秘密の日記帳


 上白沢慧音は呆れていた。


 迷いの竹林の方から、いつものように轟音が聞こえてきたから、心配してやって来た。
 いつものように聞こえてくる音の原因は、藤原妹紅と蓬莱山輝夜の二人が続ける殺し合いという名の遊戯。
 どちらも死なないから、本気で殺し合っていても、二人にとっては単なる遊びなのだ。
 慧音からすれば、あまり気持ちの良いことではないのだが、
 蓬莱人という宿命を背負う妹紅に、そのことを口出して咎めることは躊躇われてしまう。

 だからできることと言えば、妹紅を迎えに行って家まで送り届けることくらい。
 今日もそのつもりで迷いの竹林までやって来たのだが、すでに勝敗は決していた。
 どうやら今日は妹紅が勝ったらしい。
 それでも服のあちこちに、攻撃を受けたらしい後が残っている。

 当の妹紅本人は、大の字になって意識を失っていた。
 輝夜はたぶん永琳か鈴仙辺りが連れ戻したのだろう。近くのその姿は見あたらなかった。



 そして意識を失った妹紅を、彼女の自宅まで送ってきたのだが……。

「なんだこの有り様は……」

 慧音が見たのは、とても女の子の家とは思えないほどに散らかった室内。
 暇潰しの為に手に入れたのであろう書物は至る所で塔を作り、洗濯物も取り入れたままで放置されている。
 他にも日常的に使う道具は棚にしまわず、見えるところに置いてあるし。
 布団だって片付けずに敷いたままだ。

 妹紅は、言わせて貰えばそれほど女の子らしい立ち居振る舞いを好んではしない。
 しかし自炊や洗濯、裁縫などは人並みにできる。が、掃除だけは不得意だったりする。
 最低限居住できる空間さえ維持できれば、それほど困らないという考えらしい。
 それに死なないのだから片付けなんていつでもできる、と言い訳することもしばしばだ。

 それでは良くないと、口か酸っぱくなるほど言ってきたのに。

「その結果がこれか……」

 妹紅は人の言うことに反発するような性格ではない。
 だが別に言うことをハイハイきくような性格でもないのも確かだ。
 それでもこれはあり得ない。

「仕方がないな。今起こすのも可哀想だし……」

 自分が片付けていては、妹紅のためにはならないのだが、まあこれくらいはいいだろう。
 なんだかんだで甘いなぁ、と自身に苦笑を浮かべながら、慧音は静かに掃除を始めた。


 そうして片付け始めてから、しばらく経ったときである。
 慧音は散乱した書物の中に、一冊だけ表題はない物に眼を留めた。
 かなり古い本なら表題がないのもある。
 しかし側面から見る限り、この本は比較的新しいものだ。
 気になってパラパラと捲ってみる。

 そこに書かれていたもの。それはこんな内容だった。


『葉月の十日

 今日は久しぶりに里に顔を出してみた。やっぱり私のことを知っている人間は少ない。
 それでもみんな気さくに声を掛けてくれて嬉しかった。

 別に用事があった訳じゃないけど、慧音の寺子屋をこっそりと覗いてみた。
 みんな慧音のお仕置きがこわいのか、真面目に聞いていたな。
 中には居眠りしている奴もいて、頭突きを喰らっていたけど……。
 慧音の頭突きは容赦がないからなぁ。子供達に恐怖を植え付けるにはぴったりだ』


「こ、これは……日記?」

 どこからどう見ても、これはれっきとした日記。
 日々の出来事やその時の感情を、誰に見せるためでもなく綴ったもの。
 誰にも見せる為でもない故に、そこには本音が書かれていることが多い。

 慧音は良くないことだと、理性では理解しながらも、次の頁を捲る手を止められなかった。


『葉月の十四日

 今日、これから輝夜と殺し合う。
 この前は私が殺された。今日は絶対に私があいつを殺し返してやる。

 そう勇んでいると、慧音がお小言を言ってきた。
 別に私はいくら死んでも死なないのに。
 心配する気持ちは分かるけど、心配してもらうことでもない。

 そんなことを言ったら、また口うるさく言ってくるのは眼に見えている。
 だからいつものように聞いたフリをして、その場をやり過ごした』


「……妹紅、私の話はいつも中途半端に聞き流していたのか」

 確かにこの部屋の現状を見ていると、そうなのかもしれないという気持ちは否定できない。
 嫌な汗が顎を伝って喉へと垂れていく。
 唾を飲み込むと、その汗がぽたりと落ち、日記帳の上に跡を残した。

