椛、指す!
青々とした木々が紅く燃え、山々が秋めいた季節も終わろうとしている。
あれだけ見る者の目を楽しませていた紅葉も、残すはイチョウの黄色くらいなものだ。
そんな紅葉と同じく、この秋妖怪の山を賑わせた騒動も今やすっかり昔の話。
結局その時の名残と言えば、新しい住人が増えた程度。
一時は人間の立ち入りが増えるかもしれないと、天狗族も河童族も警戒していたのだが、そんな心配もどこへやら。
今や哨戒担当の白狼天狗達も、河岸で胡瓜を冷やす河童と将棋を指して穏やかな時間を過ごしている。
落ちる滝の壮大な轟きと、澄んだ川のせせらぎをバックミュージックに指す将棋というのも中々乙なものだ。
そしてここにも一組、白狼天狗と河童というありふれた組み合わせの二人が、河原で将棋盤を間に挟んで一勝負行っていた。
白狼の天狗は渋い顔で盤と睨めっこをして、河童の方はなんだか苦笑いを浮かべているように見える。
この白狼天狗、さっきからずっと悩むばかりで、すでにかれこれ一時間は経過しているのだ。
この勝負は別に正式な試合ではないため、待ち時間などはない。
いくらでも長考ができるので、時間を潰すにはもってこいだ。
だがそれでも一手指すのに一時間は掛かりすぎだろう。
河童が苦笑いを浮かべているのも頷ける。
むしろ苦笑い程度で済んでいるのが不思議なくらいだ。
そこからさらに五分ほど経過してから、ようやく白狼天狗の少女は一手進める。
その一手を見た河童は、何の躊躇もすることなく自分の手駒をついと進め、さらに一言こう告げた。
「王手、飛車取り。詰めッス」
直後、狼の遠吠えのような悲鳴が、冬支度を始めた渓谷に木霊した。
「なんですかなんですかなんですかーっ! 如何にも事件が起こりましたよみたいなその叫び声はぁーっ!」
その直後、白狼天狗の悲鳴よりも一段と大きな、しかもとても嬉々とした声で、一人の烏天狗が物凄い速度で飛んでくる。
あまりものスピードに、盤面の駒が吹っ飛ぶというアクシデントまで発生する始末。
ただし既に勝敗は決しているので無問題だ。
やって来た烏天狗は現場を一度通り過ぎると、アクロバティックな動作で身を翻らせ戻ってきた。
「あらこれは射命丸文さん。こんにちはッス」
「あやや? 事件の臭いを嗅ぎつけたと思ったら、にとりさんじゃないですか――と、そっちで両手両膝付いて意気消沈しているのは……椛ですか?」
「あ、文さんっ!? えっと、こ、これはですねぇ」
上司身分である文の登場に白狼天狗の少女――犬走椛は慌てた様子で作り笑いを浮かべる。
だが今更そんなことをしても、何かあったと悟られるには充分な状況だ。
と、言うのもである。
「なんでそんなあられもない格好してるのよ」
「わぅっ!? こ、これは……」
「自分が裸になってることも気付かないなんて、どうやら訳ありのようね」
記者ならではの洞察力で、椛が何やら隠していることを見抜いた文は、もう一人の当事者である河城にとりを加えて話を聞くことにした。
勿論椛が服を着る前に、その程良く締まった、幼さを残しつつもちゃんと女性の魅力を醸す裸体をフィルムに焼き付けることも忘れずに。
椛は慌てて服を着るも文のカメラには恥ずかしい姿がすでにたっぷりと納められていた。
「それで? なんで脱衣将棋なんてやってたんです」
椛が服を着ている間、ひとまず文はにとりに話を聞くことにした。
将棋盤、ひん剥かれた椛、その状況から考えるに二人が脱衣将棋をしていたのは間違いない。
しかしである。警戒エリアの関係でにとりと椛の仲が良いのは前々から知っているが、脱衣将棋とは仲の良い者同士がする遊びにしては、どこかおかしい。
「はぁ、実はですねぇ」
にとりは、数日前から椛が何やら悩んでいたことを話し始めた。
「もうだいぶ前の話になるけど、例の神様が現れたときに人間が山に入ってきたじゃないですか」
「あぁ、博麗の巫女と魔法使いの二人のことですね。それがどうかしたんですか」
「実は椛ったら、その時その人間にこっぴどくやられてしまったとかなんとかで」
その話なら文も知っている。
ちょうど椛が警護していたエリアに侵入してきたために、彼女は職務全うのため応戦したが、結果はにとりの言ったとおり呆気なく敗北。
その後、その人間の相手を文がすることになったのだから、知っていて当然だ。
それから後の話はひとまず省くとして、一体その件と脱衣将棋に何の関係があるというのか。
「それから彼女、すっかり負け癖がついてしまったみたいなんですよね」
「負け癖?」
にとりが言うには、勝負と名の付くもの全てに負けてばかりなのだという。
以前は将棋もそこそこの腕前だったのに、あの件以来一度も勝っていないらしい。
そこでその負け犬癖を克服するために、緊張感を持って勝負に望むという名目の下、始めたのが脱衣将棋だったというわけだ。
だが結末は見ての通り……。
対するにとりは長靴一足脱がされてはおらず、椛の負け癖がかなりの重症であることが窺い知れる。
いくら下っ端の天狗でも、身内の中にこんなのが居ては天狗族の威厳も形無しだ。
「成る程。それがばれるのが嫌であんなに焦っていたというわけね」
「ぅぅ、申し訳ありません」
服を着て戻ってきた所で、文が呆れた口調で尋ねると、尾を垂れた犬のように背を丸めて謝る椛。
そんな姿も、どことなく負け犬の雰囲気を感じさせる。
「しょうがないわね」
「え?」
その言葉の意味するところがわからず、椛は項垂れていた頭を上げて文を見た。
すると文は、何やら新聞配達用の鞄から一枚の広告を取り出し、それを広げて椛に差し出した。
それを受け取り、椛は内容に目を走らせる。
その脇からにとりも顔を覗かせ、一番大きく書かれた文字を口に出して読んだ。
「なになに『諏訪子杯、天狗河童合同将棋大会開催決定のお知らせ』……? なんなんです、これ」
「見ての通り。お山の上の神様が、冬になる前に何か大きなイベントを開いて楽しみたいって言い出して。大天狗様や、河童族の長に掛け合ってこの大会を開くことにした、という話です」
「あの、文様? 私にこれを見せてどうしろと?」
まさかと考える椛に、文はにっこり微笑みながら顔を近づける。
だがその笑顔は、ただ笑っているだけの顔ではない。背けることを許さない鬼気迫るオーラが滲み出ている。
椛は何も言えず、顔を背けることもできず、蛇に睨まれた蛙のように、ただ文の笑顔を見つめるしかできない。
「勿論。それに出場するの」
「だ、誰がですか」
「あなたに決まってるでしょう?」
分かっていた答えだが、いくら文の言葉とはいえ首を縦に振るなんてできるはずがない。
ただでさえ今は負け癖がついてしまっているのだ。
そんな大きな大会に出たところで、赤っ恥を掻いて二度と他の仲間に顔向けができなくなるのが目に見えている。
そんな不安げな様子が、表情にも出てしまっていたのか、いつの間にか文の自分を見る目が呆れよりも哀れみを含むものに変わっていることに椛は気がついた。
「椛、本当にこのままで良いの?」
「そ、それは……」
「悩んでいたんでしょう? 脱衣将棋までやるくらいだもの。自分でもわかってるんでしょう?」
「……はい」
「だったら尚のこと、負け犬としての汚名を返上しなきゃ。いつまで経っても負け犬って呼ばれ続けることになるわよ」
そう言われ、椛は自分が仲間から負け犬、負け犬と呼ばれている光景を脳裏に浮かべる。
自分は誇り高き天狗族。白狼天狗だからって、矜恃がないはずはない。
だがこのままではその矜恃も、何もあったものではないのだ。
椛は自分の矜恃を思い出し、自分の本心と向かい合って答えを出した。
「文様」
「その顔はどうやら決まったみたいね。それじゃあ特訓するわよ!」
「と、特訓!?」
決心は着いたが、まさかここで特訓という言葉が出てくるとは思ってなかった椛は素っ頓狂な声を上げてしまう。
