深紅の誓い 〜Meaning of KURENAI〜

 霧の湖の岸辺に佇む悪魔の館、紅魔館。
 そこでメイドとして従事している十六夜咲夜は、目の前の光景に頭を抱えていた。
 朱塗りとはまた異なる紅さで彩られた館。その周囲を取り囲む外壁も赤レンガで作られている。
 その壁に寄りかかるようにして、スヤスヤと健やかな寝息を立てているのは、本来不寝の番をしているはずの門番だ。

 洋館に仕える者としては些か不似合いな、中国風の衣装に身を包んだ長身の女性。名は紅美鈴という。
 見た目は咲夜と同じ人間の姿をしているが、これでも立派な妖怪の一種だ。
 何の妖怪だと聞かれると、誰しもが返答に詰まるのも事実だったりするのだが。

 ともあれ、今問題なのは彼女がどんな妖怪であるかではなく、門番としての役割を与えられているにも関わらず、その職務を放棄して、あまつさえ居眠りをしているというこの体たらくである。
 強大な力を持つ吸血鬼が暮らす館として、もとより近づく者は少ないが、それでも不逞の輩がやって来ないとも限らない。
 侵入者を許せばその始末は自分がつけることになる。それも仕事の内ではあるが、その原因が居眠りでは納得がいかなくても当然だ。

 咲夜は無言で太ももに手を伸ばすと、常備している銀のナイフを右手に構えた。
 こういう場合は大きな音や声で叩き起こすのがセオリーだろうが、紅魔館のメイド長に甘さはない。
 罪には然るべき罰を。
 咲夜は全くためらうことなく、手に持っていたナイフを未だ呑気に眠っている美鈴に向かって投げつけた。
 もちろん直撃させるつもりはなく、鈍色の刃は美鈴の帽子を道連れにして、背後の壁に鈍い音と共に突き刺さった。

「ぅ……ん?」

 美鈴はその音と衝撃で、ようやく目を覚ます。
 ぼんやりとした視界の中、彼女がまず目にしたのは2本目のナイフを構えるメイド長の姿だった。
 しかし、次第に明瞭になっていく視界と理性がこの状況を理解し始めた頃には、時すでに遅し。

「あれ、えーっと……咲夜さん?」
「良いご身分ね。何か言うことがあるなら、今の内に聞いておいてあげるわよ。というより、言うことがあるはずよね?」
「……お、おはようございます」
「本当、良いご身分――ねっ!」

 時間操作が可能な咲夜ならではのノーモーションで、第二波のナイフが投げられた。
 当たらないことが分かりきっている程度では仕置きにならないし、かといって当てるわけにもいかない。
 だから今度は頬の皮一枚をギリギリ切り掠める位置を狙ってある。

「ひえっ!」

 しかしそのナイフは、美鈴の肌を裂くことなく、その寸前に彼女の2本の指によって止められてしまった。
 怯えと驚きの声をあげながら、その実機敏に反応してナイフを止める。
 その反射神経の優秀さに感心の念を抱かなくもないが、これでは意味がない。
 咲夜はあくまでも鉄槌を下すために、3本目のナイフを手に取り、次はこめかみすれすれを狙って投げた。

「ひゃわあっ!?」

 しかし、またしても刃が届く寸前に受け止められてしまった。
 美鈴自身は顔を背け、むしろそのまま避けた方がよりリスクは少なかったように見える。
 つまり、これは……

(無意識に反射だけで受け止めた――と。まったく、変な所で人外なんだから)

 すっかり気を殺がれてしまった咲夜は、溜息を吐きながら未だ立ち上がってもいない美鈴に近づいた。
 美鈴はゲンコツの一つでも喰らわされると覚悟をしているのか、咲夜が手を差しのばすと、ギュッと目を閉じて肩を強張らせる。

「違うわよ。ナイフ」
「あ、なるほど」

 咲夜の手がナイフの返却を求めていることを理解し、美鈴は安堵の息を漏らし、表情を和らげる。
 受け止められた2本のナイフを受け取りながら、咲夜は目の前の情けなささえ感じさせる門番を見て肩をすくめた。

 日頃の教育の賜物とでも言うべきか。妖怪である美鈴が、超能力を持っているとはいえ、人間である咲夜にここまで緊張するというのも、よくよく考えればおかしな話である。
 咲夜からすれば扱いやすくていいことなのだが、門番という役目を負っている以上、睨みをきかせるだけでも不逞の輩を追い返すような、もう少し迫力というか気迫というか、そういうものが足りないのではないか。
 思えば人間くさい一面も多く、人間の里での評判も悪くない。
 紅い悪魔が棲む館といえば、誰しもが畏怖の念を抱くというのに、その門番に対しては親近感を覚えるというのも不思議な話。
 吸血鬼の従者である自分の方が、恐れられていると言っても過言ではない。

「美鈴。貴方はこの紅魔館の門番なんだから、もっとしっかりしてもらわないと困るわ」
「あぅ、すみません……」
「休むなとは言わないけど、それならそれで私に一言伝えてからにして。ただでさえまともな人手が少ないんだから」

 咲夜は、数だけは揃っているがあまり役に立たない妖精メイド達のことを思い返した。
 そに比べれば美鈴は役に立つ方だが、職務をさぼって昼寝をしているようでは困る。

「とりあえず今回の件はお嬢様に報告するから。そのつもりで」
「はぃ……」

 手厳しい咲夜の言葉に、しゅんと項垂れる美鈴。
 こうして見ると、ますますこの紅美鈴という妖怪が強いのかどうか分からなくなってくる。

 そういえば、彼女はどうしてこの紅魔館で門番をしているのだろう。
 館の主であるレミリア・スカーレット。その妹であるフランドール・スカーレット。この2人は『吸血鬼』という西洋の代表的な妖怪だ。
 そして地下の図書館に住み着いている魔女、パチュリー・ノーレッジも西洋の妖怪と考えて良い。
 補足すれば彼女の使い魔として、これまた図書館で働く小悪魔も、その見た目から西洋妖怪の特徴が覗える。
 つまり人間である自分を除外して考えれば、ここ紅魔館の妖怪の中で、美鈴だけが東洋の妖怪という点で浮いているのだ。

「ねぇ、美鈴」
「はいっ! まだ何かやっちゃっていたんでしょうか!?」
「違うわよ。というかその言い方だと、まだやましいことがあるって白状しているようなものよ」
「あぁ、いえ。咲夜さんから名前を呼ばれると、体が勝手に反応しちゃって」

 たはは、と苦笑を浮かべる美鈴に咲夜は呆れてしまう。

「私を何だと思ってるの。……じゃなくて、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか? あ、お昼ご飯の献立に困ってるなら、私カニ玉炒飯が食べたいです」
「なんで貴方の好きなものを作ってあげなきゃいけないの。そうじゃなくて――」

