賢者は嘘を吐かない


 私は待っていた。
 真っ白真ん丸の満月が、妖の力を満たす光を降り注ぐ夜。
 数年に一度、年月と四季のバランスを保つための閏のような邂逅。
 その稀少な再逢のために私は彼女を待つ。
 それははるか昔より続く、友との約束だから。

 私が次に目覚めた年の神無月。
 その月の月が満ちる夜。
 妖の力が満ち、神の眼が遠ざかるほんの少しの間。


 必ずここで逢いましょう。
 


  ☆


 毎月、満月の日になると永遠亭は忙しくなる。
 満月を遠ざけるため始めた恒例行事、例月祭の準備が始まるからだ。
 兎達のリーダーである鈴仙とてゐはそれぞれ丸い物を探したり、団子を搗いたりと分担して仕事を行っていた。
 しかし毎月行われるから、兎達が言うことを聞きさえすれば特に問題はない。
 十五夜の例月祭だけは少し特別だけど、それもすでに先月の話。

 いつものように陽気な兎の歌がリズムを作り、そのリズムに合わせて杵が跳ねる。
 いつしか歌う方が目的になり、歌に合わせて兎が跳ねる。
 粛々とした例月祭はどこへやら、いつの間にか兎達の宴会場に成り果てていた。

 その宴を見ながら、輝夜は月見酒と洒落込み、隣にはお酌として鈴仙が座っている。
 彼女は宴会に加わわる程の体力はなく、こっちで酌をしている方が楽と判断したのだろう。

「今回も騒がしい例月祭だったわね」
「はぁ……言うことを聞いてくれる限りは良いんですけど」
「お祭なんだし陽気にやらなきゃ。ほら貴方も注いでばっかりいないで飲みなさい」

 ぐい飲みを差し出してくる輝夜に、鈴仙は苦笑を浮かべて答える。
 疲れているのであまり飲みたくはない気分らしい。
 だがペットとして位置づけられている者が、そんなことで許されるはずがない。
 笑顔で凄みをきかせながら迫り、再度酒を勧める輝夜。

「あら、飼い主が注いだ酒が飲めないとでも?」
「うう。後片付けが残ってるからお酒は入れたくないんですよ」
「大丈夫大丈夫。あれだけイナバがいるんだから、どうとでもなるわ」

 その言葉に鈴仙の瞳が遠い方を見る。
 確かに永遠亭で暮らす兎の数はかなり多い。
 人化できる妖兎も少なくなく、兎手(人手)は数だけ見れば充実していると言える。
 だがそれはその全てが兎手として働いてくれることを前提としているから言えること。
 片付けの頃になれば騒いで体力を使い果たした兎達は、もはや使い物にならない。
 だから例月祭の片付けの多くは鈴仙が一人で行っていた。

「てゐに頼めばいいじゃない。あの子の言うことなら、他のイナバもよく聞くんでしょ」
「そうなんですけどね……」

 肩を落とす鈴仙の様子に、輝夜はなんてことはないだろうと楽観的に提言する。
 しかしそれを聞いても、実態を知っている鈴仙には気休めにもならない。
 もう苦労を考えるのは嫌になったのか、鈴仙は輝夜が差し出していたぐい飲みを受け取り一息に飲みきった。

「んぐんぐんぐっ、はぁ〜っ……肝心のてゐが居ないことには言うことを聞かすなんて無理ですよ。今日だってどこ行ったかわかんないし」
「その辺を走り回ってるんじゃないの。ほら昔の歌にもあるじゃない。う〜さぎうさぎ何見て跳ねる〜♪ って」
「地球(ほし)見て跳ねる〜、でしたっけ?」
「それは玉兎の話でしょ。てゐは地上の兎じゃない」

 他愛も無い会話を続ける輝夜と鈴仙。
 そこへ酒のつまみを作って永琳が戻ってきた。

「あらあら楽しそうね。例月祭は落ち着いたのかしら」
「お師匠様。はい、今宵の例月祭も無事に終わりそうです。……てゐはまたどこか行っちゃいましたけど」
「いつものことね。それより今夜は私も出掛けるから。片付けはきちんとしておきなさい」
「わかりました」
「あら、永琳が例月祭の日に出掛けるなんて珍しいわね。どこに行くの?」