出場するだけなら特訓なんて――そう言おうとした椛の言葉を、文は鋭い剣幕で黙らせた。
そして詰め寄るような口調で、こんな無茶なことを言い出したのである。
「何を言っているの! 棋界に旋風を巻き起こすためには優勝あるのみ! でも特訓も無しに、今のあなたにそんな偉業できるはずがないじゃない」
「そ、それはそうですが……」
「そうと決まれば早速行くわよ!」
「行くってどこにですか!?」
「問答無用ッ」
ぐいと腕を引っ張って、文は椛をいずこかへと連れて飛び去ってしまった。
その疾風怒濤の展開はまさしく天狗風が如し。
一人残されたにとりは、ただ呆然と二人のやり取りを眺めるしかなく、途中からは存在すら忘れ去られていた。
だがそのことに怒るわけでもなく、ふと足下に落ちていた駒を見て呟いた。
「さて、相手もいなくなってしまったことだし。片付けて帰るとしようかね」
にとりと別れ文の言う特訓とやらをすることになった椛。
その彼女だが、今は妖怪の山を生まれて初めて離れて幻想郷の空を飛んでいる。
眼下に広がっているのは、すぐ側にあったにも関わらず、椛にとっては未知なる異界だ。
初めて山の外に出たということもあって、椛はずっとビクついたまま文の後ろを飛んでいる。
そんな椛に頼りなさを感じながらも、文は目的の場所を目指して追い風に乗って空を駆けた。
特に会話を交わすでもなく、黙々と飛び続ける二人の天狗。
道草を食うことも迷うこともなく、山を出てからものの三十分も経たないうちに二人は目的の場所にたどり着いた。
周囲の森は冬に向けてその紅を散らしているのに、ここだけはその碧さを絶やすことはない。
細長い竹が生え、どこもかしこも似たような景色が広がるばかり。
下手に進むと確実に迷ってしまうに違いない。故にこの場所は、そのまま“迷いの竹林”と呼ばれていると、椛は文から教えてもらった。
目的の場所というのは、その竹林の中に建てられた屋敷。
こんな辺鄙な場所に建てられているだけでも不思議だが、住人はもっと不思議な連中揃いだという。
それを聞いてさらに不安げな表情を見せる椛。
そんな彼女を気に留めもせず、文はその戸口を叩いた。
「すみませ〜ん。毎度お世話になっております。文々。新聞の者ですが」
すると間もなくして玄関が開き、中から兎の耳を生やした少女が現れた。
この屋敷に大勢暮らしているという妖兎の一羽のようだ。
文はその妖兎と親しげに幾らか言葉を交わすと、ある者に会いに来たと用件を告げる。
妖兎は一旦許可を取るために屋敷の中に引っ込み、しばらくしてもう一度戻ってくると、文達を屋敷の中に招き入れてくれた。
中は伝統的な日本家屋そのものだが、そこらかしこに丁寧に造り込まれた様が見え、ここに住む者がただの人間ではないことを察しながら椛達は廊下を進む。
見ためよりもずっと広い屋敷の中を、妖兎の案内に従って奥へ入っていくと、ある部屋の前までやって来た。
妖兎が襖をノックし、中から「どうぞ」と声が返ってくると、彼女は文達に礼をしてからその場を去っていった。
「失礼します」
何も躊躇わず襖を開いて中に入っていく文の後を、慌てて椛は追いかける。
だが部屋に入った瞬間、独特の匂いが鼻を突き椛は顔をしかめた。
思わず両手で鼻を押さえそうになるのを、文に制され我慢する。
「あらあら、そっちの子は薬の臭いに慣れていないようね」
そんな椛の様子に苦笑を浮かべながら、この部屋の主であり、ここに来た理由である女性がやってきた。
自分よりも背が高く、大人の女性の艶を帯びた理知的で端整な顔つきに、思わず見惚れてしまう椛。
この女性こそ、この屋敷――永遠亭で医者を営む幻想郷でも屈指の天才、八意永琳である。
ちなみに数少ない文々。新聞の愛読者の一人でもあることを付け足しておこう。
「いつも文々。新聞をご愛読いただきありがとうございます」
「まぁ他に読む娯楽もないもの。それで今日はいったいどうしたの? 見慣れない子を連れて、また号外の押しつけかしら。それともそちらのお嬢さんの診察?」
あながち外れてもいない事を言う辺り、彼女の頭のキレを察することができる。
文は早速今回の一連の出来事を永琳に話した。
「負け癖克服のために。それで私にどうしろと?」
「永琳さんには、この椛の専属教師になってほしいんです」
「はいっ!?」
驚いたのは椛である。
確かに天狗族の間でも噂に名高い八意永琳から、個人的に知識を授けてもらえれば大分頭の使い方も変わってくることだろう。
だが大会までは一ヶ月もないのだ。今から俄で仕込んでも果たして間に合うかどうかわからない。
そして椛の心配とは別に、文の申し出に対して永琳はすぐに首を縦に振らないでいた。
当の永琳が拒否してはこの話自体無かったことになってしまう。
何か問題があるのかと文が尋ねると、永琳は清ました顔でその理由を告げた。
「……申し出自体は特に問題ないのだけど、私にそんな義理は無いわよね」
「それだったら、椛が優勝した暁には、そのコーチングをしたということで、永琳さんを紹介させてもらいますよ。そうしたら永遠亭の評判は妖怪の間でも上がりますし、何かとメリットになるんじゃないですか?」
「なるほど……人里に対しては薬の販売で信用も上がってきているけど、妖怪に対してはなかなかそういう機会もないものね」
思ったよりも食い付きの良い反応に、文はこっそりと握り拳を作ってガッツポーズを決める。
ここまで話を進められては、椛に断れるわけがない。
半ば、というか完全に強引に話がついて、椛はこれから大会の間まで永琳の下でみっちりと、主に戦況判断・指揮能力の教鞭をふるってもらうこととなった。
「さてと」
一段落付いたと思ったら、文はすっくと立ち上がる。
何事かと椛が考えていると、再びその二の腕ががっちりと掴まれた。
嫌な予感を感じたのも一瞬。
「それでは椛のこと、よろしくお願いしますね。特訓のスケジュールができ次第、新聞と一緒に渡しますから」
「わかったわ。くれぐれもさっきの件、忘れないでね」
「了解です。それじゃあ椛、次に行くわよっ」
「つ、次ってなんですかぁぁぁぁぁ」
悲鳴の残響を屋敷中に響かせながら、椛は文字通り急ぎ足で永遠亭を後にすることになった。
ぐったりとした様子で椛は文に手を引かれるがまま、次の目的地を目指していた。
もう見知らぬ土地の上空を飛ぶことに、不安がっている暇もない。
どれだけ美しい自然が広がっていようと妖精達の笑い声が聞こえてこようと、今の椛は何も感じることはなく、知らぬ次の行き先を目指すだけ。
「お、見えてきた見えてきたっ」
「次はどこですか……って、あそこってもしかして」
文の言葉に反応して前方に視線を向けた椛は、永遠亭の時よりも驚愕と不安を露わにした様子を見せる。
彼女たちの視線の先には、多くの建物が建ち並び、喧騒に包まれた町が広がっていた。
実際に見たことはない椛でも、そこがどこなのかくらい察しは付く。
「そう、見ての通り人間の里よ」
「帰ります」
「いきなり何を言い出すのかしら。そんなことを言うのはこのお口?」
人間の里だと明言された瞬間背を向ける椛に、文は容赦なく飛びついてその口を「い」の字に広げて叱責する。
だが椛もここばかりは譲れないと、その腕の中でもがく。
これまで妖怪の山しか知らない者からすれば、人間にとっての異界が妖怪の世界であるように、一番の異界は人間の里なのだ。
椛も例外ではなく、人間の里に冠してはあまり良い感情を持っていないのである。
「でゃ、でゃって、人間のしゃとでふよ!?」
「大丈夫だって。あなたが思ってるような危ない場所じゃないわよ。それに用があるのは、中心部からは離れたところだし」
「そりぇでも、ひゃですっ」
「えぇぃもう強情ね。だったら、こっちにも考えがあるわ」
すると文は椛の口から手を離す。と、次の瞬間、椛の視界に火花が散った。