 咲夜はふと思いついた疑問を、直接尋ねてみた。
 話したくないことなら話さなくても良い、同じ館で働く者同士、ちょっとした好奇心で気になっただけだと付け加えて。
 すると美鈴は、少し照れくさそうにはにかみながら、徐に口を開いた。

「うーん、改めて話すのはちょっと気恥ずかしいですね。少し長いかもしれませんが良いですか?」
「私から聞いたことだし構わないわ。いざとなれば時間を止めるから」
「わかりました。……そうですね、あれはまだ紅魔館が幻想郷に来るよりもずっと昔の話――」



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 咲夜さんも知っての通り、私は中国という国で生まれた妖怪です。
 ですが、この紅魔館で門番をするようになる直前まで、私は自身のことを妖怪としてではなく、人間だと思いこんでいました。
 それは、物心ついたときから親が居ない私を拾ってくれた人間と共に、人間として育ててもらい暮らしていたからです。
 この「紅 美鈴」という名前も彼らに付けてもらったんですよ。私のこの紅い髪、そして鈴を転がすような美しい声色からそう名付けたのだと聞いたことがあります。

 私を育ててくれた人間は拳法の道場を開いていて、そこには多くの門下生が出入りしていました。
 決して規模の大きなものではありませんでしたが、門下生の師範への信頼は厚く、うまく経営していたようです。
 私もそこで武道、拳法の基礎を学んで育ちました。

 学んだのは何も武術だけではありません。
 孤児だった私を拾って、何も言わずに育ててくれたように、彼は人一倍仁義に厚い人間でした。
 私は育ててもらう中で、彼から義を重んじる心も教わっていたんです。
 今の私があるのは、彼のおかげと言っても過言じゃありません。

 彼の家には、その妻と子供が数人いて、私を含めると結構な大所帯でした。
 でも、もとより裕福な暮らしができているわけでもありませんし、食べ盛り育ち盛りの子供が大勢いたのでは、貯まる物も貯まりません。
 物事の分別が付く年頃まで育ててもらった頃、私はどうにか彼らに恩義を返したいと思っていました。
 少しでも早く自立して、自分での暮らしは自分でまかなう。そうすれば食い扶持が一人でも減ることで、負担は軽くなりますから。
 ただ、私の特技と言えば拳法の鍛錬で身につけた身のこなしと気を扱う程度の力くらいです。
 自立をするにはまだ歳も若かったし、もどかしさを感じながら日々を送っていました。


 そんなある日、私の暮らしていた町に西洋から渡ってきたという異邦人の一団がやってきました。
 当時、中国は西欧の国との戦争に敗れ、そういった他国からの訪問者も少なくなかったんです。
 その大半は敗戦国を占領するために送り込まれた軍人でしたが、彼らの出で立ちは軍隊のそれとは大きく異なっていました。
 彼らは色取り取りの派手な配色の不思議な格好で、町の広場に何やら怪しげな道具を広げたかと思うと、突然曲芸を始めたんです。
 宙を舞う鋭利な刃物。何もないところから突然咲く花。人間離れした身体能力が繰り広げる妙技の数々。
 相手が憎い西洋の人間であることも忘れて、それを見ていた観客達は皆感心したように拍手喝采を送りました。
 私もその内の1人でした。幼心にまるで魔法でも見ているかのような、そんな感動を覚えたのを今でもよく覚えています。

 その公演が終わった後のことです。
 私の所に、この興行旅団の団長と名乗る男が近づいてきて、私にある話を持ちかけてきたんです。
 彼らは今後、こういった見せ物を大々的に行う事業を立ち上げるとそう言いました。
 そこに是非とも東洋の文化を取り入れたい。そのために人材を欲しているのだが、一目で私を気に入った。良ければ同行しないかと。

 それを聞いた瞬間、私はこれだ! と思いました。
 私はすくざま両親にこのことを伝え、旅団への同行を許可してもらえるよう懇願したんです。
 ですが、返ってきた答えは、快いものではありませんでした。

「娘を売るような真似はできない」

 厳格で義に厚い父らしい言葉でしたが、私はどうしてもその一座に加わりたかった。

 戦争に負けた国にはそれ相応の仕打ちが待っています。
 賠償金を払うために民衆から金を搾り取り、食料だってただでさえ少ないのに軍や富裕層のために持って行かれてしまう。
 その余波は私達の暮らす町にも伝わっていました。
 父が、母が、兄弟達が、目に見えてやせ細っていくのを間近で見せられるんですよ?
 もしかしたら私は恩返しだけじゃなくて、自分だけ逃げたかったのかもしれません。
 ただ、その時は自分が義で動いていると信じて疑っていなかった。

 私はこの思いの丈を、家族だけでなく、旅団の団長にも吐露しました。
 すると団長は人の良い笑みを浮かべて、自分も説得を手伝おうと言ってくれたんです。

 彼は私にここで待っているように告げて、団長は私の家へと向かっていきました。
 そして数時間が経過した後、私の家から戻ってきた団長は私に、父が許諾してくれたことを告げました。
 ただし、どうしても出て行くというのなら二度とこの家の敷居をまたぐなという、痛烈な勘当の言葉も同時に突きつけられました。

 それでも、その時の私には自分がここに残ってできることを探す余裕はありませんし、それくらいのことは覚悟の上で決めていたつもりです。
 結局これが最善だと信じた私は、最後には半ば飛び出る形で、育った家を後にしたんです。
 家族とはそれ以来二度と会うことはありませんでした。
 でも、彼らの存在、彼らへの恩義だけは今でもずっと忘れず、この胸の内に残っています。



 そうして興行団の一座に身を置いた私は、住み慣れた国を離れて西洋へと渡りました。
 これで一つ咲夜さんの疑問――どうして東洋妖怪の私が西洋妖怪のお嬢様に近づいたかは、分かったでしょう?

