けたものが使えるまでになっていた。
 ルナサの口調が変わらないのは、まあ当然というべきか。

「おあよ〜……」
「お早う。リリカは今日も眠そうだね」

 続いて入ってくるのは三女のリリカ。
 しかしまだその眼は眠たそうで、欠伸をかみ殺しながらの挨拶だ。
 朝はどうにも弱いらしい。

 ちなみに澪が三姉妹に聞いたことの中に、こんな質問がある。
 『騒霊も霊の一種なのに、寝る必要があるのか』と。
 その質問に返した三姉妹の答えがこれだ。

「霊だって疲れるの、疲れたら眠る。決まってるじゃない」
「昨日も演奏してきたものね。お疲れ様」
「ん〜……。ルナサ姉さんは疲れないの?」
「私はきちんと休んでるし、あんたやメルランみたいにライブの後まで騒いだりしないもの」

 裏切り者〜、と自分勝手な恨み言を呟くリリカに、苦笑を浮かべながら澪は食器を片付ける。
 そうしているうちに正午が近づいてくると、ようやく残りの一人が起きてきた。
 リリカ以上に、まだまだ完全に目を覚ましては居らず、ぐったりとした様子で姿を見せるメルラン。
 夜は一番テンションが高いのに、朝はその反動で一番テンションが低い。

「あれだけさっさと寝ろって言っても聞かないんだから」
「起きてないのに言ったって無駄よ。起きてきたんじゃなくて、寝惚けてるだけなんだから」
「お〜き〜て〜る〜……むにゅ」

 メルランはそのままソファに倒れ込むと、また目を閉じてしまって動こうとしない。
 毎朝の光景とはいえ、ルナサは苦笑すら浮かんでこずに呆れている。
 リリカは特に気にする様子もなく、ふわふわと浮かんでそれを眺めていた。

 そんな三姉妹の様子を見ていると、澪はここに居させてもらえて良かったと改めて思っていた。
 あんな奴等よりも、この騒霊たちの方がよっぽど家族のように感じられるのだ。
 そうだ。あの人達は、家族ごっこをしているようにしか感じられない。
 あの家族の中では、家族として自分を見ることができなかった。
 それに堪えきれなくて、思い切って家出してきたのだが、大正解だったようだ。


 だって、こんなにも素敵な家族に巡り会えたのだから。


  ☆


 澪は普通の人間の子だから、夜になると眠りに就く。
 今日も「おやすみ」と言って、割り当てた寝室へと階段を上がっていった。
 リビングに残っているのは、元からここに住んでいた三人の騒霊姉妹。

 今日はライブもないので、それぞれゆっくりとした時間を過ごしていた。
 とは言っても澪という“人間”がいるので、いつものようにどんちゃんやるわけにはいかない。
 楽器の手入れや、トランプゲームなど、比較的音の立たないことで時間を潰す。

「ねぇ、澪が来てから何日経った?」
「あの朝から数えて三日かしら。うん、間違いないわ」
「もう三日かぁ。随分うち解けたわよね」

 三人はそれぞれ、澪が突然の申し出をしてきた朝を思い出していた。




 三日前の朝――――


「私をここに住ませてくださいっ」

 勢いよく頭を下げ懇願する少女。
 突然の申し出に三人も困惑を隠しきれない。

「ちょっと、それはなんでもいきなりすぎるわ」
「分かってます。でも、私には行くアテがないんです」
「じゃあ帰れば?」
「それも嫌なんですっ」

 何を言っても、ここに住まわせてもらうという選択肢以外には首を横に振り続ける少女。
 このままだと埒があかない。
 しかし無関係の人間を住まわせるなど、ルナサには承諾しかねていた。

「んー、別に良いんじゃない?」

 そんな悩みを易々とぶち壊してくれたのは、メルランの鶴の一声だった。
 その言葉に少女は顔を上げ、目を輝かせる。

「メルランっ」
「だって、この子は泥棒じゃないんでしょ。それに行くアテもないし、帰りたくないならここに住ませるしかないじゃない」
「それはそうだけど……リリカも何か言うことはないの?」
「面白そうだし、別に良いんじゃないの?」
「あんたねぇ。迷惑でなきゃ、それで良いってわけ?」
「その通り、さすがはルナサ姉さん。よくわかってらっしゃる」

 三人のうち、二人が頷いてしまったのだからしょうがない。
 長女だからって、全てを決定づける権限など持ち合わせてはいないのだ。
 深い溜息を吐くと、ルナサは諦めたという風に項垂れた。

「わかったわ。別に悪さをするつもりもないなら住んでも良いよ」
「本当っ」
「えぇ、ただ寝室は私が用意する部屋を使って。他にも私たちの言うことには従って貰うわよ」
「うんっ」
「ということで、交渉成立ねっ。それであなたのお名前は?」