 てゐが何処かに行くのはいつものことだから気にはならないが、永琳が出掛けるのは気になる。
 興味本位で尋ねてくる輝夜に、永琳は悪戯っぽく笑ってぼかした答えを返した。

「ちょっと、人と会ってくるだけよ」


  ☆


 永遠亭の例月祭が落ち着いていた頃、その賑やかさとはまったく対照的な無音の丘に一人の女性が佇んでいた。
 波打つ金糸の髪を夜風になびかせながら洋傘を回すその姿は、怪しい美しさを醸している。
 口元はうっすらと弧を描き喜びを抑えきれない様子が窺える。
 彼女の名は八雲紫。幻想郷では妖怪の賢者とも呼ばれるほどの大妖怪だ。

 彼女はただ佇むだけ。
 さやさやと足下に生える草が揺れても、月明かりで仄かに見える雲が流れていても、彼女が動くことはない。
 くるくるくるくる、と。薄桃色の洋傘が回すだけ。
 草原にぽつんと立つ一本の風車のように。

 その傘が刻むのは心の奥にしまった大切な思い出。
 誰に話すためでもなく、ただそんなことがあったと自分が確認するためだけの記憶。


 右も左も分からず、ただ暗闇の中を手探りで進むしかなかった頃。
 その手をしっかりと握りしめ、進むべき道を示してくれた恩人がいた。
 今となってはその頃交わした会話や、当時何があったのかは覚えていない。
 ただ一つ。
 彼女と交わしたたった一つの約束を除いては――

 
 その時風車が動きを止めた。
 彼女の背後、風が立てるものとは違う物音がする。
 どうやらこちらに向かって近づいてくる何者かがいるらしい。
 しかし紫にはその正体が分かっているためか、警戒の色は微塵も見られない。
 むしろその顔に浮かぶ喜びが、幾分か増したように感じられる。

「遅かったわね」

 まだ現れていない者に対し、紫は親しげに呼びかける。
 それでも隠れている者は出てこない。
 周囲に人影がないか警戒でもしているのだろうか。
 そんな用心しすぎる様子に、紫は苦笑を漏らす。

「普段の貴方なら、そこまで警戒することもないんでしょうけど。
 ほら、私以外には誰もいないから出てきてくださいな」

 紫が諭すように声を掛けると、ようやく草陰から彼女が姿を現した。
 暗がりから月光の満ちる丘へ出てきて、次第にその姿がはっきりと見えてくる。
 波打った黒髪が特徴的な美しい女性が、紫に向けて微笑を浮かべていた。
 着ている着物は桃色のシンプルなものだが、橙色の帯がよく映えている。
 女性の黒髪とうまく調和して彼女の魅力をいっそう引き立てている。
 その美貌は紫に勝るとも劣らないほどの絶世的なもの。

「ごきげんよう。境界の名を持ち、幻想郷を見守る賢者」
「ごきげんよう。古来よりの智を、その身に秘めし賢者」

 二人は互いをそう称しあうと、どちらからともなく吹き出した。
 久方ぶりの再会がこうも硬くては古くからの仲もあったものじゃない。

「本当に久しぶりね。こうしてここで会うのは何年ぶりかしら」
「この前貴方が冬眠する前以来だから……何年になるのかしら。ここ以外での再会はあったけどね」
「まさか“あんな形”で再会するとは思ってもみませんでしたわ」

 それはこっちの台詞よ、と黒髪の女性は苦笑を溢す。
 それもそうね、と紫も笑う。
 二人の笑みのどちらにも何かを企んでいる様子は欠片も感じられない。
 黒髪の女性はともかくとして、紫はいつも得体の知れないことで警戒されることが多い。
 そんな彼女でもこんな風に笑えるのだと、彼女を知るものが見れば驚くに違いない。
 それほどまでに屈託のない笑顔を紫は浮かべていた。

 すっかり懐かしむ空気をまとった二人は、丘の上にある切り株にそれぞれ腰掛けた。
 こうして並んで座るとより二人の美貌が際立って見える。
 まるで二人の周囲だけ空気が異なっているかのようだ。

 しばらくの間、どちらも喋ることなく夜風に耳を傾けていた二人。
 しかしせっかく再会なのにこれでは勿体ない。それに次の機会が何年先になるか分からない。
 その静寂を先に破ったのは紫の方だった。