 大規模な見世物小屋――雑伎団やサーカスと言った方がわかりやすいですね――は、当時はまだ認知も少なく、成長期にあった西洋の国々では娯楽が求められていましたから、その評判は瞬く間に広がっていきました。
 最初は雑用や、見せ物に使う動物の世話をしていた私も、持ち前の器用さと鍛錬の成果で、少しずつ芸を覚えて舞台にも上がるようになりました。
 ナイフ投げの的とか、道化役とか色々やりましたよ。気の流れを読み取ることに長けていたおかげで、大抵のことはこなせました。

 世界中から集められた珍しい動物。選りすぐりの人材。
 おかげで私達の見世物は人気を博し、西欧諸国の様々な場所で公演を行いました。
 その度に大規模な移動が必要になりますが、それでも私はこの新しい生活に満足していたんです。


 そして、幾度目かの公演を終えたある日のことでした。それが私にとって運命の日になるなんて、当時の私には知る由もありません。
 私は仕事を終えた動物たちを檻に戻して、食事を与えるためにテント裏の暗がりへと向かいました。
 その闇の中、私はテントから漏れる薄明かりの中に、ぼんやりと浮かぶ小さな影を見つけたんです。
 最初は何かの見間違いかと思いましたが、私の第六感が気の流れを知覚し、すぐにそれが幻ではないことに気がつきました。
 もしかしたら動物が逃げ出したのかもしれない。
 そう思った私は慌てて、その影へと走り寄りました。
 ですが、そこにいたのは逃げ出した動物でも何でもない。ただの小さな女の子だったんです。
 身なりから察するに、どこかの貴族の子供が両親とはぐれてしまったんだろうと、私はホッとしながら、優しく声を掛けました。

「お嬢ちゃん。こんな所でどうしたのかな? もしかして迷子?」

 その声を聞いて、私に背を向けていたその子はゆっくりと振り返りました。
 その時の戦慄は今でも思い出すだけで鳥肌が立ちます。
 どこから見ても、その女の子の姿は檻の中にいる、どんな獰猛な獣よりもか弱いものであるはずなのに、彼女から伝わってくる気はどんな野獣よりもおぞましく、危険なものでした。
 ですが、次の瞬間にはまるでそんなものは気のせいとでもいうかのように、その凶悪なまでの気配はハタと消えていたんです。
 ただ、目の前にいる女の子までが消えたわけではなく、血のように紅いの眼が、ジッと私を捉えていました。

「ど、どうしたのかなぁ?」
「これは?」
「え?」

 こちらの質問に答えず、女の子が指さす先には檻の中で眠るトラがいるだけです。
 私が答えあぐねていると、女の子はじれったそうに唇を尖らせて、もう一度質問を繰り返しました。

「これは何なの?」
「何って言われても……トラだけど」
「トラ? ふぅん」

 見た目とは裏腹に偉そうな物言いをする女の子は、眠っているトラをしげしげと眺めていたかと思うと、いきなり檻の中に手を突っ込んだんです。
 いくら相手が眠っていて、手懐けられているとは言ってもトラはトラ。
 私は何をしてるのと、すぐに女の子をトラの檻から引き離しました。
 すると女の子は私と同じ台詞を言いながら、私に抗議してきました。

「ちょっと! いきなり何をするのよ」
「それはこっちの台詞よ! まったく……トラは肉食の猛獣で、お嬢ちゃんみたいな小さな手は一口で食べられちゃうんだから」
「こんな犬か猫を大きくしただけのような動物がねぇ」

 女の子は、まったく怖い物知らずな様子でトラに視線を注いでいましたか、やがてその目を再び私に向けてきました。
 まるでルビーのような紅い瞳は吸い込まれそうなほどに綺麗で、その両目に捉えられている間、私は何も言うことができなかったくらいです。
 不意にその両目が可笑しそうに細められました。その幼い見て為には不似合いな嘲りを含んだ

「どうやら檻の中に居るべきは、もっと他にいるようだけどね」

 いったい何を言っているの――

 私はそう尋ねようとしましたが、その言葉を発する前に、私の背中に向かって聞き慣れた声が掛けられました。

「おい、メイリン。何をしているんだ」
「あ、すいません。この子が……って、何かあったんですか? なんだか血相が悪いですよ?」

 声を掛けてきたのは、同じくこのサーカスに身を置く仲間の1人でした。
 私がここに入る前から団長の下で働く、このサーカスで一番の古株です。
 女の子のことを報告しようとしたんですが、それ以上に私はやって来た彼の表情が妙に強張っていることの方が気になったんです。

「あぁ、いや。さっき警察に声を掛けられたからかな。変に緊張してしまったんだ」
「警察?」
「なんでも、最近人攫いが多発しているらしい。今日も1人子供がいなくなったからと、一応ここにも聞き込みに来たんだ」

 どうやら彼は自分たちが、怪しまされているのではと不安になっていたようでした。
 だけど私達がそんな悪事を働いているはずがない、だってそんなことをしていたら私もあなたも許すはずがないと、そう言って私は彼を落ち着けました。
 そこで私はさっきの子供のことを思い出したんです。
 もしかしたら、あの子がいなくなったという子供なのかもしれない。

「そうだ。ここに女の子が……あれ?」

 振り返ってみると、そこに女の子の姿はありませんでした。
 そしてその彼から聞いた話だと、私の近くから誰かがいなくなったようなことはなかったそうです。
 私は不思議に思い、その後もしばらく周辺を探してみましたが、やっぱりあの紅い眼の女の子は見つかりませんでした。
 でも、あの子と交わした会話は鮮明に覚えているし、何よりあの紅い輝きをそう簡単に忘れられるはずもありません。

 その日は、その事がどうしても気になって、なかなか寝付くことができず、私は気晴らしに散歩でもしようと寝床を抜け出しました。
 オレンジ色の街灯がもやの中に薄ぼんやりと浮かぶ、石畳の夜の町。
 私の育った国とは色々な所が違う異国でも、暗闇に浮かぶ月はどこでも同じに見えました。
 昔から月明かりを浴びていると心が落ち着いたものです。
 特にあの日は満月で、あの真円から零れ落ちる光はもやを通して見ても、とても美しいものでした。

 月光浴で気分も良くなったし、これなら気持ちよく眠れると、私はすっかり冷え切ってしまっているであろう寝床を思いながら、元来た道を戻りました。
 その途中、舞台を設置してある一番大きなテントから明かりが漏れているのを見つけたんです。
 誰かが明かりを消し忘れたのかなと、私は特に警戒することもなく、そこへ近づきました。
 すると中から、2人の男性の話し声が聞こえてきたんです。

「団長! いつまでこんなことをするつもりですか」

 その声は、私が例の女の子と話していたときに声を掛けてきた彼のものでした。
 相手はどうやら団長のようですが、揉めているのか、彼の声は荒立っていました。

「いつまで……とは、どういうことかね」
「俺は、あんたのやってきたことを知っている。だけど、それでも人々を楽しませるこの仕事が好きだ。団長がやってることも、その為にやむを得ないことだからだと信じてる。……でもっ、もう限界だ! 今日だって警察が来た。巷じゃ悪い子供はサーカスにさらわれるという噂まで流れてる」
「噂は噂だ。我々サーカスの団員は人にはできないことをやってのける、いわば超人。それ故にそういった穿った見られ方をされても仕方はあるまい」
「最初は人材集めのためだと思っていた。だけど、途中から人売りまでして……それも資金調達のためだと見て見ぬフリをしてたんだ」
「ふむ。まるで私が人攫いをするためにこのサーカスを立ち上げたような口ぶりだね」
「ような、じゃない! 俺は、俺たちは、そんなことのためにここに居るんじゃないっ」

 団長はあくまでも、彼の言葉を否定し続けました。
 でも、一連の会話を聞いていた私には、団長よりも、もう1人の彼の言葉の方が真に迫っている気がしてならなかったんです。
 あの、私の家族への思いを汲んでくれた団長の言葉だからこそ、信じたい。
 何より楽しんでもらうために頑張ってきたのに、それが本当は攫うためにやってきたことだなんて、誰が信じられますか?