 ルナサを押しのけて尋ねてくるメルランに、少女は朗らかな笑みを浮かべて自身の名を名乗った。

「私は澪。よろしくお願いします。騒霊さんっ」



 それから三日だ。
 最初は警戒していたルナサも、ここまで悪意がない様子を見せられると、その必要もないと安心できた。
 そして慣れてくるとなかなか良いもので、ルナサもいつの間にか澪の居る生活を楽しみ始めていた。

 それは人間との交わりに楽しさを見出したからではない。
 そういう楽しさは、とうの昔に知っているのだ。
 同じ事は他の二人も感じていたことらしい。

「なんかさ、こういうの久しぶりだね」
「リリカ……」


「まるで、レイラがいた頃みたいだよね」


 レイラ・プリズムリバー。
 プリズムリバー家の四女で、騒霊楽団を生み出した張本人だ。
 孤独と依存に耐えきれず、別れた姉の姿を力の結晶に変え、命まで持たせてしまった女性。
 今ここにいるプリズムリバーの騒霊達は、彼女のおかげでこの世界にいることができている。
 そして彼女との生活を通じて自我を育て、彼女が死んだ後もこうして存在を続けているのだ。

 彼女たちにとって、レイラという女性は特別な存在として、その記憶に刻まれ続けている。

「澪が始めに寝ていた部屋。レイラの部屋だったんだけど。一瞬ね、ほんの一瞬、レイラが帰ってきたのかと思ったの」
「驚いた理由って、もしかしてそれ?」
「わからない。でも、そうかもしれないわ」
「ふぅん。ルナサ姉さんらしくないね。天寿を全うした人間が、戻ってくることなんかないって一番言ってるのに」
「わかってるわよ。澪は澪だし。レイラはもういないもの」

 迷いを持って死んだ者は彷徨う霊となる。
 普通に死んだものは三途の川を渡って、閻魔の裁きを受け、次なる転生をどこで待つかを決定づけられる。
 天寿を全うした人間はたいていの場合、問題なく彼岸へと渡り転生するのだ。

 だがそう言い続けているのは、自分が一番認めていないからかもしれない。
 自分たちのような存在を生み出すほどの力をもった彼女のことだ。
 もしかしたら同じ人間として、レイラとして生まれ変わるかもしれない。
 そんなことは馬鹿げていると、自身でも分かっているが、そう思わずにいられないのも確かなのだ。

「ルナサ姉さん。どうかした?」
「えっ?」

 どうやら考え事に没頭していて、リリカが話しかけていることに気がついていなかったらしい。
 慌てて体面を取り繕うが、話を聞いてなかったことを隠すには遅すぎた。

「まったく。らしくないよ、ルナサ姉さん」
「ごめん。それで何の話をしていたのかしら」

 困ったように笑うルナサに、リリカは口を尖らせながら元の話に戻す。

「澪をどうするのかってこと。別にずっと住んでも、私たちは問題ないけど」
「そうね。でもそれを決めるのは澪自身でしょ。私たちがどうこう言っても仕方がないわ」
「それもそっかー。あーぁ、でもたまには騒ぎたいなぁ。ここの所屋敷じゃ騒げないもの」
「その分ライブの回数を増やしても良いと思うけど。それにしてもメルランがそういう文句を言わないのは意外ね」
「違う違う。あれ、見てよ」

 言われてルナサは、リリカの指差す方向へと視線を動かす。
 その目に、まるで生気を失ったかのような――いや、元々ないのだが――虚ろな表情を浮かべるメルランの姿が映った。
 騒がしいことや賑やかなことが好きで、三人の中では一番元気がある。
 そのメルランが変わり果てた姿で寝そべっていた。

「ずっと騒いでないと死ぬのかしら」
「かもねぇ。メルラン姉さんの騒ぎ方は騒霊の中でも異常なくらいよ」
「まぁたまには良い薬かもしれない。落ち着きがなさ過ぎると、どんな酷い目に遭うか」
「ルナサ姉さんはもう少し、メルラン姉さんを見習うべきだと思うけど」
「それは御免被るわ。私は今の私で充分満足しているもの」

 騒霊として生まれ、騒霊として自我を持ち、そして騒霊として存在し続ける。


 ホントウにそれでマンゾク?