「今回は随分と来るのが遅かったようだけど?」
「ちょっと出る前に捕まってしまってね。お詫びというわけではないのだけど……」

 言いながら女性は風呂敷包みの中から一升瓶を取り出す。
 それが一目見ただけで上物の酒だと察した紫は、スキマから杯を二つ取り出し一つを女性に差し出した。

「次に貴方が起きた時にと思って取っておいた特上品よ」
「よく他の者に見つからなかったわね」
「私を誰だと思っているの。あそこで私の叡智に適う者はいないわ。匹敵する者は一人、知ってるけどね」

 女性に注いで貰った杯に満月を落とし、充分に月光を染み込ませた酒を口元に運ぶ。
 その喉が小さく上下し、再会の月見酒が紫の五臓六腑に染み渡っていく。
 歳月を経て友人から注いで貰った酒は、とても美味に感じられた。


  ☆


 永琳が出掛けてしまった永遠亭では、例月祭も終幕して片付けに入っていた。
 すでに兎達は疲れ果てて大半が寝入っており、大半の残りも手伝ってくれるほど気の利く奴は残っていない。
 簡単に状況を説明すると、本人の予想通り鈴仙がたった一人で片付けをしているということだ。
 その様子を輝夜は縁側から酒を飲みつつ傍観していた。
 今日は屋敷の奥で飲もうにも、一緒に飲んでくれる永琳がいないのだ。
 静かな部屋で一人でぽつねんと飲んでいても、全然楽しくない。
 それならまだ鈴仙の片付ける姿を見ながらでも飲んでいた方が、幾分マシだとここに酒を持ってきたのだ。

 だが鈴仙からしてみれば、どうにもやるせないことこの上ない。
 相手が飼い主である輝夜だけに、手伝わないなら向こうに行ってろとも言えず、
 かといって目の前でそうくつろがれては、こうして片付けている自分が馬鹿らしくも感じられる。

「あのぉ、輝夜様?」
「ん〜? 片付けが終わるまではお酒はお預けだからね」
「いやそれはさっき聞きましたから」

 さっきまではあんなに飲め飲め飲め飲めと煩かったのに、と鈴仙は心の中で愚痴る。
 表面上は苦笑を取り繕いながらも、内心の辟易はだいぶ溜まっているようだ。

「お師匠様はどこに行かれたんでしょうね」
「さぁ、月の賢者の考えることが私達にわかるわけがないじゃない」
「……主人として、それで良いんですか」
「良いのよ。私と永琳はそういう関係で千年以上一緒に過ごしてきたんだから」

 何百年かは鈴仙も一緒にいるのだが、輝夜と永琳が主従関係というのが今ひとつ納得しきれていない。
 まだ紅魔館の吸血鬼とメイドの関係の方が、よっぽど主従関係らしく見える。
“見えるだけ”なのかもしれないが、少なくとも見える限りではそう感じられる。
 しかし自分との歴史と二人の歴史は明らかに違いすぎる。
 自分の預かり知れぬ所で、輝夜達にしか分からない絆がそこにはあるのだろう。
 
「てゐには分かるのかしら……」
「てゐ?」
「私よりは輝夜様達と一緒にいるでしょう? お二人の事を私よりは知って居るんじゃないかなぁと」

 鈴仙の話に、輝夜は首を捻る。
 確かにてゐがここで住んでいる歴史は長い。
 しかし歴史の長さと親密性が必ずしも比例するわけではない。
 輝夜の顔を見ていると、どうにもそういう風に思えてならないのだ。

「てゐのことは私達もよく分かってないわ。あっちも変にこっちのことを探ろうともしないし」
「じゃあ、なんでてゐはここにいるんでしょうね」
 

 ☆
 

 月光の丘で粛々と続けられる二人だけの月見。
 時折漏れる笑い声は、大きいものではなかったがとても楽しそうな響きを含んでいる。
 
「あれからそちらのお姫様の様子は?」
「気楽なものだわ。あれだけ満月を避けていたのに、今は愛でてるくらいだもの。すっかり地上人、というか幻想郷人ね」
「そう、それなら良いんだけど」
「どうしたの? もしかして心配してくれているのかしら」
「別に。まさか月の住人が幻想郷に住み着くなんて、私も思わなかったことだから」