そのままブラックアウトする椛の意識。その視界が最後に捉えたのは、物凄く怖い顔をした上司の姿であった。
「断る。どうして私がなんの理由もなく、お前みたいなあることないことを吹き込む輩に協力しなければならないんだ」
「そこをなんとか。可愛い部下のためなんですよ」
「そう言われてもできないものはできない。それに可愛い部下なら、どうして気絶させた」
朦朧とする意識の中、椛は文と何者かが議論を交わしているのを聞いた。
どうやら文はこの相手にも、永琳同様自分の専属教師になってくれることをお願いしているらしい。
だが永琳の時みたく、相手があっさり承諾してくれることはない様子だ。
「う、うーん……」
「どうやら目が覚めたようだな、ならこの話は終わりにしてもらうぞ。その子の容態が回復するまで話を聞くという約束だったからな」
まだハッキリとはしない視界だが、先程の永遠亭よりもずっと小さな、一般的な人間の家屋にいることを認識する。
そしてしばらく家の中を見ていくと、文ともう一人、これまた賢そうな女性と目があった。
先程の永琳よりも目つきが鋭く、怒らせたら怖いタイプであることが一目で分かる。
「椛、こちらが人間の里で仕事をしている半獣の上白沢慧音さんよ」
「半獣……?」
「あぁ、私はワーハクタクだ。歴史を司る力を持っていて、それを活かした仕事をしている」
文が言うには、この慧音という半獣は幻想郷全ての歴史を知っているのだそうだ。
つまり、これまで天狗や河童が作り上げてきた将棋の歴史も知っていることになる。
定石や対抗策、秘伝の戦い方も彼女に師事すれば伝授してもらえる。
だから文はどうしても彼女に協力してほしいと懇願しているのだが、どうにも慧音はそれが嫌らしい。
「別に私が教えなくとも、自ら学び己自身の手で勝ちを手に入れればいいじゃないか」
「それだと大会に間に合わないんですよ……ってこの話はさっきもしましたね。仕方がありません」
仕方がない、そう言って文は諦めるのかと思いきや、何やら鞄をごそごさと漁り始めた。
一体何を取り出そうとしているのかと、椛も慧音も気になっていると、文はそこから数枚の写真を取り出して、こっそりと慧音に手渡した。
するとみるみるうちに慧音の顔色が青ざめていくではないか。
しかしすぐにその青い顔は烈火の如く赤く染まり、慧音は文に噛みつくような剣幕で詰め寄った。
「こっ、こんなものをいつ撮った!?」
「さぁ、いつでしょうねぇ」
にやにやと悪どい笑みを浮かべる文に、慧音はハッとした表情を浮かべる。
文がこの写真を見せた理由に気がついたのだ。
「貴様……っ」
「それでは専属教師の件。承諾してもらえますね?」
「全部終わったらその写真は全て渡してもらうぞ」
「えぇ、お約束します。天狗は嘘を吐きません」
握り拳を振るわせる慧音は、今にも爆発しそうな剣幕だ。
しかし、文は涼しい顔で約束を取り付けたことに満足げな様子。
これは教えてもらう時が怖いなと、椛はもう殆ど諦めた思考で考えていた。
永遠亭の八意永琳、人間の里の上白沢慧音。
幻想郷指折りの知識人達に、専属の教師になってもらうことになった椛。
だが文はそれでも満足していない様子で、次の目的地へと椛を連れてきていた。
ここは永遠亭同様、かなり巨大な屋敷だが全体的に雰囲気が違う。
今まで行ったのが全て和風だったのに対し、この屋敷は西洋の造りなのだ。
しかし異様なのは、屋敷全体がまるで返り血に染まったかのように紅で彩られているということ。
美しさと不気味さを併せ持つこの館には、かつて幻想郷を騒がせた吸血鬼が住んでいると聞き、椛の不安をさらに煽る。
しかし時既に遅し。為す術もなく屋敷の中まで連れてこられた椛は、もはや文の言うとおりにするしかない。
門番に話をつけ、メイド長に案内してもらって辿り着いたのは巨大な書庫。
そこで椛達は、本日会った中では三人目の知識人である七曜の魔女、パチュリー・ノーレッジと対面を果たしていた。
文から事情と頼みを聞いたパチュリーは、紅茶の入ったティーカップをソーサーに置いて答えを返した。
「話は分かったわ。私にも他の二人同様その子に東洋チェスを教えればいいのね」
「話が早くて助かります」
「それで? 報酬は?」
「え?」
トントン拍子に話が進むかと思ったら大間違い。
やはり知識ある者は皆一様にくせ者でもあるようで、パチュリーは報酬を求めてきた。
論理的・合理的に動く魔女の性格上、別に不思議なことではない。
ただ問題となるのはその報酬に見合う物を、こちらが用意できるかということだ。
すると文は慧音の時同様、鞄の中をゴソゴソやり出した。そして取り出しのは、やはり写真。
それをパチュリーに見せると、今度は相手が怒り出すことはなく、むしろどこか喜びを押し隠しているように椛には見えた。
「こ、こんなもの。よく撮れたわね」
「椛が優勝できたら、もっと凄い物をさし上げますよ。そうですね。森に住んでる魔法使いもセットというのは……」
「乗ったわ」
即決で承諾するパチュリー。
いったいその写真には何が写っているというのか。
見せてもらえない椛にさっぱりだが、これで三人ともから特訓に付き合ってもらう約束を取り付けたことになる。
もうこれ以上は増やしても椛の頭がついていけない。
「それではパチュリーさん。椛の教育、よろしくお願いしますね」
「えぇ、私も自分の利のために精一杯のことはやらせてもらうわ」
「それじゃあ、一旦山に戻るわよ」
その言葉をどれだけ待ち望んでいたことか。
椛は疲れた笑顔を浮かべて、文の言葉に頷きを返すのだった。
それで山に戻ってきたまでは良かったのだが。
「あ、あの〜、文様?」
「どうしたの?」
「これから私はどうするんでしょう。というかどうなるんでしょう」
簡単に状況を説明すると、椛は簀巻きにされて滝壺を見下ろせる崖の上に立たされている。
その側では文がニコニコと微笑んでいるが、どこから見ても何かを企んでいる風にしか見えない。
椛は今日一番の不安を感じていた。
「三人も頭の良い人の協力が得られたんですから、それで良いじゃないですか」
「確かにこれで知識面の問題はカバーできたわ。でもね、一番重要な問題がまだ残っているのよ」
「重要な問題って何ですか。ていうか話をするなら、とりあえず自由にしてください〜。落ちそうで怖いんですよ〜」
「そう、それよ!」
ビシッと指を指してくる文だが、椛には何のことかさっぱり分からない。
すっかり怯えてしまった椛に、文は勿体ぶった動作を交えながらその問題点とやらを話し始めた。
「恐怖、動揺。それこそが今のあなたの最大の弱点なのよ!」
「うぅ、そうなんですかぁ?」
「勝負において、技術や知識よりも大事なのが精神。集中力だって、平常心と冷静さがあってこそ活かせるもの。弾幕ごっこにおいても、将棋においても同様のことが言えるわ。今のあなたは、自分自身で全ての能力を殺しているのよ」
「はぅ、言いたいことはよっく分かります。でもどうしてそれとこれが関係あるんですか〜」
無論それというのは今の文の話、これというのは椛が置かれている現状を指す。
すると文はさらに優しげな笑みを浮かべて、椛へと顔を近づけた。
吐息が鼻先をくすぐり、こんな状況でなかったなら顔を真っ赤に染めてどぎまぎしてしまうだろう。
だが今は別の意味で心臓が脈打っている。
「その弱くなってしまった精神を鍛えるには、古典的と言われようとやはり滝修行しかあり得ないわ」
「えっと、滝修行ってあの滝に打たれて精神を鍛えるってアレですよね」
「その通りよ」
「なら滝が落ちる所にいないといけないのでは?」
今居るここは滝の上。
否応にも不安は高まり、そしてその不安が現実のものとならないよう、椛は必死に回りくどく言葉を選びながら、文を説得しようと試みる。
しかし、文はにこにこと恐ろしい笑みを湛えたまま椛の言葉に聞く耳を持たない。
「大丈夫。すぐに滝の下まで行くから」