「慧音? 何やってんの」
「も、こう……」

 動揺していた慧音は、日記帳を持った手を隠すことなく振り返ってしまった。
 寝惚け眼を擦る妹紅の手が、慧音の姿を確認した刹那ぴたりと止まる。
 その両目がはっきりと光を灯し始め、妹紅は今の光景を明朗に確認した。
 途端に、表情に険しさと怒りが浮かび、素早く立ち上がると呆然としている慧音の手から日記を奪い取った。

「ばっ、何で慧音が私の日記を読んでるんだよ!」

 その言葉で慧音も我を取り戻す。
 確かに妹紅が怒るのはもっともだ。
 自分は友として、そんなことは関係なくやってはいけないことをしてしまったのだ。

 だが慧音にも怒る理由がある。
 そこに書かれていた、妹紅から見た自分の姿。
 それは今まで自分が接してきた想いとは裏腹の姿だった。

「妹紅、まずは日記を読んだことは謝る。偶然とはいえすまない」
「日記ってすぐにわかるじゃない! それをじっくり読むなんて!」
「……だが妹紅、おかげでお前の思っていることを知ることができた」
「慧音?」
「もう何も言わない。殺し合いも勝手にやってくれ」

 あぁなんでこんなことしか言えないんだ。
 言いたいのは、もっと他の事じゃないのか。
 でも上手く言葉が出てこないし、本当のことを言えばきっと言う前に泣いてしまう。
 今の状況では泣けない。泣いたら負けとかそういうのではない。
 ここで弱さを露呈するような行為をしてしまえば、それこそ妹紅と合わせる顔がない。
 慧音は言葉少なに「すまない」と告げると、妹紅の家を後にした。


  ☆


「慧音せんせぇ、読み終わったよ?」
「またぼーっとしてるー」

 子供達の声で、また自分が呆けていたことに気付かされる。
 その原因は勿論昨夜の出来事だ。
 おかげで一睡もできなかったし、まだそのことで頭がいっぱいになってしまっている。

「あ、あぁ、すまんな。どうにも今日は調子が悪いらしい」
「だいじょーぶ?」
「ん、大丈夫だ……と言いたいが、このままじゃ授業にならない。今日は午前で終わりにしよう」

 その言葉で室内はわっとなる。
 思わぬ形で遊ぶ時間ができたのだ。
 机に向かっているより、外で遊びたい盛りの子ども達には棚牡丹だ。

「その分、宿題は多めに出しておくからな。忘れるような不届き者には……わかってるな?」
「ぅえぇ〜っ!!」

 にっこりと微笑みながら、釘を刺すことも忘れない慧音。
 喜びに満ちていた子ども達は、一瞬で気怠そうな表情を浮かべて不平の声を漏らした。
 そんな無邪気で素直な反応に、慧音は思わず苦笑を漏らす。
 同時にこうも思っていた。

 自分もこれだけ素直になれれば良いのに、と。


  ☆


 その夜、慧音は珍しく人里を離れ、森の周辺を飛んでいた。
 何かを探すように、きょろきょろと首を動かし、眼下を眺める。
 すると暗闇広がる中に、そこにだけ赤と橙のぼんやりした灯りを発見。
 特に警戒することもなく、その灯りに近づいていく。

 その灯りの正体は、妖怪の経営する屋台。
 夜雀の怪、ミスティア・ローレライが自身の能力を活かして客寄せをしているものだ。
 赤提灯のぶら下がったのれんをくぐって、カウンターに座る。
 店主のミスティアは八目鰻を焼きながら、ご機嫌な様子で鼻歌を口ずさんでいた。
 しかし来客に気がつくと、景気の良い声で出迎えてくれる。

「らっしゃーい♪」
「今日はまだ誰も来てないんだな」
「そうよ〜♪ 今日はあなたが一番客……って、あんたはっ」

 慧音の姿を見たミスティアは、思わず飛び退く。
 なんとなく慧音は、ミスティアがそうした理由に察しが付き、弁明するように穏やかな声で話しかけた。

「いや、今日は客として来たんだ。別に悪さをしているわけじゃないのに、退治はしない」
「なぁんだ。びっくりしたなぁ」
「すまないな。確かに私は怖がられる存在なんだろうが……」
「まぁ客なら誰でも歓迎するけどね。でも、珍しいね、あんたが来るのなんて」