 幻想郷は全てを受け入れる。
 西洋の吸血鬼も現代の神も、そして月から逃げてきた月人も受け入れる。

「だからこそ渾沌としていて面白いのだけどね。話に聞く外の世界は決まり事ばかりで全然楽しくなさそうだわ」
「それが彼らなりの平和を保つ術なんでしょう。妖怪との共存を捨て、人間だけの社会で生きていく上での、ね」
「まぁ外の世界とはとっくの昔に縁を切ってるから、今更どうでも良いんだけど」
「隠居らしい発言ね。もう賢者という立場も興味がないのかしら」
「そうね。今はあの屋敷で好きなことをやって過ごす方が性に合ってるもの。それに私には貴方ほどの力はないわ」

 それは謙遜で言っているようには見えない。
 ただ事実を事実として冷静に判断した上での発言なのだろう。
 紫も茶化すこともなく、ただ頷きを返すだけだ。

「力そのものなら並の妖怪よりは遙かに上でしょうけどね。能力だって、使いようによっては脅威になる」

 でも、と紫は苦笑気味に言葉を続ける。

「何故か貴方はその力を使うのではなく、溜めることにした」
「それが長生きの秘訣よ。貴方ももっと長生きしたいなら力はなるべく控えておく事ね」
「妖怪だから人間よりは遙かに長生きなのだけど。貴方は長生きをしてどうしたいの?」

 黒髪の女性は、自身の杯に映る満月に視線を落としながら、しばらく口を噤んでいた。
 喋りたくないという様子ではない。
 ただじっと水面の月を見つめる横顔からは、感情を読み取ることが出来ない。

「まぁ目的がなくても良いとは思うけど。貴方が長生きをすることで助けられる者も出てくるでしょうし」
「そこには貴方も含まれているのかしら」
「……そうね。今の私があるのは、貴方のおかげですわ」
「今更そう言われても恥ずかしいだけよ。それにもうそれもずっと昔の話でしょう」

 彼女は懐かしむように眼を細める。
 その目が見ているのは、果たしてどれだけかつての話なのだろう。

 彼女が出会った一人の少女。
 力は強いが妖怪としてはまだまだ未熟なその子に、彼女は道を示した。
 それはただの気まぐれだったかもしれない。
 だがその気まぐれで、彼女は永い時を共に過ごす友を得たのだ。
 自分よりも遙かに強い力を持った今でも、こうして約束を守り、語らいの時を作ってくれている。

「ありがとう」
「今さっき、今更と言ったのはどの口かしら」

 意地悪い言葉を返してくる紫に、女性は唇を尖らせる。
 顔つきは大人っぽいが、そういう表情を見せるあたり内面は子どもっぽいところがあるようだ。

「貴方、随分と意地悪くなったんじゃない?」
「それこそ今更ね。というか、意地の悪さは貴方譲りな気もするのだけど」
「あら、私は意地悪くなんかないわよ。私ほど正直なのも今時珍しいと思うわ」

 その言葉に今度は紫が肩をすくめる。
 この弟子にして、この師ありといったところか。

「正直者にしては、本当のことを隠してるんじゃない?」
「何が本当かも知らないのに、随分と知った口を利くじゃない」
「私は別に良いわよ。でも――」

 ふと紫の口調に別に響きが混じる。
 同時に、どことなく彼女たちを包む雰囲気にも変化が生じ始めたようにも見える。
 多少敏感な者ならばすぐにその変化に気付き、よほどの大馬鹿者でも無い限り、そっとこの場から立ち去るだろう。

「そこで聞き耳を立てている失礼者はどうなのかしら?」

 紫の口元に歪んだ三日月が浮かぶ。
 その視線の先、丘と森の境界に佇む人影もまた得体の知れない笑みを浮かべて、こちらに視線を送っていた。


  ☆


「終わった〜……」

 結局誰も手伝ってくれることなく、鈴仙は一人で片付けを終わらせた。
 すでに兎達は床についている。
 今ここにいるのは自分と、酔い覚ましに夜風に当たる輝夜だけだ。
 未だ永琳は帰ってきていないし、てゐも行き先分からずのまま。