「それってまさか……」
「ここから飛び降りるくらいの度胸も身につけないと。勝負しは冷静に、時に度胸で攻めるものよ。……と、いうことで」
えぃやっ、と。
文の眩しいばかりの御足が弧を描き、椛の簀巻きにされた体は崖の上から空中へと放り出された。
悲鳴も全て轟々と流れ落ちる滝の音に掻き消され、白い水飛沫の立ちこめる滝壺目掛けて落下した椛の姿はすぐに見えなくなってしまう。
普通に風に乗って降り立った文は、先に下に着いているであろう椛を探すことにした。
しかし彼女の姿はどこにも見あたらない。
「椛ーっ」
「な、なんですか……げほっ、ごほっ」
「あぁ、こんな所に居たの。……なんだか随分苦しそうね」
名を呼んだ瞬間、突然川底から顔を出した椛に、文は驚く様子もなく淡々と告げる。
災難なのは椛の方だ。
別に滝壺に落とされたくらいで死にはしない。死ぬほど怖い思いをしただけだ。
だが簀巻きにされた状態で放り出されたら、いくら天狗でも溺れて当然である。
なんとかもがきにもがいて脱出に成功した椛は、こうして川岸までたどり着けたというわけだ。
「無事で何より。それじゃあ次は早速滝修行パート2開始よっ」
「ちょ、ちょっと休ませてくださいよ〜」
「何を言っているの。明日からはこの修行をしてから、日替わりで各先生の所で優勝するための特訓をするのよ。今日の分はさっさと終わらせて体力を回復させないと」
「うぅ、わかりました。それにしてもどうして文様はそこまでしてくれるんですか」
同じ天狗族の恥にならないようにするだけなら、何も優勝まで目指さなくてもいい気がする。
負け癖さえ直せれば良いのだし、何もここまで優勝に拘る必要はないだろう。
それとも文には椛の知らない考えをまだもっているのだろうか。
「そんなの決まっているじゃない」
「何か重要な理由があるんですね」
「棋界の新星、犬走椛の挫折から栄光までの道のりを追う!」
「はい?」
「だから、あなたが優勝した後に発行する号外の特集の見出しに決まっているじゃない。こんなおいしそうなネタを誰かに渡してなるもんですか」
そう言えば最近文は部数が伸び悩んでいると言っていた。
成る程、自分のためでもあったから、こんなに意欲を燃やしているのか。
文らしい考え方に乾いた笑いを浮かべながら、椛はもう優勝するまで逃げられないことを悟った。
しかし動機がどうであれ、文が自分のためにここまでのお膳立てをしてくれたのも事実である。
この機会を自ら棒に振るようでは、一生負け犬と言われても仕方がない。
自分にだって白狼天狗としての矜恃があると、決意を固めたのはつい数刻前の話ではなかったのか。
色んな事があってその決意も揺れてしまっていたが、迷ってはいけないのだ。
「わかりました。不肖、白狼天狗が犬走椛、次の大会にて必ずや優勝の二文字を勝ち取ることを、この剣に掛けて約束いたします!」
自身の矜恃の形その物である剣と盾を大地に突き刺し、椛は凛とした声で誓いの言葉を文に、何より自身に向けて言い放った。
こうして椛の負け犬脱却を目的とした、大会での優勝を目指す特訓が始まったのである。
「だからどうしてそこで守るの? 攻めることが守りよりも最善という機会はかなり多いのよ。下手な逃げの一手は相手につけ込まれる隙を与えかねないわ。ただし、だからといって闇雲に攻めても駄目よ。その場の戦況を的確に判断して、攻めるべきか守るべきかを決定……できるようになればいいんだけど、あなたの犬頭じゃ相当時間が掛かるわね。どう? これを飲めば特訓よりも確実に優勝できるわよ」
永琳に怪しい薬を飲まされそうになったり――――
「と、まあここまでが天狗や河童に将棋の文化が伝わるまでの歴史だ。ここからまずはそれぞれの種族内で独自の戦略が作り上げられていくわけだが……ん? こらぁっ! さっきからやけに静かだと思っていたら居眠りしていたのかっ。よし、目が覚めるとっておきの技をお見舞いしてやろう。何? もう目が覚めたから遠慮する? いや、完全に目が覚めないとまたすぐに寝てしまうだろうからな。ほら、額を出して歯を食いしばれ」
慧音から頭突きを食らったり――――
「悩む割には最悪の一手ばかり指してない? ほら、もうチェックメイトよ。え、東洋チェスじゃ「おうて」って言う? 別にそんなことどうだって良いじゃない。口数が多いと負け犬の遠吠えにしか聞こえないわよ。あら、どうしたの四つん這いになって項垂れて。私は犬になれとまでは言ってない。でもその格好はまさしく負け犬ね。犬度で言うと87点」
パチュリーの毒舌に落ち込まされ――――
「はいっ、今日も元気に飛び込んで! その後一時間は滝に打たれての精神修行よ」
文に蹴飛ばされて滝壺に落ちるという日々を繰り返す椛。
それでも椛は挫けることなく、全ての特訓を一日も休むことなくやり遂げた。
どれだけ苦しく辛く落ち込みそうになったとしても、剣に誓った矜恃の決意が椛をどんな過酷な特訓にも耐えさせたのである。
そしてその成果は確実に日を追うごとに現れていた。
しかし同時に、その特訓に耐えるべく変わっていったものがあったのだが、本人は気がつくことはなかった。
椛の眼下に広がる大蛇の口が如き滝壺。
初めて文に蹴落とされた時は、恐怖と混乱で頭がどうにかなってしまいそうだったが、特訓を繰り返してきた椛の精神に、その時のような乱れはない。
静かに精神を統一させ、自身の心が水鏡のようにシンと凪ぐのを感じていく。
周りの音が消え、ただあるのは己と世界の気配だけ。
そして椛は何も迷うことなく、落下地点の見えない滝壺へ身を躍らせた。
飛沫をその身に受けながら、瞬きもせずに水面が近づくのを見据える。
真っ直ぐに一筋の軌跡を描きながら、椛の身体は白い霧の中に静かに消えた。
しばらくとすると、水中から何事もなかったかのように現れ、そのまま滝に打たれる修行を始める椛。
秋を司る神様姉妹のテンションもだだ下がりになる一方のこの時期、滝の水は刃のように鋭く肌を刺す。
冷たいという感覚すら無くなり、それらは全て痛みとして肉体的にも精神的にも、その者を追い詰めていくのだ。
しかしその痛みすら超越した平常心を持ってすれば、心頭滅却すれば火もまた涼しの精神が如く、滝の冷たい痛みにも耐えることができる。
滝修行とはその平常心、つまり無我の境地に至るための修行と言えるだろう。
そして今の椛の精神は、確実にその境地に近づきつつある。
「椛ちゃん、久しぶり。やっぱりここだったんだね」
「にとりさん」
河原で火をおこし、服を乾かす椛の所へ、あの勝負の時以来会う機会の無かったにとりがやって来た。
文に椛の特訓の話を聞き、ここへやって来たのだという。
その手には将棋盤と駒入れを持っており、それと友人の顔を交互に見やる椛に、にとりはにっこりと微笑んだ。
「なんか雰囲気変わったね」
「そうですか?」
「うんうん、特訓の成果は充分に出てるみたいで、ホッとしたよ」
パチ、パチと火が爆ぜる音と駒が盤を叩く音が小気味よいリズムを刻む中、二人は久方ぶりに語らい合う。
だが椛の雰囲気がずいぶん変わったことを、にとりは密かに感じていた。
あまり笑わず、口数も少なく、意識の大半は目の前の勝負に向けられている。
それでもにとりはそれを特訓の成果と喜び、椛と将棋を指すこの時間を楽しむことにした。
そして勝負も終盤に差し掛かった頃、にとりは椛にこんな質問を投げかけた。
「大会は明日に迫ったけど、どう? 優勝への手応えは」
自分の心配をしてくれているにとりのその問いに、椛は言葉で答えはしなかった。
何も言わず立ち上がると、にとりに背を向けて立ち去ろうとする。
そして去り際に、たった一言だけ告げてその場を後にした。
「王手、か。どうやら優勝以外は眼中に無いって感じだね」
にとりは椛が背を向けたまま呟いた一言を繰り返し、少し寂しげに微笑む。