 ミスティアの何気ない問いに、慧音は少し顔を曇らせる。
 わざわざこの屋台を探してまでやって来たのは、里の居酒屋には行きたくなかったからだ。
 一人で静かに飲める場所。
 そこで白羽の矢を立てたのが、ミスティアの屋台だったというわけだ。

「とりあえず熱燗と蒲焼きを頼む」
「はいよ〜♪」

 ミスティアは特に慧音の翳りに気付くことなく、注文された品の用意に掛かる。
 こういう相手なら、気にせずやけ酒が飲めるから楽なのだ。

「やけ酒か……」

 別にやけになっているつもりはない。
 だが悩み事があって、飲みたいと思うのは、やはりこれはやけ酒なのだろう。
 自嘲の笑みを浮かべる慧音。

「らっしゃ〜い♪」
「あらら、今日は先客がいるみたいね」

 そこへのれんをくぐって、今日の二番客がやって来た。
 これでは静かに飲むことはできない。
 まあ仕方がないかと、慧音は席を左にずらす。

「どうも……あら珍しい」
「よりにもよって貴方か」

 どこか聞き覚えのある声だなぁと思っていたが、その二番目の客は慧音も良く知っている者だった。
 永遠亭の八意永琳。
 最近は人里にも姿を現すようになった、妹紅の宿敵の従者だ。
 静かに飲みたい慧音としては、あまり会いたい相手ではない。

「どういう風の吹き回しかしら。一人で人気のないこんな場所まで飲みに来るなんて」
「放っておいてくれないか。どうせ貴方のことだから、なんとなく察しは付いているんだろう」
「あらら随分な言われようね。せっかく飲みにきたお酒が不味くなるわ」
「私は元々不味い酒を飲みに来たんだ」
「うちのは不味くないよ」

 熱燗を出しながら、ミスティアが心外だという風に首を突っこんでくる。

「そういう意味じゃない。……まあ確かに飲むなら美味い酒の方が良いのは同感だ」
「そうそう。私もここに来るのは、多分貴方とよく似た理由だし。あ、私も熱燗で」
「はいよ〜♪」
「それで、具体的には何があったの? お姉さんに聞かせてみなさい」

 たしかに生きてきた年月は永琳の方が遙かに長い。
 だが今更お姉さんぶるのは、少々痛い気がする。

「今、痛いなこいつ、とか思ったでしょう」
「当然だ。見た目はとりあえず大丈夫だが、中身を考えるとそれはない」
「……真面目すぎるのも問題ね。人が折角相談に乗ってあげようって言うのに」

 さっきのは永琳なりのジョークだったのか。
 それは悪いことをしたと慧音は素直に頭を下げる。
 今日は何をやっても上手くいかないらしい。
 ただいつもの状態でも、頭の硬い慧音にジョークが通じたかどうかは定かではないが。

「人に話せば楽になるってね」
「そこまで言うなら聞いて貰っても良いか?」
「ようやく素直になり始めたわね。良いわよ、今日はとことん付き合ってあげるわ」

 慧音は徳利を傾け、永琳の猪口に酒を注ぐ。
 立つ湯気を見つめながら、徐に昨夜の出来事を話し始めた。




 全てを聞き終えると、永琳は残った酒をぐいっと一気に飲み干した。
 そして何を思ったのか、突然慧音の額にデコピンを喰らわせる。

「痛っ!」
「まったく、頭が良くても硬いといざというときに使えないわよ」
「だからデコピンしたのかっ」
「硬い頭にちよっとした衝撃を与えてあげたのよ。今はもっと頭を柔らかくして話をしなさい」

 永琳の言葉には巫山戯ている様子はない。
 いきなり暴力を受けたことには不服だが、確かに今は堅く考えているようではだめだ。
 慧音は額をさすりながら、永琳が先程の話をどう聞いていたのか聞くことにした。

「ねぇ、根本的なことを聞くけれど、いいかしら」
「何だ」

「あなたはどうして、藤原妹紅にそんなに肩入れしているの?」

 それはまさしく根本的な質問だった。
 どうして自分は妹紅を気に掛けているのか。

「あの子も人間だから、とかまたガチガチなこと言ったら、グーで殴るから」
「なんでそんなに暴力的なんだ」
「これも愛の鞭よ。ほら、殴られたくないならもっと良い答えを出してきなさい」