 ふと、そんな声が聞こえた気がした。
 しかしリリカもメルランも何も言っていない。
 澪が起きてきたのかとも思ったが、そんなはずもない。

(騒霊が空耳に遊ばれてちゃ本末転倒よね……)

 ルナサは深く考えるのをやめ、静かな夜を満喫することにした。



  ☆ ★ ☆



 翌日の日暮れ、今日は冥界にお呼ばれされての出張ライブで、三人はその準備に勤しんでいた。
 昨夜は騒げなかった分、メルランの気合いの入り様は凄まじい。
 意味もなく大声を出したり、はしゃぎ回ったりしては、ルナサを呆れさせていた。
 夕食の準備をしていた澪は、離れた所から二人のやり取りを見ているリリカに話しかける。

「遅くなるの? って当たり前か」
「そうね。丑三つ時が開始時刻だから、終わって帰ってくるのは多分明け方かな」
「じゃあ私が起きてきたら、みんなが寝ちゃうんだね」
「そんな寂しそうな顔しないでよ。どうせメルラン姉さんは昼過ぎまで寝ないで、話をしてくれると思うし」
「べ、別に寂しいとかそういうわけじゃ……」
「はいはい、っと姉さん達が呼んでるから、行ってくるね」
「うん気をつけてね」

 そして三人は久しぶりの大きなライブということで、メルランを筆頭にやる気満々で出掛けていった。
 なんだかんだでルナサもライブは楽しみらしい。
 出掛けるときの顔はどことなく活き活きしているように見えた。
 その騒霊のいなくなった騒霊屋敷は静かなもので、逆に静かすぎて耳が痛くなりそうなほどだ。

「あーぁ、今夜は暇だなぁ」

 意味もなく声を出したりして、一人で居ることを紛らわせようとする澪。
 しかしその行為は、よりいっそう自分が一人であることを再認識させるだけだった。
 ただこのような状況に置かれるのは、何も初めてのことではない。

 騒霊の活動時間は基本的に夜だ。
 それに夜になると自分は寝てしまうから、出掛けてしまっても特に寂しいということはない。
 眠りに行くまでの話し相手がいないだけだ。

 こういう時、澪は屋敷の中を探索することで時間を潰していた。
 プリズムリバーの屋敷は結構広い。
 人間の里で、この規模の屋敷を見たことはない。
 
 澪は知らないが、この屋敷はかつて外界にあったものだ。
 プリズムリバー伯爵とその家族が幸せに暮らしていた場所。
 ある事件を切っ掛けに家族の幸せは砕け散り、それまで名を馳せていたプリズムリバー家は人々の記憶から忘れ去られ、
 この屋敷は、その事件が元で生まれた騒霊と共に幻想郷へとやって来たのだ。

 だからがらくたでも、見たこともない物が多く、澪が退屈することはなかった。
 部屋は多いし三階まである。全てを見て回るには、とても一晩では足りねはずがない。
 だからこそ暇潰しにはうってつけなのだが。

「今日はどの部屋にしようかな〜」

 三階まで上がって部屋の品定めをする澪。
 ルナサ達からは、それぞれの自室と“ある部屋”にだけは、入らなければ良いと言われている。
 ある部屋とは、澪がここに来たとき眠っていた端の部屋だ。
 確かにあそこだけは何だか不思議な感じがした。
 三人にとって特別な部屋か何かなのだろう。
 居候させて貰っている身だ。余計な詮索はしない方が良いに決まっている。

 興味がないと言えば嘘になるが。


 ――カタンッ。


「誰っ」

 澪は振り返るが誰もいない。
 誰もいるはずがないのだから、いないのは当然だ。
 もしかしてルナサ達が忘れ物でも取りに来たのか。
 いや、それならもっと分かりやすい。
 それに音がしたのかどうか怪しいほど微かなもの。
 空耳である可能性が一番高い。
 静かなときほど、妙に耳がよくなって、要らない音まで拾ってしまうものだ。

「そうよ……誰もいないんだし。風の音か何を聞き間違えたに違いないわ」

 怖い訳じゃない。
 霊ならここ数日見続けているのだ。
 何を怖がる必要がある。

 そう自身に言い聞かせてはみるが、やはりこのだだっ広い屋敷に一人というのは、どうにも心細くて適わない。
 それに一度気になってしまうと、その正体を知るまで安心できないのが人の性というものだ。
 澪は意を決して、音のした方へと歩みを進めた。

 ボロボロになった絨毯の上を、そろりそろりと気配を殺して歩く。
 時折立ち止まって目を瞑っては周囲の気配を探り、何も感じないことにホッと胸を撫で下ろす。

 そして結局端っこまでやって来てしまっても、特に異常らしい異常は無かった。
 やはり先程の音らしきものは、自身の恐怖心がそう聞こえたように感じただけの物だったのだろう。
 そう確信できると、体中から一気に力が抜けていった。