椛が悩みを解決するならそれで良い。
今はそのことだけに集中してくれた方が上手くいくはずだ。
それに、その悩みが完全に解決したら、きっとまた――――
翌日、大会の行われる守矢神社には大勢の天狗や河童、それ以外にも暇を持て余す神様などが訪れ、秋祭りも終わった時期であるにも関わらず、賑わいの喧騒で包まれていた。
久方ぶりの大きな大会ということもあって、どの参加者も気合い充分といった様子でエントリーを済ませていく。
将棋においては上司も部下という身分も、天狗や河童という種族も関係ない。
あるのはただ実力のみ。
そして受付が締め切られ、参加者達は会場の中央に集められた。
さらにその中心に建てられた櫓の上、特徴的な帽子を被った少女が現れる。
手には拡声器を持ち、得意げな表情で足下に集まった棋士達を見下ろしながら、開会宣言を始めた。
『えー、私が今大会の主催者の洩矢諏訪子です。これから厳しい冬がやってくると思うけど、そんな寒さも遅らせるくらいの熱い戦いを期待してるからねっ。将棋は私も大好きだから、どんな戦いが繰り広げられるか、今からとても楽しみだよ。それじゃあ次は大会のルール説明するから、よぉく聞くようにっ』
軽いノリで進める諏訪子だが、見上げる棋士達の顔はどれも真剣そのもの。
諏訪子がどんな理由でこの大会を行うにしても、この大会がとても大きなものであることは事実であり、この大会で優勝するということは妖怪棋界における栄光を勝ち取るということなのだ。
暇潰しの手段に過ぎない遊技でも、矜恃が掛かればそれは真剣勝負となる。
妖怪は特に心の強さを重視する種族だ。特に将棋のような頭脳戦では心の強さが試される。
故に棋界における実力は、彼らのステータスとしてとても高い位置を占めていると言っても過言ではない。
『いつもみんなは大将棋をやってると思うけど、それだと時間が掛かりすぎるからね。予選トーナメントは人間サイズでやってもらうよ。参加者は……えーっと六十四人か。四ブロックに分けて、各ブロックの上位二名が本戦進出。本戦はすべて大将棋で勝負するのでそのつもりで。そして優勝の栄光を勝ち取った者には、天狗族、河童族それぞれから寄付してもらった、山の幸河の幸てんこ盛りを副賞としてプレゼントっ。まぁみんなにとって、何よりの賞品は優勝そのものなんだろうけど』
試合形式、ルール説明、諸注意などの話が終わり、あとは各ブロックに別れて初戦を始めるだけだ。
しかし、諏訪子が『ちょっと待った』と慌てた様子で言い忘れたことがあると皆を制止した。
『あー……特に重要なことでもないんだけどね。この大会にはスペシャルゲストも参加している事を予め伝えておくわ。試合で当たった人はよろしく。それでは、長々と話してきたけど、これより、第一回洩矢諏訪子杯、妖怪の山将棋大会の開催をここに宣言します!』
観客席が盛り上がる中、棋士達はそれぞれのコロシアムとなるブロックへと向かっていく。
ここから先は参加する騎士だけが立ち入ることのできる場だ。
観客達はそれぞれの試合結果をトーナメント表で確認するしかない。
それでも熱気が異様に高まっているのは、勿論彼らは彼らでトトカルチョに興じるという目的があるためだ。
これはこれで、もう一つの戦いなのである。
そんな中、椛も自身の試合が待つ東ブロック『青龍』へと向かった。
守矢神社を中心に、それぞれ四聖獣の名を冠した特設会場が東西南北に設けられている。
北は玄武、南は朱雀、西は白虎――そして椛の居る、ここ東の青龍。
各会場で決勝まで残った二名のみが本戦会場である『黄龍』へと行くことができるのだ。
仰々しいネーミングかもしれないが、この大会がそれだけ格の高いものであることを考えれば頷けるだろう。
「おや、お嬢ちゃん。もしかして俺の相手はあんたかい」
椛が割り振られた席で対局相手を待っていると、そこに大柄な鼻高天狗がやって来た。
自分の腕に余程の自信があるのか、不敵な表情で椛を見下ろしている。
元より高い鼻をさらに高く見せるため、顎を突き出しこちらを見下すような視線を送っているのは、傲慢な性格が露骨に窺える。
威圧感だけは無駄にでかく、並の人間なら恐怖の余り脱兎の如く逃げ出すことだろう。
だがそんな相手を目の前にしても、椛の表情が揺らぐことはない。
「よろしくお願いします」
「なんだ無愛想なお嬢ちゃんだな。緊張でもしているのか? だったら中々可愛いじゃないか」
下卑た笑いを浮かべる男だが、彼の言ったことは見当違いも甚だしい。
今の椛に緊張など微塵も無いのだ。
初戦で負けるなど、優勝のみを目指す今の彼女にとっては前戯にもならない。
『それではこれより、東ブロック第一戦を開始します。合図の鈴が鳴ると同時に各々一斉に始めて下さい』
場内にアナウンスが流れ、間もなくして合図の鈴の音が響き渡った。
「「お願いします」」
会場のあちこちで一礼の声が上がり、それぞれの戦いが幕を上げる。
椛達の戦いもつつがなく始められた。
相手の勢いのある指し方が、パチィンッとこちらを威嚇するように音を立てるが、椛は淡々と差し返す。
ビクつきもせず冷静に指す椛の表情をチラリチラリと覗き見ながら、相手の天狗は口の端を上げる。
その静かな表情が悩んで歪む様を想像しているのだろう。
しかしその表情は、開始して早々十分も経たないうちに彼自身が浮かべる羽目になる。
(おい、そこで金将かよ。どう考えても桂馬だろうがっ。どうしてそんな手が躊躇無く指せるんだよ)
一手また一手と指し進める毎に、追い詰められていく鼻高天狗。
椛の鋭い攻め手に対処が出来ないのだ。
守りの型かと思いきや、いつの間にか攻めに転じている。
その奇襲に翻弄され続け、結局彼が「参りました」の一言を苦々しげに呟くしかなかった。
「ありがとうございました」
あれだけ自信に満ちていた鼻高天狗の顔が、汗にまみれた苦渋の表情に変わっている。
高々と上に向けていた自慢の鼻も下を向けられ、彼は無様な負け姿を見られないようにしている。
椛はそんな相手に何の感情も示すことなく、自身の勝利を集計係に報告するため席を立った。
その間も相手の天狗は「そんなバカな」をひたすらに繰り返している。
しかし相手が白狼天狗の少女というだけで力量を決めつけていた時点で、彼の負けは決まっていたのだ。
彼女の雰囲気から何も感じ取れないような相手では、本当に前戯にもならなかったようである。
その後も椛は順当に勝ち星をあげ、軽く予選を突破した。
だがあくまでもこれは予選でしかない。
予選も最後になれば、それなりの強者とあたりもしたが、それでも勝てない相手ではなかった。
他の参加者の話が聞こえてきた限りでは、優勝候補の多くは他のブロックに集中しているとのことだ。
予選でどれだけ勝てたとしても、本戦で同じように考えていては一回戦で負けてしまうのは目に見えている。
椛は勝って兜の緒を締めるように、腰に携えた剣を抜いて一月前に掲げた誓いを思い出していた。
文もきっと観客席で自分の活躍を見守ってくれていることだろう。
また、その動機はそれぞれ違っても、協力してくれた三人の知識人への恩返しとしても、その三人の名に恥じない戦いをしようと、さらに決意を深める椛。
一方その頃、その椛をここまで鍛え上げた張本人である文はと言うと――
「はいはいっ、各ブロックの予選が終了したよ。これで残すは本戦だけ! 本戦の掛け金は倍になるよ。さぁ張った張った!」
「よし、俺は朱雀の大天狗に二口掛けるぞ」
「そんならこっちは白虎の河童に五口だ!」
各地で異なるレートを見ながら、賭けに興じる妖怪達。
文の姿もそこにあった。
しかし彼女自身は一切賭けはしていない。
彼女の目的は各賭場での下馬評の視察だ。
「ほうほう。優勝候補の評価はやはり手堅いようですね。それに比べて……無名の白狼天狗、しかも優勝候補の居なかった東ブロックからの本戦出場者では中々手厳しいか」