 その言葉にまず言おうとしていた言葉を予想されていたことに気がつく。
 この手の話はどうにも永琳の方に分があるらしい。
 だが今、永琳は答えを考えろとは言わず、出してこいと言っていた。
 それはつまり、もっと言うべき答えを慧音自身がすでに知っているということまで察しているのか。

(見透かされている、というのはどうにも気分が悪いな……それだけ今の私は判りやすいということか)

 違う。
 今はそんなことを考える必要はない。
 もっと率直に、永琳の問いに答えていけばいい。

「私は妹紅の友人だからだ」
「友人、ねぇ。あの子のどこが好き?」
「……がさつだが、親切な面があるところだ。本人は照れて素直に認めないがな」
「他には?」
「そ、そこまで言う必要はあるのか」
「ないわ」

 あまりにもあっさりと言うものだから、慧音は怒ることも忘れて唖然とする。
 この女はどこまでが本当で、どこから巫山戯ているのか全然見えない。
 食えない性格とはまさに、目の前にいるような者のことを言うのだろう。

「でもそれはあなたのエゴよね。友人だから、心配して小言を言って」
「エゴ……だと?」
「そう、エゴ。妹紅は別に貴方にそんなことを望んでいる訳じゃない」

 そうだ。
 妹紅は確かに自分を必要とはしていない。
 必要としているのは、むしろ――

「でもそれで良いんじゃない」
「は?」

 責められているものとばかり考えていたので、永琳のその言葉はとても意外に聞こえた。
 するとその反応は予想されていたらしく、永琳は苦笑を浮かべながらこっちを見ている。

「閑話休題よ。質問を変えるわね。貴方にとって歴史とは何かしら」
「また妙な所に質問を変えるな」
「聞いているのはこっち。この質問には別に硬い答えでも構わないわ。勿論“難くても”結構よ」
「歴史か……。そうだな、一言で言えば“物事の連続性、またはその一連の流れ”とでも言おうか」

 歴史とは、過去に起こった事件、節目などを指して言われる場合が多い。
 だがそれは歴史学的な見地で言うところの“歴史”だ。
 慧音のような連続性を意味するのは、哲学的な立場にいる者が使うときだ。

 歴史を変えるという所謂SF的なことも、歴史は連続的に繋がっているという、その見地があってこそ成り立つものだ。
 過去に何があっても、それが現在と繋がっていない限り、過去を変えて今を変えることには繋がらない。

「謂わば歴史とは、世界の記憶みたいなものだな。それを言えば、個人の記憶もまた歴史と言える」
「幻想郷の歴史をまとめる貴方らしい答えだわ」

 どうやらこの答えには、永琳も満足したらしく、手が上がることはない。
 箸で八目鰻を解しては、酒と共に舌鼓を打っている。
 そして慧音の猪口に酒を注ぎながら、その答えに捕捉するようにゆっくりとその口を開いた。

「そこまでわかっておきながら、貴方は貴方自身の歴史が分かっていないように見えるわね」
「私自身の歴史だと?」
「そう。でも“貴方の”というと語弊があるわね。でもそこから先は貴方が気付くことだわ」
「よく意図がつかめないのだが」

 するとまた永琳は慧音の額にデコピンを喰らわせてきた。
 しかし一回目の時ほど痛くはない。

「ほら、また頭が硬くなってるわよ。もっと軟らかく考えなさい」
「く、なんだか良いようにあしらわれている気がしてならないな」
「そう思うなら、私の言うことは全て無視して良いのよ。私はあくまで助言しているだけだもの」
「少々痛みを伴うけどな」
「よく言うでしょ。良薬は口に苦しって」

 そう、今話している相手は幻想郷でも屈指の天才、八意永琳だ。
 向こうにどういう意図があれ、彼女の言うことは考える価値がある。
 慧音はありがとうと短く告げると、机の上に勘定を置いて帰路についた。


  ☆


 で、それから数日が経ったわけだが、慧音はまだ答えが出せずにいた。
 自身の歴史がわかっていないと言われても、いったいそれと仲直りの方法にどんな関係があるというのか。
 それに永琳は“貴方のというと語弊がある”とも言っていた。