 縁側に仰向けに寝ころび、疲れた体を休める鈴仙。
 その隣に腰掛けている輝夜は、酒ではなく水の入ったコップを手に満月を見上げていた。

「お疲れ様」
「疲れたってものじゃないですよ。全部私一人でやったんですから」
「仕方ないじゃない。てゐは帰ってきてないんだし」
「もぅ……なんであの子は例月祭になるといつもどこかに行っちゃうんだろう」

 片付けを手伝いたくないというのが一番の理由だろう。
 だがそれでもこの時間になれば、どこからか戻ってきていつの間に布団で寝息を立てている。
 それが今日はこの時間になっても帰ってきていない。

「輝夜様はてゐのことをどう思ってるんですか?」
「どうって……ペットだけど?」
「本当にそれだけなんですか?」
「少なくとも私はね。特別視しているのは永琳の方じゃないかしら」
「お師匠様がですか?」

 てゐをここに置くことを決定したのは永琳だと輝夜は言った。
 どういう経緯で知り合ったかは輝夜もよく知らないが、ただてゐがこの竹林の主であることは聞いたらしい。
 この竹林に隠れ住む以上、その主を目の届く所に置いておくのは都合が良い。
 向こうも住処を提供し、他の兎達に色々教えてくれる場所ということで承諾した。

 しかし輝夜は心の奥で思っていた。
 永琳のことだ、ただそれだけのことで大勢の兎を住まわせるはずはないと。

「それからよ。てゐが永遠亭に住み始めたのは」
「それってかなり昔の話ですよね。てゐはその頃からあの姿のままなんですか?」
「そういえばそうね。蓬莱の薬を飲ました訳じゃないんだけど」

 なんだか改めててゐのことを聞いていくと、彼女の胡散臭さや得体の知れなさが募っていく。
 いつも嘘ばかり吐き、腹の底を見せることのない態度ばかり取っている。
 行動もそれだけの歳月を生きてきたにしては子どもっぽいし。

「まぁ良いじゃない。それが因幡てゐという妖兎なんでしょう」
「はぁ、まぁ輝夜様とお師匠様がそれで良いなら……」

 鈴仙は今もどこかで走り回っているであろう、自分より背の低い年上の兎に思いを馳せた。


  ☆
 
 
「こんな所で会うとは奇遇ですわね」

 二人だけの月見の場に、突然現れた招かれざる客。
 紫は警戒でも殺気でもなく、ただ純粋な敵意を向ける。

「いつぞやの永夜異変以来かしら? 八意永琳」
「名前を覚えてくれていたとは光栄ね。妖怪の賢者様」
「そりゃあ、あれだけのことをしでかしてくれた張本人ですもの」

 月を隠すという大仕掛けの術を一人でやってのけるほどの実力者。
 その力は下手をすれば幻想郷のバランスを崩しかねない。
 紫も博麗の巫女と共に調伏に出かけ、そこで出会ったのがこの八意永琳という元月の賢者だった。

「それでこんな時間にどうしたの? 散歩でもしてるのかしら」
「まぁそんなところよ。あなた達こそこんな所で何をしているのかしら」

 永琳の視線は紫ではなく、その隣で背を向けている女性に向けられている。
 最初から彼女に用があってここに来たというのが丸わかりだ。

「私達はただお酒を飲んでいただけよ。久しぶりの再会を祝してね」
「そう。だったら私もご一緒させてくれないかしら。私も貴方とは久しぶりの再会だし。ねぇ?」


 高草稲葉――――。


 永琳の口から発せられた名前。
 それを聞いた女性は、徐に振り返りその妖艶な顔を永琳と向き合わせた。

「“その姿”と会うのは、初めて会ったとき以来ね」
「あの結界を破るには、少し力を解放する必要があったからね」


  ☆


 かつて高草群と呼ばれていた巨大な竹林。
 洪水で流されてからは、誰の目に触れることもなく存在し続けていた。
 その高草に住んでいた一匹の老兎。
 罪を犯し、その罪を神に許された彼女は、その命を大切にする内に巨大な力と膨大な智を手に入れた。
 しかしその力を彼女は使うでもなく、使われるでもなく、その身に留めることを選んだ。
 何のためかと聞かれれば、それはたった一つの簡単な答え。