幾つか回ってみたが、やはり椛の評判が高い所はない。
彼女の勝負を目の当たりにすれば、もう少し評価もされそうなものだが、如何せん将棋の勝負にギャラリーは不要。
勝敗の結果しか知ることのできないこの状況下では仕方のないことだ。
しかし妖怪によっては、椛の存在をダークホースだと中々鋭い見方をする者もいる。
「ふむ、やはりここは本戦で結果を残さないことには、あの子をネタに号外を出すのは難しいか……。でもまぁ特訓の仕上がりは上々だし、なんだかんだであの子自身もやる気を出しているし、これはひょっとするとひょっとするかも」
文は早速文花帖を取り出すと、大会後すぐに号外作成に取り掛かれるようにとペンを走らせる。
まずは各ブロックからの本戦出場者をチェックして、椛の対戦者の情報も集めなくてはならない。
優勝候補と言っても知っているのは名前くらいだ。
それに天狗族ならまだしも、河童族の棋士のことなど知るはずもない。
「さてさて、後は玄武からの本戦出場者だけですけど……いったい誰が上がってくるんでしょうかね」
本戦用のトーナメントの前にやって来て、空いている残る二つの枠を眺める文。
時間が掛かっているのか、北ブロック会場『玄武』からの出場決定した二人の名前はまだ貼られていない。
そこへ係員の山伏天狗が結果の速報を持って飛んできた。どうやらようやく全ての本戦出場者が出揃ったらしい。
早速その名前を確認する文。しかしその途端、驚愕の色を浮かべる。
「まさか……これがスペシャルゲストの正体ですか」
しかしこのことを椛に伝えることはできない。
歯がゆさを我慢しながら、文はただトーナメント表の前で険しい視線を向けることしかできずにいた。
『さて、これで決勝トーナメントの八名が出揃ったわ。どこの勝負もなかなか熱かったようね。だけど本当に熱いのはこれからよ! 一戦一戦が長い大将棋で行われる決勝戦。さぁ、誰が優勝するのか楽しみだわ。私も参加したら良かったかしら。それじゃあ、こうして話している間も惜しいし、さっそく一回戦を始めてもらいましょうかっ』
諏訪子の熱弁の後、ここからは各勝負それぞれ個別の部屋で試合が行われる。
それ以外にも、審判と時計係が入ることや大将棋に変わること等、変化は中々に大きい。
自分たちの試合に注目する者が増え、長丁場の勝負、隔離された個室という緊張を誘発する要素がさらに増えるのだ。
これは予選以上に色んな意味で厳しくなるだろう。
「えーっと、犬走椛さんですね。こちらへどうぞ」
「失礼します」
係に連れられて、椛は一回戦の相手が待つ部屋へと足を踏み入れた。
すでに自分の席に座り椛の到着を待っていたのは大柄な河童族、しかも優勝候補と謳われる棋士の一人であった。
彼は椛の入室を横目で確認するも、すぐに目を瞑り試合前の瞑想に戻る。
そのただならぬ様子からも、彼が予選で戦ってきた他の棋士とは一線を画す相手であることが窺える。
だが椛もその無言の圧力に怯むことなく、自身の席に腰を下ろした。
「それでは両者揃ったようですので、本戦一回戦を始めたいと思います。準備はよろしいですか?」
「はい」
「あぁ」
二人が頷くのを確認し、審判は時計係に視線で合図を送る。
時計係の準備も完了したことを確認すると、恭しく礼をして開始の言葉を告げた。
「それでは――始めてください」
先手は椛。予選同様、勢いをつけることもなく静かに駒を動かす。
ただそれだけの行為だが、そこに椛の全精力が込められている。
その静かな闘志を秘めた一手を見て、相手の河童は少しだけ肩眉を上げた。
(ほぅ、中々良い気迫だ。静かな中にも闘志が見えてくる。こんな棋士がまだ眠っていたとはな)
白狼天狗と言えば山の哨戒・警備を担当とする天狗で、その間の暇潰し程度にしか将棋を指していない者が殆どだ。
実力のある棋士の殆どは上級職に就く大天狗で、まさか決勝に白狼天狗が残るとは正直彼は考えていなかった。
だがこの世界は実力が全て。ここにいるということは、それだけのものを持っているからに他ならない。
それに今の一手を見るだけで、彼女がただものではないと彼は悟る。
(だが私にも河童族の棋士としてのプライドがある。決勝で会うと約束した奴との決着を果たすためにも、全力で勝たせてもらうぞ)
こちらも静かな闘志を瞳に宿しながら、序盤は互いに定石通りに展開を運んでいく。
まずはそれぞれ守りながら、じりじりと牽制の手を指しつつ、相手の隙が生まれるのを見逃さない。
河童族の棋士は優勝候補と謳われるだけあって、牽制の手を指すタイミングも絶妙だ。
だが椛にも永琳に戦略を見極める頭の使い方を叩き込まれている。
牽制をうまくあしらいながら、絶妙のタイミングで攻め手を仕掛ける。
(なるほど。さきほど感じた気迫に見合う良い腕だ。熱すぎず、それでいて攻め所はきちんと理解している)
戦いの最中、目の前の勝負以外に意識を向けるのは隙を生じるのでは、とも思えるが、彼はこうして相手の戦い方を分析し、これから先の展開を読む戦術を得意としている。
道具作りを得意とする河童族の、設計的な頭の使い方を特化させたものだ。
事前に相手の得意とする戦術を知らずとも、これならば戦いを進めていく内に対応できるため、どんな相手でもオールマイティに戦える。
実際、椛の攻め手は尽く読まれ、はったりの手さえも見抜かれてしまっていた。
(冷静であるが故に次の手は読みやすい。たまに僅かな隙を突く奇襲はなかなかだが、これは俄仕込みのようだ。次に戦うまでに腕を伸ばせば良い勝負にもなるだろうが、今回は私に分があるな。だが少しでも気を抜けば、すぐに場の流れを持って行かれてしまう。完全に詰みに入るまでは油断は出来ない……)
次第にそれぞれ次の一手を指すのに時間が掛かり始めるも、どちらも十秒以上の時間を割くことはない。
一進一退の攻防を繰り広げる二人の勝負は、すでに三時間を突破しようとしていた。
それでもどちらも汗一滴すら垂らすことなく、盤面の戦いに集中している。
これだけ長い時間、集中力を切らさずに戦えるのは、それだけ大将棋での戦いに慣れているか、精神的に強いかのどちらかだ。
だがまったく変化が起きていないわけではない。
相手の棋士は最初こそ椛の指し方に感心していたが、次第にその静かすぎる指し方に、得も言われぬ恐怖を感じ始めていた。
感情のない、ただ勝利のみを一心に目指す指し方を、果たして何人がここまで純粋にできるだろうか。
ただ生きるために生きる、極寒の地に暮らす一匹狼。
そう、この冷たい指し方は血に飢えた狼そのものではないか。
刹那、彼は確かに見た。
椛の背後、隙あらばこちらの喉笛を食い千切らんと眼光を光らせる白い狼の姿を。
その眼光を直視した者は、刃物を突き付けられたように動くことを許されない。
少しでも動けばその刃が体を貫き、動かずにいればいずれ鋭いキバの餌食になる。
それから程なくして、自らの行方を悟った河童族の棋士の降参によって勝敗は決した。
この日の大会はここまでとなり、この後に続く準決勝以降の戦いは明日に持ち越される運びとなった。
大将棋は一回戦を終えるのに最低でも数時間は掛かるのだから仕方がない。
今日は午前中に予選、午後に本戦一回戦が行われ、ベスト4が決まったことになる。
優勝候補の一人を打ち負かし、その内の一人に残ったのだ。
椛の評判は、日が傾く頃にはすっかり鰻登りとなっていた。
これはますます優勝したときの反響が期待できると、文もほくそ笑んでいたのだが、明日の準決勝で椛とあたる相手のことを思い出し、その笑みはすぐに消えた。
同時に、これで椛に相手のことを伝えられるチャンスができたことに気がつき、慌てた様子で椛の姿を探すため、夕焼け色の空へと飛び上がる。
しかし上空からでは、これだけ大勢の妖怪が居る中では探せやしない。
帰る者よりも残って宴会を始める者の方が多いので、数は一向に減らないのだ。