「あーっ、なんでこんなにもやもやするんだ」

 青のメッシュ掛かった銀の長髪を、苛立った様子で掻きながら机に向かう慧音。
 机上には編纂途中の歴史書が、まだ殆ど手つかずのまま放置されている。
 硯の墨もだいぶ渇いてしまい、どれだけの時間を何もせずに費やしてしまっているかが想像できる。
 このままではいけないと、何度も机に向かって筆を取ってみても、すぐに気が逸れてしまい仕事にならない。
 寺子屋でも子ども達に言いように言われる始末だが、全て自分の所為なので何も言い返すことが出来ない。

 今日は一ヶ月ぶりの満月。
 夜になれば妖怪に変化し、その時しか得られない“歴史を作り出す程度の能力”で、
 それまでの一ヶ月に溜まった仕事を、出来る限り解消していかなくてはならないのだが、

「とてもじゃないがそんな状態じゃないな」

 それもこれも自分が妹紅の日記を見てしまったのが原因だ。
 それで妹紅とケンカ別れをしてしまい、もやもやを残したまま日々を過ごす羽目になっている。
 おかげで仕事はどれもこれも中途半端。
 こんなことなら妹紅の日記なんか見つけなければ……こんなことなら……


 その時慧音の中で何かが吹っ切れた。


「あぁ、もぅっ!」

 こんなことになるくらいなら、さっさとケリをつける方が良い。
 固く考えるな。考えすぎるから、こうして袋小路に迷い込んでしまっているんじゃないか。
 それならいっそ、この壁をぶち壊してしまった方が何倍も早い。
 結果がどうなろうと、もう知ったことか。
 それによって良い結果が得られれば良し。壁を壊したことを咎められようと、その時はその時で考えよう。

 もうじき夜が訪れる。今宵は丁度満月。
 全ての歴史が己の物となる今日なら――言い訳かもしれないが、それを切っ掛けに事態を変えられるかもしれない。

「こんなことでしか踏み出せないほど情けないとは、思ってもみなかったな」

 考えることを少し止めただけで、こんなにも余裕ができてくるものなのか。
 慧音は塞ぎ込んでいた数日を思い返して、自嘲の笑みを浮かべた。
 そして出掛けるために支度を始める。その行き先は言わずもがな――


  ☆


 窓から差し込む光が、白から橙に変わり、そしてまた白に戻る。
 今日は申し分ないほどの満月らしい。
 夜が来るまでただひたすらに座禅を組み、気持ちを落ち着けていた慧音は、
 空気が変わったことで夜の訪れを知り、出掛けるために立ち上がった。

 自宅の扉を開き、妖怪の時間となった世界へ足を踏み入れる。
 そして空を見上げ、そこに浮かんでいる満月を凝視する。
 刹那慧音の体に戦慄が走る。
 尾が生え角が生え、人間の体が妖怪のものに変わり、それに呼応して身に眠っていた妖怪の力が目覚めていく。
 人間の体では御しきれない力が漲り、そしてその脳内には幻想郷全ての歴史が流れ込んでくる。
 白択となった慧音は、自宅に戻って歴史の編纂を始めるでもなく、ただある場所を目指して飛んだ。


  ☆


 炎と光が飛び交い、月光の夜を明るく染める。
 今宵も繰り返される死の遊戯。
 黒髪の少女が嗤い、白髪の少女が吠える。

「あらあら妹紅。攻撃のキレがないわよ。考え事でもしているのかしら」
「うるさいっ! お前こそそんな余裕を見せていたら足下掬われるよっ」
「あはははっ、掬う相手がそんなじゃ心配ないわね」

 逐一癪に障ることを言ってくるが、それは輝夜が勘づいているからだと妹紅は思った。
 それだけ自分が外に感情をさらけ出しているのかもしれないが、今はそんなことどうでも良い。
 このもやもやの所為で、ここ数日間はどうにも調子が悪いままだ。
 輝夜とのやり取りも、このもやもやを発散してはくれない。

 その隙を突かれた。

「ぅぐっ!?」
「ほぉら、仕留めた」

 口元に三日月のような弧を描き、輝夜はさらにとどめを刺そうと手を掲げる。
 胸を貫かれた妹紅は、その痛みでうまく体を動かすことができない。
 何度体感しても、この痛みに慣れられない。慣れる前に体がリセットされるのだから当然か。
 輝夜の手中に光が集い、それが自分に死を迎えさせるものだと頭が理解していても、体がそれに反応しない。