「まだ、家族が恋しいのかな」

 行き止まりにある窓の下にうずくまって、自分がまだ出てきた家に未練があることを呟く。

 だがあんな家になんか二度と帰るものか。
 許してもらえるなら、一生ここで暮らしたっていい。
 生活が大変だって、あの家にいるよりは遙かにマシだ。
 あんな家族のフリをしただけの奴等となんか、一緒には居たくない。

「そういえば、この部屋は……」

 考えると余計陰鬱になってきたので、顔を上げるとここが例の部屋の前であることに気がついた。
 入ることは許されてはいない。
 入ろうとも思ってなかった。

 なのに、体が自然に立ち上がり、引き寄せられるかのように足が進む。
 そして何の躊躇いも感じることなく、その手はドアノブを握っていた。
 そこまでして初めて、澪は自分が入ってはならないと言われた部屋に入ろうとしていたことに気付く。

「何で私っ」

 今もそこまで入りたいとは思っていない。
 しかし手がドアノブから離れない。
 まるで体が自分の物じゃなくなっているかのようだ。

「入れって、こと?」

 自分の体に話しかけるという、傍から見たら奇妙にしか見えない行動。
 だが傍から見る者は居らず、澪は息を呑むとその握っている手を右に回した。
 割れた硝子から入ってくる風が、もう一つの出口を見つけて出て行こうとする。
 その埃まみれの風を受けながら、澪は暗い部屋を見渡した。
 四日前となんら変わりのない寂しげな室内。

 しかしその部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、何か不思議な感覚が体を突き抜けていくように感じた。
 後ろを振り返っても、キャンドルに照らされた廊下が見えるだけ。
 それにその感覚は一瞬で消えてしまい、なんなのかよくわからなくなってしまう。
 澪はすぐに出ようと思ったが、どうしてもそれまでに起こった出来事が気になり、
 ルナサ達との約束が分かっていながら、部屋の灯りに火を灯した。

 改めて見て思うが、この部屋には物が少ない。
 他の部屋が壊れた調度品やがらくたでいっぱいなのに対し、この部屋だけは居住空間として片付けられている。
 まるでここに誰かが住んでいたかのようだ。
 だが溜まっている埃の量から考えて、住んでいたとしてもそれはかなり前の筈。

「あ、これ……」

 前に来たときは眠くて仕方がなかったから、気付かなかったが、本棚には幾つかの写真が飾られていた。
 そこには六人の家族が笑顔で写っている。
 父親と母親と――これは姉妹だろう――よく似た顔つきの少女が四人。
 他の写真には、その姉妹が楽器を演奏している姿が写っていた。
 バイオリンを弾く少女、トランペットを吹く少女、ピアノを弾く少女、そしてそれを微笑みながら見つめる少女。

「この子達……もしかしてルナサ達なの」

 そう考えるが、澪はすぐに否定した。
 ルナサ達が言っていた。
 騒霊は幽霊ではない。幽霊のように死んだ人間がなるものではなく、騒霊は騒霊として生まれてくるのだと。
 しかしこの写真の少女達と、ルナサ達はよく似ている。
 ただもしこの少女達とルナサ達が関係あるのであれば、この四人目の少女はどうしたのだろう。
 演奏する三人を、側で見つめる四人目の少女。
 その手には一冊の本が抱えられている。

 澪はふと視線をずらすと、また別の物に眼を留めた。
 それは、その少女が大切そうに持っている本と同じ装丁のもの。
 まさかと思いながら戸棚の扉を開け、その本を手にする。
 大分黄ばんでいて、ページとページがくっついてしまっている部分もある。
 長い間、誰の手も触れていない事が伺える表題のない本を、澪はおそるおそる開いてみた。


 その内容を読んで、澪はある女性の真実を知ることになる。


  ☆ 


「ただいま〜……あー疲れたっ。もぅ寝る〜、絶対寝る〜」
「ただいま。メルラン、言わなくても寝て良いから」
「ただいまっ」

 明け方になって、ルナサ達は冥界から戻ってきた。
 恒例の冥界ライブ。昨日の公演も無事に成功し、西行寺のお嬢様からは結構な謝礼を貰ってきた。
 ライブはかなり派手なものとなり――原因は言わずもがな――、三人はもうくたくただ。

 それぞれの自室に戻ろうというとき、リリカはふと気がついてルナサを呼び止めた。
 ルナサは欠伸混じり振り返る。

「あれ、澪にしては珍しいね。この時間ならもう起きてると思ったんだけど」
「たまにはいっぱい寝たい日だってあるんでしょ。というか私は今すぐ寝たいわ……ふぁ〜ぁ」
「そんなもんだよね。私も流石に疲れたわ……ふぁああ」