「メイリンだって、あんたを信じて今日まで付いてきている! 家族から無理矢理引き離されたも知らずに!」
「無理矢理とは人聞きの悪いことを言う。私はあくまでもあの子の願いを聞いただけだ。あの家族の意思よりも、彼女自身の意思を尊重したまでのこと」
「――っ、あんたは……あんたは一体何がしたいんだ!」
「何とは……おや、そこにいるのは誰かね」

 いつの間にか私はテントの中に足を踏み入れ、2人の視界に入る位置に立っていました。
 2人の会話にわたしの名前が出てきたあたりからの記憶は曖昧で、必死に現状を理解することだけに必死になっていました。
 私はすっかり乾いた口から、必死に言葉を振り絞って尋ねました。

「団長、今の話は本当……なんですか」
「メイリン。お前まで私を疑うか。そうか、なるほどな」

 団長は何かを納得したように頷き、そして顔を上げました。
 するとそこには今まで見たこともない団長の狂気に満ちた表情が浮かんでいたのです。

「いやはや、まったく。これだから“人間”は愚かで困る」

 そこには優しく穏やかな、かつての団長の面影は欠片もありませんでした。
 私も、団長を説得していた団員も、その変貌ぶりに驚きを隠せません。
 もはや完全に別人にしか見えない彼は、とても冷たい声色で吐き捨てるように呟きました。

「騙されたなら騙され続ければいいものを。知ってしまったなら黙ってておけばいいものを」
「そ、そんなわけにいくかよっ」

 誰よりも早く団長の異変に気がついていた彼は渾身の勇気を込めた叫びをあげました。
 私にはそれが、とても悲しい響きを含んでいるようにも聞こえました。きっと彼も私と同じで、やっぱり信じたくなかったんでしょうね。
 ですが、そんな彼に団長が返した一言はとても冷淡なものでした。

「そうか、なら――」

 団長はたった一瞬の内に彼の目前まで迫ったかと思うと、いつの間に握っていたのか、両手に曲芸で使っている青竜刀を構えていました。
 そして私が瞬きを次の瞬間には……

「永遠に黙ってもらう他あるまい」

 彼は、私の目の前で×文字に切り裂かれ、盛大に血飛沫を捲き散らせながら、命を落としました。
 ですが私にはその死を悼む暇などありません。
 団長はゆらりと振り向きくと、その身に浴びた返り血を美味しそうに舐め取りながら、狂気に満ちた瞳で私を見据えました。
 その目には見覚えがありました。
 私が錯覚かと思った、あの少女と同じ紅い狂気の瞳。
 今の団長からはあの時と同じ様な恐怖にも似た気迫が伝わってきたのです。

「私は悲しい。一夜にして長年連れ添ってくれたペットを2匹もこの手に掛けなくてはならんとは。特にメイリン、お前は私の一番のお気に入りだったのに」
「ペット……お気に入り……」
「そうだ。あの異国の地で見かけたあの瞬間から、私はお前が欲しくて欲しくてたまらなかった。だからお前が同行を申し出てくれた時はどんなに嬉しかったことか」

 そう。彼に付いていこうと、決めたのは私自身でした。
 育ててくれた家族への恩義を、離別という形で果たすために。
 でも、彼はその思いを汲み取ってくれたわけじゃなかった。

 彼は私が欲しかった。ただそれだけだったんです。
 私も、オリの中に閉じこめられて飼われる、あのトラ達と同じに過ぎなかった。
 そう悟った時、私の中にあったそれまでの彼への思いは一気に崩れ落ちていきました。

「団長、あなたは……一体何者なんですか」

 私には彼が人間とは思えなかった。
 同じ種であるはずの人間すら家畜同然に扱うその態度からは、人間として大事な心が欠片も感じられなかった。
 妖怪である私がこんなことを思うのも変な話ですけどね。
 でも、少しだけ冷静になり始めてくると、彼から伝わってくる気配、気の流れは明らかに人間のものじゃなかったんです。

「ほぅ、私の正体まで気がついたのかね」

 団長は揶揄するわけでもなく、正直に感心したように呟きました。
 ただ、その時の私には彼が人間以外の“何か”としかわかりません。


「此の世の中で最も強い夜の眷属。他のどの命よりも気高い存在――吸血鬼、だろう?」


 その問いに答えたのは、私ではありませんでした。
 もちろん、もう1人その場にいた彼は既に息絶えてしまっていたから、答えられるはずがありません。
 その声は、夜の深淵から響き渡るような、団長の声色とはまた違った冷たさが感じられました。

「まったく、こんな奴が私と同じ種族とは嘆かわしいにも程があるわね」
「誰だ!」
「私の気配も捉えられないとは。そうか……お前、純粋種ではないね」

 声の主は仕方がないと呟くと、私達の前に姿を現しました。
 綱渡りや空中ブランコのために使う鉄塔の上に、シルエットを翻らせて立つその姿は、まるで夜の闇がそこに降り立ったかのようでした。
 こちらを見下ろす真紅の両眼から発せられる気迫に私は息を呑み、団長も心なしか怯えているように見えました。
 ただ、私の感じていた驚愕の理由は、その気迫だけではなかったんです。

「あ、あなたは!!」

 そこに居たのは、姿を消したはずのあの女の子だったんです。
 ただし、その背中には彼女の背丈よりも大きな、蝙蝠のような翼が生えていました。
 小さな容姿にも拘わらず、篝火に揺れる影が大きく見えたのも、その翼があったからなんでしょう。
 その翼が本物か偽物かなんて、考える間もありませんでしたが、そんなことはどうでも良かった。
 私が初めて彼女と会った瞬間――あの紅い瞳に見据えられた瞬間に、本当は気づいていたはずなんです。
 ただ、その圧倒的なまでの存在感の前に、現実であることを直視することができなかった。
 それだけの存在であることを、私はその時になってようやく理解したんです。

 彼女は私の存在を認めると一瞥しましたが、すぐに視線を元に戻しながらこう言いました。

「お前の相手は後よ。まずはそこの面汚しを葬ってから」

 彼女は、まるで面白くないという無表情で団長の前に降り立ちました。
 その目がまず捉えたのは、団長が握っている二振りの刃でした。

「その手に握ってるのは人間の武器? やっぱり“なり損ない”の吸血鬼か。やり方の下衆さ加減も、元人間だけということはある」

 吸血鬼――人間の生き血を吸う悪魔の存在は、西洋に渡ってから何度か聞いたことがありました。
 彼らに血を吸われ尽くされた人間は、同じように吸血鬼になるという話も耳にはしていましたが、まさか本物を見ることになるなんて。