「どうやら今日は私の勝ちのようね。逝きなさい、藤原妹紅」

 勝利を確信した輝夜が、その手を振り下ろす。
 弾幕ごっこの時のような生易しいものではない。
 求められるのは、ただ相手の確実な死のみ。
 その為だけに特化された弾幕が妹紅に向かう。

 しかしその光は、妹紅の体を貫くことなく空で止まり、やがて消滅した。

「この勝負。今宵はここでやめてもらおうか」

 二人の間に割って入り、妹紅へのとどめを消したのは、他ならぬ慧音であった。
 いつもなら介入などしない半獣が何故。
 その疑問は輝夜だけでなく、助けて貰った妹紅の顔にはありありと浮かんでいる。

「あら上白沢の。止めることが無駄と知りながら、今日はどうしたのかしら」
「悪いが今日はもうお開きにしてもらう。どちらにしても、妹紅はもう戦えない」
「それじゃあ私達の決着にならない。どちらかが死ぬまで、ね」
「今の攻撃が当たっていれば、確実に妹紅は死んでいた。それで良いだろう」
「でもあなたがそれを邪魔して、妹紅はまだ生きている」
「どうあっても、引き下がらないと?」
「あなたこそ。妹紅が死んでも明日には生き返るわ。用があるなら明日で良いじゃない」

 言いながら輝夜はまた手を掲げる。
 だがその手に光が集まることはなかった。

「ならば、仕方がないな」
「なっ」

 輝夜の目の前に一瞬で移動し、その手が振り下ろされるより早く慧音は輝夜の鳩尾を打った。
 いくら輝夜でも、油断してるところに急所への直接攻撃は辛い。
 攻撃のために腕を上げていたため、防御もできず吐き気を催す痛みにただ苦悶の声を漏らすのみ。

「今日は引き分けだ。決着はまた次にしてくれ。私には今日決着を着ける必要があるんだ」
「く……うぐ、この半妖……風情がっ」
「何とでも言え。だがこれだけは言っておく。今後お前達の戦いには介入しない」

 腹を押さえ地上へと降りていく輝夜を後目に、慧音は妹紅の元へと戻る。
 妹紅は何が何やらといった様子で、傷口を押さえて浮かんでいた。
 その肩を抱き、慧音は一路妹紅の家へと向かい飛んだ。


  ☆


 家に着くと、慧音は相変わらず片付けのされていない部屋から薬箱を引っ張り出し、
 まずは妹紅の傷口の手当てから始めた。
 よくこんなところから目当ての物を見つけだせるものだと、第三者が見たら思うだろう。
 だがこの家を片付けるのは、いつも慧音なのだ。
 特に薬箱のように、妹紅が日常的に使わない物なら大抵その位置は覚えている。

「……痛っ」
「我慢しろ」

 消毒が染みる痛みに顔を歪めながらも、妹紅は慧音に体を預け素直に手当を受けていた。
 しかし会話らしい会話は殆どなく、今のようなやり取りがたまにあるだけで、
 居心地の悪い空気が、先程からずーっと二人の間には流れていた。
 その原因は二人とも分かっている。
 妹紅も、慧音が例のことで何か言いに来たのだということはわかっていたが、それでも切り出せない。
 慧音は慧音で、せっかく決心してやって来たのに、こちらもうまく切り出せずにいる。

 このどっちもどっちな空気を、先に打破したのは、やはり妹紅の方だった。

「ねぇ、仕事は良いの?」
「今日は無理だ」
「無理って……満月の日を逃したら、また一ヶ月分仕事が溜まるんでしょ?」
「どっちにしても、来月は死ぬ気で頑張ることになるさ」
「……ねぇ、それってやっぱりこの間のこと?」

 途端慧音の手が止まる。
 顔は複雑な表情がさらに複雑になり、どう返して良いものか考えあぐねている様子が見て取れた。
 その様子に妹紅は取り繕うように、笑い声を上げる。

「あ、あはははっ。あの時は、さ……ごめんね。言いすぎたよ」
「妹紅……」
「そりゃ日記を勝手に読まれたのは正直怒ったよ? またやられても怒ると思う」
「そう……だろうな」
「でも、あの後読み返してみたら、慧音が怒っていたのも当然だった」