 昼過ぎまでは起きていると思われたメルランも、反動が余程きつかったのか一足先に寝に行ってしまっている。
 欠伸を移されたリリカも自室に戻ることにした。
 しかしその途中、足を止めてある一点を凝視する。
 その顔からは感情を読み取ることはできない。
 しばらくそうしていた後、何事もなかったかのようにリリカは自室へと入っていった。


 そんな風に、ここ数日の騒霊屋敷にしては、静かな朝が過ぎていった。


  ☆


 それから数時間後、日が昇りきってからようやく澪が起きてきた。
 昨日は朝がやってくるまで、ずっとあの部屋にいたのだ。
 眠くて眠くてしょうがない。
 しかし朝食を抜いたおかげで、いい加減お腹が栄養を欲している。
 寝ていることもままならず、澪は渋々といった様子で出掛ける支度をする。
 そして日課である水汲みのため、桶を持って外へ出た。

 昨日も通った道無き道を通り、川へと歩く。
 その間も、澪はあの本に書かれていたことを思い返していた。
 もっと正確に言うと、本に書かれていたことよりも、それを書いた人物――

 レイラ・プリズムリバーのことを。

 着いた後も、河岸に腰掛けて流れる水をぼーっと見つめる澪。
 すでに桶は水で満たされいつでも帰る支度はできているし、お腹はさっきから鳴り続けている。
 それでもしばらくは動きたくなかった。

 澪はあの本――レイラの手記を読んで、この屋敷で起こったことを全て知った。
 同時にレイラという女性が、どんな思いでいたのかも。
 そこに書かれているレイラの姿は、自分に似通う部分が多い。
 全てを読み終えたときには、澪はレイラを全くの他人とは思えなくなっていた。
 同時に、自分とは全く違う人物なのだという確信も。

 レイラと自分の共通点。
 そして決定的に違うところ。
 その二つがぐるぐると頭を巡り、考えている内に朝になって、今はこうして此処にいる。

 自分はこれからどうするべきか。
 どうしたら一番良いのか。
 それだってまだ迷っている。

 しかしいつまでもここで考え続けるわけにいかず、悲鳴のように鳴き続けるお腹の虫に急かされて、
 澪はようやく腰を上げて屋敷へと戻っていった。


  ☆


 その日の夜。

 夕食の支度をする時刻になって、ルナサが目を覚ましてきた。
 大分疲れていたのか、今の今まで眠っていたらしい。
 ルナサにしては珍しくまだ完全には起ききれていない様子で目を擦っている。
 それでも澪の姿を見つけると、薄く微笑んで「おはよう」を告げた。

「おはよう、って時刻じゃないけどね」
「まぁね。昨日はメルランがはしゃぎすぎて、それに合わせてたらいつも以上に疲れて疲れて」
「あははっ、ここのところメルランは鬱憤が溜まっていたみたいだから」

 それが自分がいるからだということも澪は知っている。
 それを申し訳ないとも言ったのだが、ルナサはむしろこういう夜の方が良いと言ってくれた。
 メルランは不服そうだったが、最終的にはライブで発散するという結論で頷いたのだ。

「でもやっぱり悪いなぁって思って」
「気にしなくても良いわ。あの子が少しでも落ち着きを学んでくれるなら」
「うーん……でも可哀想だなって。それでね、ちょっと考えたことがあるの」

 今日半日。
 澪は起きてからずっと例のことばかりを考えて行動してきた。
 その結果、ある一つの答えを導き出したのだ。
 ルナサ達が起きてきたら、提案してみようと考えていたのだが、この流れなら自然に切り出せる。
 そう踏んだ澪は、ルナサにその提案を懇願した。

「私に音楽を教えて欲しいの」
「音楽? 私たちが澪に?」
「うん。そうしたら、メルランも騒げるし、私も夜みんなと楽しめるし」

 それはそうだとルナサも頷く。
 だが突然どうしたのかというちよっとした困惑が浮かんでいた。
 その時、その困惑をストレートに告げる言葉が、ルナサではない口から告げられる。

「本当に理由ってそれだけなの?」
「リリカ」

 二人の会話をいつから聞いていたのか、いつの間にかリリカが起きてきて。割り込んできた。
 別に問い詰めるような口調ではない。
 しかしその目の奥には、確実に疑いの眼差しが込められているのを澪は見た。

「話の流れからすると自然な感じだけど。言い方が、ね?」
「どういうこと?」
「嘘やハッタリは私が一番得意だから。何とな〜く分かるのよね」

 リリカが何のことを言っているのかはわからない。
 しかし、メルランがどうのというのは後付で考えた理由なのは本当だ。
 リリカはそれを見破っている。

「隠したいことなら隠したままでも良いけどさ。それじゃあ楽しくないよ」
「え?」
「そうね、何のことかは私には分からないけど。疚しい心を持ち続けたままじゃ音楽にもそれが滲み出るわよ」
「ルナサ……」