「うーん……あの子の事だから自分で確認してるとも思うんだけど」
それでもやはり気になる。
せっかく良い感じに評判も上がっているのだし、ここで無様な負け犬姿を晒してしまえば、あの真面目な性格の椛のことだ。二度と立ち直れないかもしれない。
やはりここは万全を期すためにも、椛を見つけて話をする必然性が高くなってきた。
完全に日が沈む前に、なんとしても椛を見つけなくては。
そんな焦る文の目に、椛ではないがある者の姿が映る。
椛の居場所を知っているかもしれないその者を、見失わないように文はすぐさま近づいた。
「にとりさぁ〜んっ」
「おや、文さん。そんなに慌ててどうしたんです?」
「椛を探してるんですが、どこにいるか知りませんか?」
「椛ちゃんですか? さぁ、私は見てないですけど。何かあったので?」
にとりは明日の椛の相手を知らなかったらしく、文が事情を話すと些か驚いた顔を見せた。
だが文が思っていたよりは、リアクションが薄い。
その理由を尋ねると、にとりは頬を掻きながら苦笑いを浮かべてこう答えた。
「それなら別に心配はいらないかと。椛ちゃん、あれはあれで心が強い子だし。例え明日負けても、今の椛ちゃんならすぐに立ち直りますって」
「まぁあの特訓にも耐えたくらいですから。でも、相手が悪いのは事実でしょう」
「それでも大丈夫だと私は信じてますよ」
そう言って照れた様子で、またどこか憂いを帯びて笑うにとり。
しかし文が心配しているのは、それとはまた別の所にある。
椛には是非とも勝ってもらって、文々。新聞の部数を増やすという重大な目的を大成してもらわなければ。
だが文は結局、この日椛の姿を捕らえることはできなかった。
翌朝、椛の家の前に文はやって来ていた。
昨夜は捕まえられなかったが、せめて対局前に相手のことを伝えておけば、気構えの一つもできるだろうと、朝焼けの登る前からここで張り込んでいたのだ。
何時戻ってくるか分からない帰りを待つより、朝出掛ける時を狙った方が確実。
そう考えて朝を狙ったのだが、どうやらその考えは当たりだったらしい。
身支度を済ませて、最後の戦いへと赴くべく家を出てきた椛。
その顔には昨日よりもいっそう険しい表情が浮かんでいる。
しかし、別段緊張している様子はない。準決勝ということで、気を引き締めているのだろうと文は考えた。
「おはようっ」
そんな椛の下へ、文は今やってきたと言わんばかりに元気な挨拶をしてみせる。
その声に椛も文の存在に気がつき、振り向いた。
「おはようございます、文様。もしかして迎えに来てくれたんですか?」
「あー、えーっと、まぁそんなところよ」
「それじゃあ早速会場に向かいましょうか」
「そ、そうね」
ふわりと飛び上がり、山頂の守矢神社を目指し飛ぶ二人。
しかし到着する前に、どうしても伝えておかなければならないことが文にはある。
「あの……椛?」
「なんですか?」
「あなた、今日の準決勝であたる相手のことを知ってる?」
これだけ落ち着いているのは、多分今日の相手のことを知らないからだ。
そう考えた文は、せめて椛がショックを受けないように話そうと言葉を選ぶ。
だが――
「えぇ、知ってますよ。洩矢様が言っておられたスペシャルゲスト、博麗霊夢が今日の私の相手、ですよね」
「あなた、知っていたの?」
そう、諏訪子が言っていたスペシャルゲストであり、準決勝で椛と対局する相手とは、他ならぬ椛の負け癖の原因となった、あの博麗霊夢であった。
どのような経緯で彼女がこの大会に出ることになったかはわからない。
だがそんなことは今はどうでも良い。
問題なのは、彼女の相手を椛がしなくてはならないということだ。
いくら特訓をしたとしても、一度手酷く負けた相手と戦うというのは、なかなか精神的にもきついものがある。
だからこそ文はこの情報をできるだけ早く椛に伝えて、少しでも気構えを持って戦えるようにと考えていたのだが。
「文様は、もしかしてそれを伝えるために朝早くから来てくれていたんですか?」
「気付いてたの!?」
「私は警備担当の白狼天狗ですよ。それに文様の臭いならすぐに分かります」
「そ、その言い方はなんか微妙ね」
しかし椛の口調はどこにもおかしいところはない。
あれらの特訓に耐えきった彼女の精神は、トラウマをもはね除けるほど強くなっていたのだ。
「私、必ず優勝しますから」
会場に着いた瞬間、椛は突然そんなことを呟いた。
何かを尋ねたわけでもないのだが、彼女は自身の決意を露わにする。
「私は誓いました。文様に、自分自身に。だから、絶対に優勝します」
この子はこんなにも強いことを言える性格だっただろうか。
文は思わず、そんなことを考えてしまっていた。
勝たせるために特訓をしたが、こんな性格が変わってしまうほどに、彼女の決意は固かったのか。
「椛……」
「それでは行って参ります。待っていてくださいね、絶対に勝って戻ってきますから」
走り去るその後ろ姿を見つめながら、文は自分が自身のことし考えていなかったことを、改めて考えていた。
部数を伸ばすため、無謀とも言える特訓をさせたのは自分だ。
勿論椛の負け癖を解消するのが当初の目的であるが、それを己の目的のために手段として利用した。
その結果、彼女は勝ちに拘りすぎて以前のように笑わなくなってしまっている。
「それでも、ここまで来たら勝つしかないわ。あなたは自分のために勝ちなさい、椛」
文はすでに見えなくなった後もそこに立ち尽くしたまま、椛が走り去った先に視線を送り続けていた。
『さてさてさて! 諏訪子杯、妖怪の山将棋大会もいよいよ準決勝! 対局を始める前に、ここまで勝ち残った四人を紹介するよ。朱雀から勝ち昇ってきた今大会の大本命、大天狗の山颪才蔵! 続いて同じく朱雀から勝ち昇ったこちらも優勝候補、河童族の浅葱河なぎ! そして青龍からはダークホース、白狼天狗の犬走椛! 最後の一人は玄武から、スペシャルゲストとして充分な戦績で勝ち残った博麗霊夢! この四人の中から、優勝が決まるからねっ! さぁ、もうみんな早く始めて欲しくてうずうずしてるみたいだし、さっさと始めるわよ!』
諏訪子のノリノリな進行に、二日目の朝だというのにどいつもこいつも熱に浮かされた様子で歓声を上げる。
大半が前日から飲み続けているので、まぁ当然のテンションであると言えば当然なのだが。
そんな浮かれた外野とは裏腹に、残すところ二試合となった棋士達は神妙な面持ちで、対局の時を待っていた。
案内の係が来るまでは、棋士控え室で待つように指示されている四人。
その中で、椛は対局相手である霊夢と話をしていた。
「まさか……あなたとこんな形で再び会うなんて、思っていませんでした」
「私もよ。あの時とは雰囲気が随分変わったわね。真面目そうなのは相変わらずだけど」
「今日はあの時のようにはいきません」
「私だって負けられないわ。なんてったって、この大会で優勝すれば年末の食料の買い置きをしなくて済むんだもの。諏訪子に無理言って出させてもらったからには、絶対に勝って帰るわ」
何故妖怪棋士の誇りと誇りがぶつかる大会に、霊夢のような人間が参加しているのか疑問だった椛だが、その理由を聞いて納得する。
しかし、こう言ってはなんだがそんな動機だけで参加して、よく互いの誇りを賭けて戦う他の参加者に勝てたものだ。
つまりそれは決意が無くても勝てるほどの実力を、彼女が有していること意味している。
飄々としている相手だが、今まで以上に本気で掛からなければ、優勝もリベンジマッチも成し得ない。
「どうしたの。なんだか初めて会ったときよりも、ずっと怖い顔になったわね」
「怖い? 私がですか」
予想外の言葉に椛は首を傾げる。
確かに感情の起伏を殺すようにはしていたが、至って清ました顔をしているとばかり思っていた。