 ――生き続けるため。

 ただ生きるために生きていた彼女。
 そんな彼女に生き方を与えてくれたのが、今や賢者の仲間入りを果たすまでに成長した紫だった。
 彼女と出会ったことで、彼女は自身の力、智を別の誰かに分け与える生き方を得たのだ。

 そんな時、自分の縄張りたる高草に、それまで彼女が感じたことのない気配が入り込んできたことを察する。
 その気配に誘われて行ってみると、そこには並の力では破ることの出来ない結界が張られていた。
 だが彼女は並の力以上の力を持つ大妖怪だ。
 結界を破り、中に入っていくとそこで一人の女性と出会った。
 その姿は神や人間と同じ物だが、伝わってくる雰囲気が違う。
 それがあの空に浮かぶ月から逃げてきた月の住人だと知るのはそのすぐ後のこと。
 

 これが高草稲葉と八意永琳の最初にして唯一の出会いだった。


  ☆


「なんだ知り合いだったのね」

 二人の様子に、紫もすぐに肩の力を抜いた。
 それと同時にスキマから三つ目の杯を取り出し、永琳に差し出す。

「歓迎してくれるのかしら」
「稲葉は私の恩人。その知り合いなら無下には出来ませんわ」

 言って紫は永琳の杯に酒を注ぐ。
 永琳は一口口に運ぶと、その口元を綻ばせる。

「上物ね。こんなものを隠し持っていたなんて」
「だって見つかったらすぐに飲まれてしまうでしょう。これは今日のような特別な時のための物」
「そうやっていつも私や輝夜、他の兎達を欺いていたの?」
「それは違うわ。高草稲葉は嘘を吐かないもの」

 稲葉がそう言うと、永琳は目を瞬かせ、その後すぐに吹き出して笑いを溢す。

「そうね、確かにそうだわ。あなたの話じゃない」
「そうそう、賢者は嘘を吐かないものよ。嘘に見えるのは全て理解できないだけのこと」
「逆に言うと嘘に見えないものは理解できるもの。それ故に盲点になりやすい、と」

 永琳が何を言っているのか、それはこの場にいる者にしか理解は出来ないだろう。
 彼女たちの一人が真実を言ったとして、誰がそれを理解しようとするだろうか。

「小さな嘘で塗り固め、大きな嘘を見えなくする。知識ある者の常套手段ね」
「紫、貴方がそれを言うと嘘しかついていなように聞こえるわ」
「それも貴方から学んだことですわ。さてと――」

 笑いながら紫はまたスキマを開き、中から愛用の日傘を取り出す。
 それを手にしたということは、今日はもうここで帰りますという意思表示。
 まだ夜は続いている。月だってまだその光を劣ろわせてはいない。

「あら、もう帰るの?」
「今宵はもう充分お話しさせてもらいましたし。それに私よりそちらさんの方が話したがっているようだし、ね?」

 言葉の後半は稲葉ではなく、永琳に向けられたものだ。
 
「別に貴方がいてくれても構わないのに」
「私には理解できない話をされて、除け者にされるのは嫌ですもの。それじゃあまた、いつかの神無月に」
「えぇ、また。約束ね」
「えぇ、約束ですわ」

 スキマで作った空間の歪みに腰掛けて、紫は空へと舞い上がる。
 その姿を見上げながら稲葉は優しげな微笑みを浮かべ、再会を約束した後再び永琳へと視線を戻した。

「さて、紫が気を利かせてくれたわけだけど、貴方は私になんの用があるのかしら。
 ずっと私がこの姿になるときを窺っていたようだけど?」
「そこまで分かっていたとは。さながら賢者の二つ名は伊達じゃないってことかしら」
「もうその名は捨ててるわ。賢者の名を持つ者は、そう何人も必要ないもの」

 稲葉はまた切り株に腰を下ろして、自分の杯に酒を注ぐ。
 その隣、さっきまで紫が座っていた切り株には永琳が腰掛けた。
 第二幕の始まりとなった賢者の宴会。
 面子が入れ替わっても、その周囲に漂う近づきがたい雰囲気は変わることがない。
 もう一つ、見る者の心を奪う美しさも相変わらず醸されていた。