 澪はぐっと唇を噛みしめながら頭を下げた。

 言いたくないことなのは確かだ。
 それは自分の醜さをみんなに教えることになるのだから。
 だけど黙ったままでは、みんなを騙して利用するのと同じ。
 そんなことをするくらいなら、アイツ等と同じ事をするくらいなら――

「まだ……私が家出した理由、きちんと話してなかったよね」

 頭を上げた澪は、全てを話すことを決意した。
 その目を見た二人は、口を噤んで澪が話し出すのを待つ。
 しばらくした後、澪は自分が人間の里では、それなりに裕福な家に生まれた身であることから話を切り出した。

「私の家族は父さんの商売のおかげで、何も不自由なく暮らしているわ。父さんと母さんと、二人の姉さん。そして私。
 家族仲が良いって、近所でももっぱらの評判よ。だけど私はそうは思ってない。
 私は末っ子だからか、みんなが可愛がってくれていた。私ももっと小さかった頃は、
 それを当たり前のように思ってきたけど、だんだんとそうじゃないんだって気づき始めたの。
 一番上の姉さんはとても頭が良いの。きっと将来父さんの後を継ぐに相応しい人と結婚して家を継ぐわ。
 二番目の姉さんは手先が器用。大抵のことを上手く済ませられるから、どこでもやっていけるでしょうね。
 ……だけど、私はそんな出来た姉さん達とは違う。頭もよくないし、器用でもないし。
 一応人並みにできないこともないけど、全部姉さん達と比べられる。私はいつも二番。
 そんな私でも、姉さん達は可愛がり続けてくれていた。それが私にはとても悔しかった。
 そしてある日一番上の姉さんが言ったの。「澪は何もできなくても大丈夫。姉さん達がいるから」って。
 私は、私には、その言葉が全てを表しているように聞こえたわ。
 姉さん達にとって私は、自分たちをより引き立てるための人形でしか無かったのよ!
 そう確信できると、姉さん達の目の色がとても濁って見えたわ。
 自信のない私と比べることで、自分たちの自信を増している、とても傲慢で嫌らしい目。
 父さんも母さんも私がいるから、より姉さん達が近所に自慢できる娘に思えていたんでしょうね。
 だから私は家を出たの。あんな劣等感だけを与えてくれる家族なんか、家族なんかじゃないっ!」

 話し終えた澪の息はとても荒々しいものだった。
 言いたいこと、言えなかったことを全て吐き出したのだろう。
 聞き終えたルナサもリリカも、しばらくは何も言わずに澪が落ち着くのを待っていた。

 しかしルナサはふと引っ掛かることがあった。
 今の話を聞いた限り、分かったのは澪がどうして家を出てきたのかということだけ。
 肝心の音楽を教えて欲しい理由とは繋がらない。
 澪の息が整ってきた頃合いを見計らい、ルナサはその疑問を尋ねてみた。

「ねぇ澪。その話とさっきの音楽を教えて欲しい話がどう繋がるのかしら?」
「それを聞いて怒らないでね」
「え、えぇ」
「姉さん達にもできないこと、というかやったことがないものがあるの。それが音楽」
「要するに、姉には出来ないことをやって、自信を付けたいわけだ」

 一足早く事を理解したリリカが心得顔で「なるほどね」と頷く。
 その声には気にする様子も、蔑んだ様子も感じられない。
 リリカは最初から澪が腹に逸物を持っていたことを察していたのだろう。
 面白そうだと言ったのは、何も人間を住まわせることに対してのものだけではなかったのだ。

「言いたいことを言ったら、すっきりしたんじゃない?」
「リリカ……」
「いつ言い出すのかなって様子見てたけどさ。一向に言いそうになかったからね。ちょっと強引だけど聞かせて貰ったの」

 澪の前まで顔を寄せると、リリカはニカッと満面の笑顔を見せる。
 そしてとても楽しそうに手を差し伸べた。

「だって音楽はそんなこと気にしながら騒ぐよりも、何も考えずに楽しんだ方が何倍も楽しいんだから」

 その手に合わせて、ルナサも手を伸ばす。

「リリカはよく人を騙すけど、音楽に関しては騙さないからね」
「最初の方は余計。私は騙してなんかないもの」
「嘘吐きはみんなそう言うでしょ。それとも嘘吐きだって認める?」
「もぉ〜っ、姉さんの意地悪っ」
「ぷっ」

 二人とも手を伸ばしたまま口論を始める始末。
 その様子に澪は思わず吹き出した。
 あんな醜い話をした後なのに、この二人は自分を蔑んだりしない。
 やっぱりこの騒霊達はあんな奴等とは違う。
 自分を一人の人間として見てくれる。