 これは後から聞いたことなのですが、元々吸血鬼として生まれた純血種に対して、そうして生まれた吸血鬼を“なり損ない”というのだそうです。
 彼らは純血種と同じように人間の血を吸いますが、純血種と同等の力は持ってはいません。それでも人間には持ち得ない力を手にすることに変わりはありませんが。
 大半は人間だった頃の記憶と、残虐性の増した超越者の力の狭間で精神が激しく揺れ動き、理性を失うようですが、極稀にそのギャップを乗り越えて吸血鬼として生きるなり損ないもいるのだとか。

「なり損ないだと? 成る程、お前は純血種か。最早人々の恐怖からも忘れ去られかけ、満足に食事もできないようなものに言われたくないな」
「ふん。お前達は私のように強い精神を持っていない。だから頻繁に食事をする必要があるなんだろう? こんな子供騙しで人を集めてまで」
「恐怖から生まれただけの存在とは違って、私には人間だった頃の知識がある。それを利用しているまでのこと。それで? 一体何をしに来たんだね」
「分かり切ったことを。高潔な存在である我らの名を汚している奴が居ると聞いてね。いくらなり損ないのすることとは言え、それを見逃しては、純血の私まで同列に扱われてしまう。だからこうしてわざわざ消し炭にしに来てやったのさ」
「……くく、くはっ、はははははははははっ! しに来てやった、だと? 純粋種というだけで声高に物を言っているだけの存在がよく言う」
「お前こそ、口だけは達者なようだね。なら、次はその実力を見せてもらうとしようかしら」

 互いに一歩も譲らない言葉の応酬が続いたかと思うと、女の子はまるで動物が威嚇するように翼をいっぱいに広げました。
 羽ばたきが風を起こすたびに、大量の狂気がうねる様子が見て取れました。
 その気の流れは女の子に手懐けられているかのように、その手中に収まると紅い光を放つ巨大な槍に変わったのです。
 その光から発せられる力は団長にも伝わっているらしく、初めてその顔から余裕が消えました。

「これほどの力を秘めているとは……これが純血種だというのか。そんな小さな体で……」
「たかだか齢百年をすぎたくらいでいい気になっているようだけど、私からすれば赤子も同然。私の存在に気がつけなかった時点で、力の差ははっきりと分かっていたことだけどね」

 そう告げた少女は巨大な槍を軽々と操ると、団長に対してある提案を持ちかけてきました。

「お前の馬鹿力でふるう弱い武器と、私の強い精神が生み出す武器。比べるまでもないのだけど、一度だけチャンスを上げる」
「なんだと?」
「元人間のお前に相応しい、“決闘”という形を取ってあげるって言ってるの。普通に戦ったんじゃ勝敗は目に見えているもの。武器はどんな風に使っても構わない。先に相手に一撃を与えた方が勝ち。どう?」

 それは遊びでも誘っているかのように軽やかな口ぶりでした。
 いえ、彼女にとっては、単なる遊びでしかなかったのでしょう。
 歪んで見えた笑みも、その一瞬だけは見目相応の無邪気な子供らしいものに感じられました。

「先に一撃? つまり私がお前に一太刀でも浴びせた時点で私の勝ち、と。それでお前は負けたらどうするつもりなんだ」
「何もしやしないわ。ここまで譲歩してあげているのに、これ以上何を望むつもり? まさか、お前の命と私の存在が同等なんていう勘違いを、まだしているのかしら?」
「いいや。お前と私が同等など言うつもりは毛頭無い。――何故なら、私の方が上なのだからなああああああっ!」

 団長は決闘の合図もせず、少女に向かって飛びかかっていきました。
 しかし少女は全く動じる様子も見せず、やれやれと肩をすくめながら呟いたのです。

「そんなせこい真似をしなくても、始めるタイミングは最初からお前に譲るつもりだったわよ。そうでなきゃ面白くないからね」
「その傲慢な口、すぐにたたけなくしてやろう! お前達純血種が蔑む“なり損ない”の手でな!」

 右腕に構えた青竜刀を、団長は少女めがけて投げ放ちました。
『武器はどんな風につかっても構わない』
 その口約を利用して、団長は飛びかかると見せかけて先制攻撃を仕掛けようとしたのでしょう。
 人間離れしたその腕力で放たれた刃は、閃光のように少女へと向かっていきました。
 しかしそれを読んでいたのか、少女はサイドステップで右に飛んであっさりと交わしたのです。
 ですが、そこにはすでにもう一降りの青竜刀を袈裟懸けの体勢に振り上げた団長が迫っていました。
 団長も、少女が避けることをあらかじめ読んでいたんです。

「一撃はもらったぁっ!」
「なにか言ったか?」
「え?」




『不夜城レッド』――――




 少女の手にすでに鮮紅の槍は無く、紅い光はその体全体から迸っていました。
 両腕を左右に伸ばしたその姿は、さながら紅い十字架。
 あれ? 吸血鬼って十字架が苦手なんじゃなかったっけ?
 私はそんなことを考えながら、ただ目の前に広がる紅い光に目を奪われていました。

 今までこんなに純粋な力を見たことがなかった。
 これだけの力を持ちながら、その魂は高貴で全てを従わせるに相応しい高潔さも秘めている。
 なぜ彼女が自分たちのことを、もっともらしく“純血種”と呼ぶのか。その理由が分かった気もしました。

「言っただろう、『武器はどんな風に使っても構わない』と。私の武器は私自身。不用意に近づいた時点で、お前は負けていた」
「ひぎ、ぃぎゃああああああああっ!!」

 真紅の炎に包まれながら、団長は甲高い断末魔を上げました。
 穏やかな団長の顔も、残虐な吸血鬼の顔もそこにはなく、あったのは死への恐怖に悶え苦しむ一匹の獣としての恐怖に満ちた顔でした。

「苦しいか? 苦しいだろうね。お前達のようななり損ないにとって、十字架に磔にされているも同じだから」
「ぐ、が、があああああああああぁぁぁぁっ!!」

 消えない炎に苦しみのたうつ団長は、声にもならない声を出しながら私の方へと転がってきました。
 視覚以外の感覚を自失していた私は逃げることもできず、彼の苦しむ様を間近で見つめることしかできませんでした。

「メイ……リン、わたし、を、たすけ……ろ」

 団長は声を絞り出して、自分を見下ろし呆然としている私に向かってそう言いました。

「浅ましい。最後の最後まで吸血鬼の名を汚すか。自分が誇るべき種であると喜ぶくらいの姿を見せれば、私の記憶に刻んでも良いと思ったのに」
「うる……さい。ひとを、かってに……こんな存在に、かえておき、ながら」