「本当に久しぶりに見るけど、良い身体ね」

 稲葉の身体を、頭の上から足のつま先までまじまじと見つめ永琳が呟く。
 例えば眼鏡の道具屋店主が言えば変態扱いされそうな台詞だが、永琳の言葉にはいやらしさは含まれていない。
 純粋な褒め言葉としての呟きだ。
 稲葉の体つきは永琳に負けず劣らずの凹凸ぶりで、人里を歩けば男共の注目を一身に浴びることは間違いないだろう。

「貴方が言っても嫌味にしか聞こえないわよ」
「そうね、こんなもの重いし肩がこるし、輝夜くらいの大きさが丁度良いわ」
「あぁ、確かに。邪魔にもならず、物足りなくもならずで良い感じね」
「それなら“そういう姿”で居れば良いんじゃなくて?」

 すると稲葉は、ちっちっちと人差し指を軽く振った。
 そういう浅はかな問題ではないということなのだろう。
 永琳も最初からそういう反応が返ってくるのを察していたのか、特に表情を変えたりはしない。

「あの姿であることが重要なのかしら」
「そういうこと。私は貴方のように不老不死ではないもの。長生きするために、その為に力を使わないと」
「それがあの姿、というわけ? そんなに違うものなのかしら」
「伊達に神様に助けられてから生き続けてるわけじゃない。長生きの秘訣は誰よりも知っているわ」
「嘘っぽく聞こえるけど、貴方は嘘を吐かないんだったわね」

 美しくも怪しげな笑みを浮かべて、永琳の言葉を肯定する稲葉。 

「嘘を吐かないなら、ついでにもう一つ。それだけ永い時を生きてきた貴方が永遠亭から離れないのはどうして?」
「そんなの決まっているわ。あそこには大勢の仲間がいる。今更別の場所に移ることは不可能ですもの」
「本当に、それだけ?」
「さっき私が嘘を吐かないと言ったのは貴方自身じゃない。それを疑うのは矛盾しているわ」

 ただ、と稲葉は言葉を続ける。

「理由が一つじゃないのはその通りよ」
「だったら焦らさずに話してくれれば良いのに」
「言う前に貴方が疑ったんじゃない」
「……喰えない性格は変わらず、か」

 苦笑を浮かべる永琳に、稲葉はそっと顔を近づける。
 吐息が触れるほどに稲葉はその耳元へ唇を近づけ、もう一つの理由をぽそりと告げた。
 刹那永琳の目が丸く見開かれる。
 その反応を面白がるように、稲葉はクスクスと笑みを溢した。

「さぁて、そろそろ夜が明ける頃合いね」

 何事もなかったかのように、稲葉は立ち上がる。
 確かに向こうに見える山の裾がうっすらと白やみかけている。
 煌々とその存在を知らしめていた満月も、どこか薄くなった気がする。
 もう数刻もしないうちにその眩さは、昇ってくる太陽に奪われてしまうことだろう。
 それは則ち、この邂逅にも終わりの時が近づいていることを示していた。

「聞きたいことはもうそれだけかしら」
「聞き出したらキリがないけど、それでも答えてもらえるの?」

 互いに確信めいたことを言わないのが、さも当然であるかのように会話をする二人。
 しかしどにももどかしさは感じられず、その微妙な関係こそが相応しく思えるから不思議だ。

「それじゃあ次は貴方もおいでなさいな。紫も貴方なら敬遠はしないみたいだし」
「警戒はされるでしょうけどね。私もなんだかんだでまだ信用していないし」
「ふふふ、賢者を信用してはいけないわ。警戒するくらいで丁度良い」
「その賢者の中には貴方も含まれるのかしら」

 最後の質問に稲葉はすぐには答えなかった。
 数歩歩き、ふと足を止めたかと思うとくるりと振り返る。

「私は賢者の名を捨てたと言ったはず。それにさっき言った“もう一つの理由”では、その問いの答えにならないかしら」
「……わかったわ。そういうことにしておきましょう」
「ありがとう。あぁ、それともう一つ。これはお願いなんだけど、良いかしら?」
「お願い? 蓬莱の薬ならいつでも処方するわよ」