(それはそうよね。だって、ルナサ達は……)


「話は聞かせて貰ったわーっ!」


 きっとドアから入ってくるなら、思い切りバーンッと入ってくるような勢いでメルランが登場した。
 しんみりとしたムードも何もぶち壊しである。
 メルランは一直線に三人の方へ寄ってくると、そのままの勢いでトランペットを澪に差し出した。

「音楽やりたいんでしょ? だったら絶対トランペットがオススメよっ」
「え、えーと……」
「ちょっとメルラン、それは聞き捨てならないわね。まずは弦楽器よ。息の練習しなくて良いもの」
「いやいやいや、楽器初心者ならまずはピアノでしょう」
「二人とも分かってなさ過ぎ! トランペット、若しくはトロンボーンでも可!」

 困惑する澪の前で口論は三人に増え、騒霊らしい喧しさが戻ってきた。
 そんな姦しい三人に囲まれて、澪は改めてここに来て良かったと実感していた。
 その反面、本当の家族への憎しみは募る一方。
 澪は笑顔を浮かべながらも、その奥の奥では苦いものをぐっと噛みしめていた。


 今は飲み込めても、それは本当に払拭できない限り残り続ける。
 大丈夫だと思っていても、それは自分の知らないうちにいつの間にか大きくなってしまうものだ。
 そうなってしまうと、いずれは自分でもどうにかできなくなってしまう。


  ☆


 音楽を学ぶというのは、いきなり楽器から入るものではない。
 まずは音を知ること。
 澪のように全くの初心者なら尚更だ。
 正しく音を理解し、その上で音楽にステップアップする。

「じゃあ、次はこれよ。この音な〜んだ」

 リリカがポンと鍵盤を叩く――正確には叩いたように見せて音を出しているだけだが――。
 そこから奏でられる音を聞いて、それがどんな音であるかを当てていく遊戯のようなレッスンだ。
 一応一通りの音程を聞き続けたおかげで、澪の正解率は今のところ七割くらいには達している。
 簡単なようだが、これは基礎を学ぶにはかなり適したやり方だ。

 澪が二つ目のお願いをした日から約一週間。
 ライブのない夜や昼間の内に、三姉妹が交代交代で澪に音楽を教えてくれることとなっていた。
 ただしメルランはすぐに楽器を演奏させようとするからと、他の二人から講師を降ろされている。
 それでも澪が音楽を学ぶのが嬉しいらしく、邪魔をしようとはしていない。
 それにレッスンの後は決まって演奏タイムになるので、そこで鬱憤を晴らしているようだ。
 
「え、えーと……ミっ」
「はい正解。じゃあ次はこれね」
「……えっと、半音のファ?」
「お、当たり当たり。じゃあ次は二つ続けていくからね」

 必死に聞き漏らすまいとしている澪と、その様子を楽しんでいるリリカ。
 そんな二人のやり取りを見ながら、ルナサとメルランは楽器の手入れに勤しんでいた。
 メルランは早く合奏したくてうずうずしているようだが、まだ澪に楽器は早い。
 まずは音に慣れさせて、それからリズムや実際の演奏といったレベルにあげなければ、
 いきなり「はいどうぞ」と楽器を渡した所で悲惨な結果になることは目に見えている。
 それに澪が自信を付けたいからという理由を持っているなら、まだ演奏させるべきではない。

「でもさ、あれだけ熱心だと教え甲斐があるわよね」
「リリカも楽しんでいるしね。レイラはこんな事言わなかったから」
「私たちの演奏を楽しんでいただけだから、私はつまらなかったなぁ。四人で演奏できるなら四重奏とかさ」
「トランペットを含めた四重奏なんてそうそう聞かないけどね。その時は合奏よ」
「えぇ〜っ、いいじゃない。プリズムリバーオリジナルの四重奏ってことで!」
「こら〜、姉さん達、声のトーンが上がってる。澪が聞こえないじゃない」

 それはメルランの所為だとルナサは口を尖らせるが、メルランは何処吹く風といった様子だ。
 澪は「私は大丈夫」と言ってはくれているが、申し訳ない気持ちになる。

「もぅ、ルナサってば。大丈夫って言ってるのに」
「だけど。澪がせっかく頑張ってるのに。こいつったら!」
「別に私は悪くないもん」
「あんたは声の調整ができないんだから。もっと気をつけて喋りなさい」

 すっかりレッスンという状況ではなくなってしまったため、今日はお開きになった。
 余った時間、澪はお茶を飲みながらルナサ達の演奏を聴くことにした。
 今日の曲目はルナサのヴァイオリンを中心としたアンサンブルだ。
 音合わせを終えると、互いに目配せをしてタイミングを計る。