 まさか慧音が読むとは思ってなかった。
 いや日記とは本来そういうものなのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
 だが読まれるような場所に放置しておきながら、読まれて困ることを書いていたのは自分に非がある。
 妹紅は慧音の気持ちも考えずに書いていたことを改めて思い返し、ずっと謝ろうと思っていたのだ。
 いくら読ませる気がないとはいえ、読まれてしまった以上は、謝る必要があると。

「いや、それを言うなら私の方こそ謝るべきだ。日記だと気付いた時点で読まなければ良かった」
「まぁ、ね」
「正直あの時はショックだったんだ。妹紅がそんな風に私を見ていたのかと」
「えっと、それは……」
「もう隠す必要はないさ。そう思っていることを分かった上で、私は妹紅に会いに来たんだから」

 どんな考えで接していようと、妹紅は妹紅だ。
 共に笑い、共に悩み、共に生きてきた友人。
 その心内が知れて、もう関係を絶とうと思えば事はそれで済む。
 しかし、こうして悩んでいるということは、自分がまだ未練を残したままでいるということ。
 まだ相手との関係を断ち切りたくないと思っている何よりの証拠なのだ。

「妹紅。私には妹紅が必要だ。今の私があるのは妹紅が居てくれたからだと言っていい」
「な、何いきなりそんなこと言ってんの!?」
「私の歴史にはずっとお前がいた。私達の歴史をこんな事で断ちたくない」
「……慧音」
「随分身勝手な事を言っているとは思う。でも、それが私の正直な気持ちだ」

 自分が愛の告白めいた言葉を口走っているとも気付かず、慧音は己の想いを紡ぎ続ける。
 結局永琳が出してくれたヒントからは、こういう言葉しか出てこなかったのだ。
 だが結局の所、答えなんてものは無かったのだろう。

「ねぇ慧音。どうして私が日記を付け始めたか、知ってる?」

 突然の妹紅の問いに、慧音は思わす背首を捻る。
 日記を付け始めた理由と言われても、慧音には思い当たる節がない。
 すると妹紅は、慧音が以前に話してくれた歴史の話が元なのだと言った。


 歴史とは、かつて起こった出来事ではなく、それらの出来事の一連性を指す言葉でもある。
 記憶と同じで、あれがあったからこれがあり、これがあったから今がある。
 断片で覚えていても、そこには違和感が生じ、呑み込んだとしても小骨が取れない気持ち悪さが残るだろう。
 今があるのは、過去のおかげだと。
 人間はその生涯が短く、次の世代に託すということをよく行う。
 その為にもそれまでの歴史を残しておかなければ、次に繋ぐことが出来ないのだ。
 故に人は主に書などで、それまでの歴史を残す。
 今を作り、未来に繋がる過去を重んじるのは人間の、人間たり得ることの一つなのだ。

 そう話した記憶は、慧音の中にはっきりと浮かんでいた。
 それは随分前のことだったが、白択の力を得た今夜の慧音にはどんな過去のことだろうと思い出せる。
 だがそんな昔にした話を、妹紅は未だに覚えていたのだ。

「だから私も歴史を残そうって思ったんだ。私の時間は無限に止まったままだけど、歴史は続いている。
 だけどその歴史をずっと覚えてなんかいられない。今まではそれで良かった。
 でも今は違う。今は……慧音がいるもの」

 そう言って笑いながら、妹紅は事の発端となったあの日記の冒頭を慧音に見せた。
 妹紅から日記を受け取り、そのページに目を走らせる。
 そこにはこれから日記を付けていこうという、妹紅の密やかな決意と共に、
 日毎の思い出をそのままの形で、素直に感じたまま残していこうという思いが綴られていた。
 妹紅は自分の言うことを蔑ろにしていたわけではなかった。
 むしろ自分の言ったことを大切に思い、それを形として残してくれていたのだ。

「そう、だったのか」

 全てを知り終えた慧音。
 その口元には久方ぶりの笑みが浮かんでいた。


《終幕》


☆後書☆

 自分の書いた小説フォルダの整理をしていて掘り出した作品。
 このファイルの最終更新日を見て驚きました。

 2007年10月21日……

 一年以上も前に書き上げたまま、放置してるし!
 せっかく書き上げた作品を埋もれさせておくのも可哀想なので
 こうして日の目の当たるところに置いておくことにします。

 それにしてもどうして放置していたんだろう。

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