 永琳の軽口から、了承の意を汲み取った稲葉は一言笑いながらこう告げた。


「これからも“もう一人の私”をよろしくね」


  ☆


 翌朝。
 すっかり夜更かしをしてしまった鈴仙は、眠い目を擦りながら朝餉の支度のために台所へとやって来た。
 まだ昨日の片付け疲れが取れないのか、ずっしりと身体が重い。
 永琳とてゐの帰りを待っていたおかげで、床についたのは結局何時のことだったか。
 台所に来る途中、二人の部屋を覗いてみたが、どちらもまだ帰ってきていなかった。
 朝帰りとはどっちにしても珍しいことだが、鈴仙の頭に心配はこれっぽちも浮かんでいない。
 どうせひょっこり帰ってくるに違いないという確信があるからだ。

 その時玄関の開く音がして、鈴仙はやれやれと肩をすくめる。
 やっぱり心配なんかする必要はないと再確信し、出迎えるために玄関へと向かった。

「お帰りなさい。あら、てゐも一緒だったんですか」

 迎えに来てみると、永琳がてゐを背負って帰ってきていた。
 どちらも酒臭いところを見ると、一晩中飲み明かしていたのだろう。
 人の苦労も知らないで、と心の中で一人愚痴る鈴仙。

「心の中で文句垂れてないで、この子をどうにかしてくれるかしら?」
「あわわ、はいっ」

 表情の微かな変化から心の内を読み透かされ、鈴仙は慌てててゐの身体を受け取る。
 完全に寝入っているのか、てゐの身体はずっしりと自分に体重を預けてきた。
 少しよろめきながらも背負い直し、彼女の部屋に運ぶため鈴仙は廊下を歩き始めた。
 しかし永琳も放っておく訳にはいかない。
 再び玄関先へ戻り、座り込んだ永琳に話しかけた。

「お師匠様も寝られますか? 今から朝餉の支度をしようと思っていたんですが」
「そうね。今日は昼まで眠らせてもらうから私の分は良いわ。例月祭の片付けは終えた?」
「えぇ、まぁ。この子がいなかったおかげで散々でしたけどね」

 幸せそうな寝顔を浮かべるてゐに、鈴仙はじっとりとした悪態の目を向ける。

「まぁそう言わないの。悪気があってやってるんじゃないんだし」
「悪気があったらもっと最悪ですよ! って……妙にてゐの肩を持つんですね」

 苦労したのは自分なのに、と鈴仙はむくれ顔だ。
 まぁ鈴仙が怒るのも無理はない。
 だが昨日は仕方がなかった。

「ウドンゲ、貴方はまだ月の仲間と連絡を取っているのかしら」
「え? えぇと……いや、まぁ。時々」
「そういうことよ」

 永琳の言葉が理解できず、鈴仙は首を傾げる。
 しかし理解できなくてもそれで良いのだ。

 鈴仙の背中で寝息を立てる小さな身体。
 その身体には計り知れない力と、膨大な知恵が隠されている。
 普段の彼女から、そんな様子が微塵も窺えないのは、彼女が意図的に隠しているからだ。
 どうして隠すのか。隠さなければならない理由は一つ。
 これも最後に聞いた、理由と同じに違いない。


『私は貴方達を気に入ってるの。離れないのは、行く末を見守りたいからよ』


 そう言って笑った稲葉の笑顔。
 あの笑顔には是非もう一度会いたいものねと永琳は一人笑みを溢し、鈴仙はそれを見てさらに困惑の表情を浮かべる。
 てゐはその背中ですやすやと呑気に寝息を立て、何か良い夢を見ているのか小さく笑みを漏らした。

 そして今日もいつもと変わらない、だけど昨日とは少し違った永遠亭の一日が始まるのだ。


《終幕》


☆後書☆

 特に山もなく、オチもなく、意味もない。
 ただてゐの正体が、実は紫と肩を並べる大妖怪だったら面白いよねという妄想を書いた小説です。
 小説版の東方儚月抄を読んでいると、てゐのそこの深さが計り知れない気がして成らないという。
 永琳の結界を破って入ってきたり、神話の時代から生きているような発言をしたり、

「そう、つまりてゐが常に嘘を吐いているのは、本当の自分という大きな嘘を隠すためだったんだよ!」

「な、なんだっ(ry)」


 ……お粗末様でした。










※オマケ

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