 そして誰が合図するでもなく、演奏は始まった。

 静閑とした室内に、まずはゆっくりとピアノ伴奏が鳴り響く。
 そこへ微かに、次第に大きくヴァイオリンの澄んだ旋律が流れ、曲の主導権を自然に攫っていった。
 盛り上がり時には、トランペットがその美しい高音を添えてハーモニーを奏でる。

 三人の演奏が一つの曲として完成し、音の奔流となって室内を巡り回る。
 プリズムリバー騒霊楽団の演奏を特等席独占で聞いている澪は、ただただその流れに酔い痴れるしかない。
 目を閉じて音だけに集中すると、音楽が生きているという感じがした。
 こんな素敵な音楽を奏でられるルナサ達はやはり凄い。
 これだけ完成された合奏には、誰も邪魔をしようとは思わないだろう。

「どうだった?」
「うん、やっぱり凄いね。私にもそんな演奏が出来るようになるかしら」
「さぁてね、それは澪の頑張り次第よ」

 悪戯っぽくウインクしながらも痛言してくるリリカに、澪は頬を脹らせる。

「もおっ、ちょっとは夢くらい見させてくれても良いじゃない」
「私は音楽に関しては素直だって言ったでしょ」

 演奏の余韻と穏やかな談笑に包まれて、静穏で幸せな夜が更けていく。
 今宵は新月。
 月明かりは無く、星々だけが瞬く静謐な空の下、騒霊屋敷の灯りは遅くまで灯り続けていた。

「ふぁぁ、それじゃあ私はそろそろ寝るね」
「えぇお休みなさい」
「お休み〜」

 しかしそれでも日付が変わるか変わらないかという時刻になると、眠気には勝てず澪は寝室へと上がっていった。
 残った三姉妹はそれぞれ楽器の片付けをしながら、次回のライブの予定やおひねりの使い道をどうするかなどを
 あーでもないこーでもないと、いつものように収拾を付ける気などないかのように話していた。

「で、話は変わるんだけどさ」
「いつもながら唐突ね、リリカ。それでどんな話に変えるのかしら」
「次のライブは私が主役って話?」
「「いやそれはない」」

 姉と妹に同時に否定され、がっくりと肩を落として床にうずくまるメルラン。
 そんな次女には目もくれず、二人は会話の続きに戻った。

「澪のやる気だけどさ。ルナサ姉さんはどう思う?」
「そうね。一週間でようやく基礎の基礎が身につき始めたくらいだから確かに要領が良いとは言えないけど。
 やる気の面で言うならかなりものだと思うわ。よっぽど姉への劣等感が溜まっていたんでしょうね」
「まあ動機は何であれ、レッスンの間は楽しくやってくれているならそれで良いんだけどさ」

 リリカの言い方には、どこか含みを感じる。
 彼女が三枚先を読んで行動するタイプなのは知っているが、こんな風に相手に悟らせるような言い方はしない。
 それは暗に気付いて欲しいことがあるのではと、ルナサは推測した。

「まだ澪のことで思うところがあるの?」
「分かんないのよ。私にも」
「それってどういうこと?」
「あの子が何か隠しているのは最初から気付いてた。でも、今のあの子からは、何も見えない」

 リリカの声は至って真面目だ。
 冗談を言っているわけでも、こっちを担ごうとしているわけでもない。
 その声に含まれているのは憂慮。

「どうしたのよ、いつものリリカらしくない」
「何もないならそれで良いけど。あの子には、澪にはまだ何かある……そんな気がしてね」

 末女だが、リリカは三人の中で最もそういう心情の変化には敏感だ。
 そのリリカが何やら懸念している。
 澪を信じない訳じゃないけれど、確かに少し気にするくらいが丁度良いのかもしれない。
 それに、澪がここに住み始めてからもうすぐ二週間。

「……もうそろそろ、よね」

 窓から覗く月のない天鵞絨を見上げながら、ルナサは何かを決意するように呟いた。


《後半へ》


 母が私の名前には“光”が宿っていると話した。
 スペルは違うけれども、私の名前は“導く光”を意味する言葉が冠せられているそうだ。
 だけど私は誰の導きにもなれはしない。
 姉さん達に導かれるまま、惨めな自分すら導くことも出来ない。

 なんで母は私にこんな名前をつけたのだろう。
 そしてどうしてその由来を話したのだろう。
 そんなことをされたら、もっと自分が惨めになるだけなのに。

 でも……もし……
 こんな私でも、いつかは名が示すとおり“導きの光”になれるのなら。
 その時は、この名前も好きになれるのかしら。


【レイラの手記より抜粋】

※後半に続きます。

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