 哀れみなんてこれっぽちの欠片も見せず、ただ冷徹に蔑みの視線を向けてくる少女に、団長は憎悪に満ちた言葉で返しながら、再び私の方へと首を動かしました。

「メイリン。このまま、だと、おまえも消されるぞ」
「あら、よく分かっているわね。腐っても人間の知恵が残っているだけのことはある。そうよ、私の名前を汚す真似をした者は誰であろうと許さない。たとえ、その首謀者以外の連中は利用されているだけだったとしてもね。『無知は罪なり』。これは人間の言葉でしょ? だったら、その言葉には従ってもらわないと」
「この、悪魔め……」
「何を分かり切ったことを。もうお前の戯れ言を聞くのは飽き飽きよ。さっさと消えてしまいなさい」

 冷淡に告げると、少女はその手に鮮紅の槍を持ち、それを死にかけている団長に向かって躊躇うことなく突き刺しました。
 紅い炎に包まれた団長の体はいっそう燃え上がり、その肉体はあっという間に灰となって、最期の言葉も残すことはできませんでした。

 その白い灰がすきま風に運ばれて消え去るまで、私は紅い悪魔を目の前にしてただ立ちつくしていました。
 悪魔の少女もまた、何を言うでも、何をするでもなく、私をジッと見つめるだけ。
 初対面の時と同じ形で向き合ったまま、私達は一体どれくらいの間そうしていたか分かりません。

 この騒ぎは明らかに他の団員にも聞こえていたはずです。
 それなのに誰もやって来なかったのは、きっとそういうことだったのでしょう。
 でも、私は悼むことも、涙することもありませんでした。すぐ目の前で仲間を団長に殺され、その団長すら殺されたのに。
 今なら、仲間の死を悲しむ涙の一つくらいは流せますが、その時の私には目前の少女しか頭になかったんです。

「あなた、名前は?」
「ん? “お嬢ちゃん”じゃ不服?」
「不服です。殺されるなら、殺す相手の名前を刻んでから殺されたい。名前も知らない悪魔に殺されたんじゃ、死にきれない」

 いつの間にか、私の中から彼女に対する恐怖は消えていました。
 いえ、怖くなかったと言えば嘘になります。少しでも気を抜けば、私も団長と同じ目に遭うと分かっていましたから。
 それでも、私がそうして気概を保っている限り、彼女も手は出してこない。不思議とそう理解もしていました。

「良いわ。あのなり損ないよりもずっと面白い。そうね、あんたになら教えてあげる。私の名は――」



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 美鈴の口から告げられた名前は、咲夜もよく聞き慣れたものだった。
 途中から、というか、その少女が現れた時点でもう正体はわかってはいたのだが。

「なるほどね。それでお嬢様と出会って……あれ? その流れでどうして門番になってるのよ」
「あの後、私も決闘をして、そして負けたんですよ。それで私の命はお嬢様のものになったんです」

 からからと朗らかに笑いながら美鈴は一言で済ませた。
 そこから先は美鈴にとって話すに値しないことだということ、もしくは話してはいけないことなのだと、咲夜は瞬時に理解した。
 まだ彼女が自身が妖怪だと気づくまでの話にも興味はあったが、これ以上は野暮というものだ。
 咲夜は立ち上がり、埃を払うとそんな様子を見せることなく、淡泊に感想を述べた。

「そう。貴方も色々苦労したのね」
「えへへ、まぁ何百年と生きてきたら、色々ありますよ」
「だからって、今サボって良いというわけじゃないのよ?」
「あぅ……」

 笑顔から一変してしょぼくれる美鈴。
 その感情の変わり様は、自分よりもずっと人間らしいと、咲夜は思った。
 それだけ長く妖怪として生きたなら、人間らしさなんて失いそうなものだが、美鈴はそうならなかった。
 一体何が彼女をそうさせたのか――それを彼女の口から聞ければ一番だが、もうそれは良い。終わったことなのだから。

「たくさん話して眠気も吹き飛んだでしょう。私はそろそろお嬢様が起きる準備を始めるから、とにかくもうサボらないこと。良いわね」
「りょ、了解しましたっ!」

 ビッと敬礼をしてみせる美鈴に、咲夜は軽く溜め息を吐きながら屋敷へと戻っていった。
 もうすぐ夜の帳が世界を包む。
 白い月が顔を出せば、館の主も目を覚ますことだろう。その前にするべき仕事はすべて終えておかなければ。

 咲夜はスカートのポケットから古びた懐中時計を取り出すと、その秒針を見つめた。
 青い瞳が妖しく紅く輝くと、その秒針が動きを止める。
 凍り付いた色のない世界の中、唯一色を持つ咲夜は仕事を始めた。 


 そして、夜――――


 その部屋は主の嗜好に合わせて、すべての調度品が紅で統一されている。
 ベッドシーツの白も、生き血で染めたかのような紅い布団に隠されているため、一部しか見ることができない。
 咲夜はキャンドルを灯しながら、そこへ向かって優しく声を掛ける。

「おはようございます。お嬢様」

 布団がもぞもぞと動き、枕の部分に銀色の頭がひょっこりと飛び出した。
 寝返りを打つと、その銀色の髪の毛がよく似合う、美少女の寝顔が現れる。
 布団の脹らみも小さく、どこから見ても幼子の寝起きにしか見えないが、彼女こそがこの紅魔館の主――レミリア・スカーレット、その人、いや悪魔である。

「んー、もう夜ー?」
「そうですよ。雲も少ない良い月夜です」

 耳元で囁かれたレミリアは、くすぐったそうに顔を動かすと、閉じていた目蓋を開いて紅い瞳を露わにした。
 咲夜はあくまでもレミリアが自分から起き上がるのを待ってから、着替えの手伝いを行う。
 まずは寝乱れた銀糸の髪を梳くところから。
 とても細くて、ともすれば千切れてしまいそうなまでに繊細な髪を一本一本、咲夜は丁寧に梳いていく。
 レミリアはというと、心地よいのか、それともまだ眠いのか、目を細めながら咲夜に身を任せている。

「そういえば、お嬢様。美鈴のことなんですが……」
「なぁに? また居眠りでもしていたのかしら。それとも花壇に水をやり忘れた?」
「前者です。まったく、困ったものですわ。自分が紅魔館の門番であるということを、もっと自覚してもらわないと」
「それなら心配ないわ」
「え?」

 意外な返答に咲夜は思わず驚き、櫛を強く動かしてしまうところだった。
 そこは瀟洒な従者としての面目躍如。大事なお嬢様の体、髪の毛一本とて傷つけずに事なきを得る。

「その根拠は?」
「あの子が人間らしさを失っていないこと。それだけであの子はここの門番であることをやめはしないわね」
「人間らしさ……ですか。そういえば、美鈴はお嬢様との決闘に負けて、その命を握られて門番になったのでしたわね」
「は? 誰から聞いたの、その話」
「美鈴本人からですけど?」