ずっとそう思っていたから気付かなかったが、まさかそんな顔でにとりや文とも話をしていたのだろうか。
そうだとしたら何て対応をしてしまったのだろう。だがそれも優勝を目指していたからこそのこと。
まずは優勝し、謝るのはその後だ。負けてしまっては謝るどころの話ではない。
「私は負けられないんです。私のために、色んな人が力を貸してくれました。その人達のためにも、自分のためにも負けたくないんです」
自身の決意と責任を言葉に換えて告げる椛に、霊夢はやれやれと溜息を吐きながら言葉を返す。
「あんたがどう思っていてもどうでもいいけどね。でも、せっかくやるならどっちも楽しい方が良いじゃない」
「楽しいって……この大会はそういうものじゃないですよ」
「誰がそんなこと決めたのよ。諏訪子はあんなノリだし」
何でこの人はこんなに奔放なのだろうと、椛は博麗霊夢を感じていた。
何ものにも捕らわれず、自分のあるがままに動いている。
決意とか、誇りとか、そんなものとは無縁なのだろうか。
だったら見ている世界そのものが違うことになる。
「それにしても将棋なんて今までやったこともなかったけど、中々面白いわね」
「今までやったことなかったのに、ここまで勝ち上がれたんですか!?」
まさかの発言に思わず精神を取り乱してしまい、慌てて椛は平常心を保とうと呼吸を整える。
どれだけ相手が手強くてもこちらのペースを崩されることは無かったのに、この博麗霊夢という人間には冷静さを欠かされてばかりだ。
「勝負事にはとことん強いのよ。もちろん駒の動かし方とかは勉強したけどね」
「わ、私だって優勝するために、色んな方の力を借りて特訓したんです。だから絶対に負けられません!」
「……ねぇ、あんた。負けられない負けられないってさっきから言ってるけど、それは誰のために負けられないの?」
「え……?」
霊夢に聞かれ、椛は今一度自身がここまでやってきた目的を意識する。
負けられないのは自分のため、引いては自分を優勝が目指せるように鍛えてくれた人たちのため。
あれ? 元々は自分の負け癖を克服するのが目的ではなかっただろうか。
文は文で自分の目的を遂行するために、自分に協力してくれているだけだ。
もちろん文への感謝を忘れることはないが、彼女と別れる際に言われた言葉が思い返される。
『あなたは自分のために勝ちなさい、椛』
自分のため。
そうだ、ここにいる者は霊夢を含め、全員が自分のために戦っているのだ。
負けて一番悔しいのは誰だ。
特訓に付き合ってくれた知識人達か。
自分を奮い立たせてくれた文か。
違う。負け癖をいつまで経っても克服できない自分自身が、誰よりもこのままでいることを許せないのだ。
ならばいつまでも誰かのためと言い訳じみたことばかり言っているのではなく、誰でもない自分のために戦うべきではないだろうか。
「霊夢さん」
「何?」
椛に呼ばれ、霊夢は飲んでいたお茶を机に置きそちらを向く。
そこには先程と変わらず真剣な眼差しをこちらに向けてくる椛がいた。
椛は何か言いたげに口を開けたり閉めたりしている。
霊夢は椛が言葉を発するのを静かに待ち、しばらくして決心が着いたのか椛はその言葉を口にした。
「こっ、今度は私が勝たせてもらいますからねっ。覚悟しておいてください」
堂々とだが口元には笑みを浮かべて宣戦布告をする椛に、霊夢はしばらくぽかんとしていた。
それまでは負けられないとか、自分自身の責任や義務であるかのようにように言っていたのが、この言葉は違う。
霊夢と戦えることを楽しもうとしている、そんな雰囲気に溢れているのを霊夢も感じていた。
「少しは柔らかくなったわね。でもまぁ、勝ちを譲るほど私は優しくはないわよ」
「そんなことは百も承知ですよ」
そこへ準備が整ったことを伝えに、係の天狗がやってきた。
椛は霊夢との会話を経て、いっそうの決意を固めながらも、その心はどこか別の方向を向いていた。
それまでは日に背を向けていた花が、太陽の温かさに気がつきそちらに綺麗な顔を見せるように。
「王手っ」
「負けたぁ〜っ」
木枯らしに乗って渓谷に響き渡るのは、敗北に落胆する声。
翌る日の妖怪の山の一角で、少女が二人して将棋に興じている。
一人は白狼天狗の少女で、一人は河童族の少女。どちらも勝敗に関わらず笑顔を浮かべている。
「すっかり前の調子を取り戻せたみたいだね」
「はい、前よりも調子が良いぐらいです」
大会のような張り詰めた空気などここにはなく、遊戯として将棋を楽しんでいるのは椛とにとりの二人だ。
二人は以前と変わらない、将棋に興じる日々に戻っている。
あれだけ盛大に開かれた将棋大会も、今はもう数日前の話。
結局準決勝の椛対霊夢の対局は、椛の敗退という形で幕を閉じた。
それでも椛は霊夢相手になかなかの好勝負を披露し、準決勝に恥じない戦いを繰り広げた。
霊夢はそのまま優勝をもぎ取り、現在妖怪棋界は人間に頂点の座を持って行かれたことで大波乱の渦中にある。
すぐさま次回の大会の予定が検討され、次こそは妖怪の棋士が優勝を勝ち取ろうと、皆躍起になっているようだ。
ところで椛にとって今回の発端となった負け癖だが、霊夢と好勝負ができたことで、そのトラウマも解消されたようだ。
さらに準決勝で負けてしまったことも、勝ちに拘りすぎて硬くなっていた性格を戻す良い切っ掛けになっていた。
前後で霊夢とのわだかまりも解け、今はこうしてにとりと元の良い関係を続けている。
なんだかんだで、椛にとっては一番良い結果となったと言えるだろう。
ただそうなると、椛の優勝で部数向上を狙っていた文の思惑は崩れ去ったことになる。
その文はどうしているのか。
それについても実はさして問題は起こっていない。
「そういえば椛ちゃん。次の大会にも是非来てくれって言われてるんだっけ?」
「えぇ、ベスト4まで残った実力が評価されてるみたいで……」
困ったように笑う椛。
彼女は今や、妖怪棋界の期待の星として注目を浴びている。
優勝という大願こそ達成できなかったものの、その戦いぶりは誰からも認められ、おかげで文々。新聞の部数を上げるという目的も達せられていた。
勿論その為の礎となった三人の知識人とも、それぞれの約束を果たしている。
おかげで人里には行きづらくなったが、文のことだ。いずれうまいこと立ち回って、今まで通りネタを集める日々を送ることだろう。
その上――
「はいはいっ。今回の文々。新聞号外はあの棋界のルーキー、犬走椛の大特集よっ! 彼女のベスト4進出までの栄光の道を余すところ無く独占大公開! しかもサービスショットも満点ときたら、これを読まないとあなた達に明日はないわ!」
以前に椛が脱衣将棋に負けた時に撮った写真まで有効活用し、当初の予定よりもずっと多くの部数の向上を達していた。
当初の目的が達成されなくても、臨機応変に最善のネタに変えるのも敏腕記者として当然のこと――らしい、文曰く。
この事態に気がついた椛が、幻想郷中に散らばった自身の恥ずかしい写真に苦労するのは間もなくのこと。
烏天狗の新聞記者が許可など取っているはずもない。まして今回の標的は身内なのだ。
そして東奔西走する椛がまた何か起こせば、それは文花帖にネタとしてストックされる。
妖怪棋界の盛り上がりもあり、まだまだ椛の気苦労が絶えることはなさそうだ。
《おわり》
☆後書き☆
第五回東方SSこんぺ参加作品の一つ。
御題は『きかい』ということで、こちらは『棋界』で挑戦してみました。
将棋は文章で表すには難しいですし、私も駒の動かし方やちょっとした戦略しか知りません。
あまり調べる時間もなかったので、そこはノリと気合いで楽しんでもらえるように書いたつもりです。
前半と後半の間を、もう少し詳しく書いて椛の心境の変化が描ければもっと良かったんですが、
蛇足になるよりはスッパリ切ってテンポを良くしようとしています。
バッサリ切りすぎですか? 大いに反省しています。orz