 するとレミリアは、せっかく梳いてもらったばかりの髪の毛をぐしゃぐしゃとやりながら、溜め息を吐いた。
 その様子から感じられる感情は「呆れ」以外の何ものでもない。

「ったく、そういうところが人間くさいって言うのよ」
「本当は違うんですか? お嬢様がなり損ないとやらを退治して、そこで殺されそうになった美鈴と対峙したのでしょう?」
「うん? そこまでは聞いてるのね。じゃあ話が早いわ」

 また一からやり直す羽目になった髪の手入れをしながら、咲夜は主君の口から紡がれる物語の続きに耳を澄ました。



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「私の名は『永遠に紅い幼き月』――レミリア・スカーレット。この血と同じ深紅の冠する夜の王よ!」

 名前を聞かれたから答えてあげたのに、あの子は自分から名乗ろうとしなかった。
 私への警戒を保つのに必死だったわね。
 仕方がないから、私はこっちから話を進めてあげることにしたの。

「どう、今度こそ満足した?」
「……はい」
「良かった。それじゃあ、さっそく始めようか」
「はじ……める?」

 これだから理解力の足りない頭は。
 もどかしさを抑えながら、私は紳士的に教えてあげたわ。

「決闘よ、決闘。あんたは骨がありそうだけど、所詮私の敵じゃないもの。そうね、ルールはさっきと同じで。もちろん開始のタイミングもあんたからよ」

 あの子はしばらく考えをまとめるために黙っていたけれど、やがてその口を開いて答えた。
 その返答は私が期待していたとおり、面白いものだったわ。

「わかりました。でも、タイミングは同時です」
「へぇ。それで、武器は?」
「要りません。私も貴方と同じで、自分自身の肉体が武器ですから」

 そう、野暮ったい服に身を包んではいたけれど、節々から感じ取れる筋肉は黄金律に鍛え上げられていて、その内を流れる気すら落ち着きを感じさせていたわ。
 私の正体を知り、力を間近で見たことで、冷静に私への見方を瞬時に切り替えてもいる。言葉遣いが変わったことからも、それは覗えた。
 どんな凶暴な猛獣よりも、その静謐な落ち着きは対峙するに値するの。
 目の前にいるのが、その持ち主であり、私に敵意を向けてくる。
 それだけで私の感情はとても昂ぶったわ。

「ふふっ、アハハハハハハッ。良いわ良いわ、やっぱり最高。こんな生きの良い獲物はいつ以来かしら」

 楽しい。あぁ、楽しい! なんて心地よい瞬間!
 私は力を拳に溜めて、腰を落とした。
 あの子もすぐに同じような体勢を取り、私達の舞台は整った。

 どちらも自分からは動かず、互いに動き始める瞬間を狙って隙を窺っていた。
 あの時のあの子の目と来たら、咲夜にも見せてあげたかったくらいだわ。
 ぞくぞくするような、狩るものの目。あんな目で睨まれてみなさいな、並の人間なら魂を持って行かれるわよ。

 そして、テントの中に灯された篝火が火花を上げた瞬間、私達は同時に地を蹴った。
 まるで時が止まったような空間の中、私を自身の紅い力をまとった拳をあの子の顔めがけて打ち放ったの。
 もちろん完全に壊すつもり満々の拳をよ?
 それをあの子はどうしたと思う?

「うっそ……」

 手加減していたとはいえ、壊すつもりで放った私の拳を、あの子は右手だけで受け止めたのよ。
 その衝撃は信じられないほどの快感となって私の全身を駆け回ったわ。

 あの子にしてみれば、自分の命が掛かっている。死ぬ気で掛かってくるからこその本気。
 最初はそう思っていたけれど、どうやらそうではなかったみたい。
 あの子の目はずっと狩る側の輝きを放ち続けていたからね。
 その眼を見た瞬間、そして私の拳が受け止められたという事実から、私はあの子の正体と、この力の出所を理解した。
 最初に見た時にも、この子は私に似た存在じゃないかと思っていたのだけど、私を子供扱いしたり、雰囲気や気配が人間そのものだったから、勘が狂ったのかと思っていたわ。
 でも、やっぱり私の見立ては間違ってはいなかった。

「破ァッ!!」

 私の拳を受け止めたあの子は、空いているもう片方の拳を私の頬にたたき込んできた。
 避けられなくもなかったんだけど、その時の私は嬉しくてどうしようもなかった。
 気づいた時には、鈍い衝撃と共に、私は地面に倒れ伏していたわ。

「っはあっ、ハアッ、ハアッ……」

 たった一瞬の攻防に、あの子は全精力を使い果たして、肩で息を切っていた。
 生き残ることよりも、私に勝つことを優先した結果よ。

「やってくれるじゃないか」
「一撃は一撃、ですよね。あなたの攻撃は受け止めましたから。まさかあれもカウントされるとか言いませんよね?」
「いいえ、そんなケチは付けないわよ。決闘の勝者は……」
「あなたです。レミリア」
「は?」

 私は耳を疑ったわ。もしくは頭が理解力を失ったのかってね。
 だってルール通りなら、どう考えたって勝者はあの子の方だもの。

「今の一撃でよく分かりました。私がどれだけ本気を出しても、あなたの実力には届かない。決闘には勝ちましたが、あなたには負けました」
「物分かりが良いのは構わないけど、この場合どうなるの。あんたは決闘に勝ったから私には殺されない。でも、あんたは私に負けた」
「うーん……そうですね」

 今の今まで骨肉の争いをしていたのに、もうその顔にはあの猛々しい獣の目も、最初に私に見せた恐怖も浮かんではいなかった。
 代わりにあの子は、ぽやぽやとした見ているだけで毒気を抜かれる呑気な顔だったわ。

「あ、じゃあこうしたらどうでしょう。私の命をあなたに預けます」
「それで良いの?」
「良いも何も……決闘の結果を曲げることも、敗北を認めた相手に甘えることも私はしたくありません。人間である私にできることは限られますが」

 そこで私はもう一つ、あの子が何かとんでもない思い違いをしているということに気がついたの。

「人間って……ただの人間が私の拳を受け止められるわけないわよ」
「え? まぁ、他の人より鍛えてますし、気の流れとかを読んだり独特な技術は心得てますが、それ以外は普通の人間ですよ」
「いやいやいやいや。ちょっと待った」

 私はへたり込んでいるあの子に近づくと、その両肩を掴んで顔を引き寄せた。
 キョトンとしたまん丸の目は嘘を言っているようには見えなかった。
 あれだけの力を私に見せて喜ばせておきながら、頭の方はお花畑が広がっているような子だったとは、思いもしなかったわ。
 私はその落胆を溜息に乗せて吐き出しながら、あの子に教えてあげたの。

「どれだけ鍛えようと人間の肉体には限界がある。だから私はその限界は容易く壊す程度の力で殴りかかったんだ。それを受け止めたあんたが“人間であるはずがない”のよ」
「え? えっと……」
「さっきあのなり損ないがあんたに助けを求めただろう? なり損ないとはいえ、吸血鬼が人間如きに助けを求めるはずがない。あいつはあんたの正体を知っていたんだ」
「正体って……」
「あんたも私と同じ――いや正確には種族は違うけど――人にはあらざる存在だということよ」

 1秒、2秒、3秒――――


「ええええええぇぇぇぇっ!?」


 やっぱり気がついていなかった。
 私は両肩に置いていた手を下ろして、腕を組んで考えたの。
 この目の前にいる、自分を人間だと思い込んでいたお馬鹿さんをどうしたものか、とね。

「で、でも、団長は私のことを人間だって言っていましたよ?」
「それは人間だと思い込ませておいた方が何かと都合が良いからだろうね。あんたからは人間の臭いしかしないし、その勘違いぶりからして、人間として今まで生きてきたんだろう? 私も、あんたは人間にしか見えなかったくらいだし。」
「人間としてって……私は」
「まだ人間だと言い張るつもり? だったらあんた、親はどうしたの。人間なら親が居るものよ」
「親は……育ててもらった親なら」
「私が言いたいのはそういうことじゃないことは分かっているようね。……そう、あんたは人間の肉体から生まれたのではなく、人間の精神から生み出されたの」

 私達のような存在は、なり損ないのような特殊な例を除いて、人間達の恐怖や想像が集合して意識を持ち、人間達に認識されることによって生まれる。
 だから人間には恐れられるだけの力を生まれながらに持つ。
 私としては、人間がいないと生まれることも、存在することもできないってのは、癪に障る話以外の何ものでもないんだけど、まぁ今は関係のない話ね。

「……分かりました。あなたの言うことを信じます。これまでも、どこか自分が人間であることに不安のようなものを感じたことがないわけじゃない。その答えにようやく辿り着いた、そんな気がします」
「別にそんな大層な話じゃないよ。それで、やっぱりさっきの話はあのままで良いの?」

 さっきのっていうのは、決闘の勝敗の結果のことよ。
 あの子は自分の正体を知って、“人間”ではなくなった。私は人間を殺すつもりで、そこに来たから、そうなってしまうともうあの子のことはどうでも良くなっていたわ。
 相手をする分には面白いけれど、もう勝負をする理由はなくなったからね。
 でも、あの子は朗らかな表情を引き締めると、真摯な色を瞳に浮かべて私にこう言ったの。

「えぇ。覆すつもりはありません。むしろ、今の話を聞いてより決心が固まりました」
「どういうこと?」
「私は、やっぱり人間です。存在は人間で無いけれど、私は人間です」
「わけがわからないわ。自分から弱いと認めているようなものじゃない」
「そうです。私の命があなたの物である以上、あなたよりも弱い私は、この弱さを認めるためにも人間として、あなたに付き従います。私の存在を確たるものにしてくれた。その恩義を返したいんです」

 覚悟を決めたあの子の考えを曲げることは誰にもできない。
 何よりも強い精神こそが、本当の強さとなり得ることは、精神から生まれた私が一番よく知っている。
 そして、あの子が固い決意を抱くのには、もう一つ大事な理由があった。

「わかったわかった。そこまで言うなら、うちの門番として雇ってあげるわ。で、あんたの名前は? メイリンって呼ばれていたけど、妙なニックネームね」
「あだ名ではありません。私はこの国の生まれじゃないんです。『ホン メイリン』。私の国の文字で『紅美鈴』と書きます」

 美鈴は地面に自分の名前を書いて見せたくれたけど、馴染みのない複雑怪奇な線の羅列にしか見えなかったわ。

「ふぅん。ややこしい文字ね。何か特別な意味があるのかしら」
「『美鈴』は美しい鈴。『紅』は紅を意味します」

 紅――!

 スカーレットの屋敷に仕えるのに、これだけ似合う名前もない。
 まるでこうなることが“運命”だったかのよう。
 あの子はその名前が、自分の髪の色から付けられたことも話してくれたわ。そしてこう言ったの。

「私の国で、この色は『忠義』を意味します。私の名前、そしてこの髪に賭けて、あなた……いいえ、お嬢様の盾となることを誓いましょう」



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「そう言って、あの子は自分の髪を一房切り落として私に差し出したのよ。忠誠の証としてね」

 もうその頃の面影が残らないほど伸びているけどね、とレミリアは付け足した。
 長い睫が伸びた両眼を伏せてしみじみと呟くその言動から、咲夜はレミリアも心の底から美鈴を信頼していることを理解する。
 普段はどうでもいいような扱いで振る舞ってはいるけれど、その奥には外からは見えない確固たるものがあったのだ。

「それが真実……だったんですね」
「私は嘘を吐かないわよ。あの子が誤魔化したのは、やっぱり“人間”だからだろうね」
「なるほど。貴重な話をありがとうございました」

 すっかり身支度が調ったレミリアはベッドから降りた。赤い靴が赤い床をトンと鳴らす。
 先に入り口の扉を開き待つ咲夜の前を通り過ぎ廊下に出ると、その顔を月明かりが照らし出した。
 満月ほどの輝きはないが、この光を浴びていると体中に力が満ちていくのを感じる。
 体が目覚めてくると、次はそれを動かすための活力を欲するのか、レミリアのお腹が小さな音を立てた。

「話していたらすっかり時間が経ってしまったわね。そういえば、今日のブランチは何かしら」

 空腹を伝えるだけでも、優雅な振る舞いを見せる主の横顔を見つめながら、咲夜は叱り飛ばした門番のことを思い浮かべていた。
 あの脳天気な笑顔の裏には、主君からここまで信頼を得るだけの忠義が隠されていたのだ。

 風になびくあの長い髪。そして、その身に冠する名。
 主人が最も好み、また主人もその名に冠している色。
 その色に隠された、彼女と主の間にある見えない繋がりを知ることができた。
 だから、今日くらいは大目にみてあげてもいいか、と咲夜は心の中で独りごちながら、主の問いに答える。

「今日のお食事は――カニ玉炒飯です」

 ……ただし、ちょっぴり悔しいから、あの子の分だけカニは少なめで。


《終》


☆後書☆

 第七回東方SSコンペに出展した作品です。テーマは『色』ということで、
 最初は光の三原色と三月精を絡めて、ルナチャイルドに緑の衣るを塗りたくるお話を考えていたんですが、
 どうにも書いてて楽しくなかったので、予定を変更して、もう一本考えていたこちらに尽力を注いだ次第です。

 色について色々調べていたら、紅にまつわる信義の意味を知って、そこからこの話は生まれました。
 美鈴の忠誠心、東洋っぽい妖怪である不思議、などなど美鈴考察的な内容になってしまいましたが、
 書きたいことは全部書けたので満足ですw

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